須貝先生と私

 高校に合格した私は何か楽器をはじめたいと思っていた。二歳年上の兄がフルートを習い始めた年齢に達していた。しかし待てよ、同じ楽器ではつまらんよなあ。兄の真似をしようとしているのかいないのか、素直なのかひねくれているのかよくわからない私であった。須貝先生はいいぞ、リコーダーも教えてくれるそうだからリコーダーをやったらどうだ、との兄の言葉にリコーダーの何たるかを知らないまま同意した私はやはり素直であった。かくして兄と同門になった。

 毎週日曜日午前10時のレッスンが始まった。音譜も読めない、リズムもとれない私はいったい何をしているのか、自分でも全然わからなかった。アルトリコーダーで、ミレドーミレドーミーレレドーと二本の指しか動かさない曲を何か月もやったような気がする。それでも須貝先生は困った顔も怒った顔もせず(のような気がする)、実に根気良く教えてくれた。根がのんきな私はちっともめげずに通ったものだ。秋の発表会のデビュー曲は忘れもしないバッハのメヌエット。心配した先生はバスリコーダーで伴奏をつけてくれた。ステージの上で初歩的な曲を演奏し終わった私は、照れ隠しにポリポリと頭をかいた。

 その後半年もしてからだろうか、眼から鱗の落ちる日がやってきた。突然リコーダーというものが見えてきた私は猛然と吹きはじめた。面白くてたまらなくなった。先生はすぐ言った。「私にはもう教えることがないから東京の多田逸郎先生のところへ行きなさい」  今にして思えば、こうなる日を先生は待っていてくれたに違いない。先生の配慮に今さらながら頭の下がる思いである。

 しかし家族の反対にあった私は、ひき続き先生のところに置かせてもらうことにした。その後は当時小学校4年か5年だった若林健君らの代稽古をさせてもらったりした。音感が鋭く利発な少年は、「先生(当時彼は私をこう呼んだ)、音が合ってないよ」とよく私をやり込めた。そうか、これが須貝先生が私のために考えたレッスンなのだな、と妙に納得した私であった。

 高校3年になり受験勉強のため先生の許を辞した後は直接教えを乞うことはなくなった。しかし生涯の楽しみを教え、はじめて学校生活以外の社会を垣間見るチャンスを与え、その後の私自身の子育ての参考になる「習うも忍耐なら教えるも忍耐」を身をもって示した先生は、私にとって永遠の師である。

 今でも巻町のエチゴビールに行ったからと、ふらっと地ビールを届けて下さるなど、気さくな先生である。いつまでもお元気でフルートを吹き続けていただきたいと願っている。