モーツァルト以前の音楽 |
〜その3〜
装飾音について |
K.13 丸山友裕
モーツァルト以前の音楽について語ってきたこのシリーズも最終回です。
世の中というものは進歩していると思いがちですが、そうばかりともいえません。
飛行機であっという間に地球の裏側にいったり、皆が車を所有できて、夏は暖房、冬は冷房、じゃなかった、夏はクーラーのきいた部屋で快適に過ごせたり、これすなわち幸せ、と高度経済成長のときは信じていました。
しかし、時折テレビで見かける、中央アジアやアンデスのまだ経済的には発展していない地域の人々の顔。笑顔にあふれています。それに引き替え、街で見かけるサラリーマンのあの苦渋に満ちた顔。ま、私もサラリーマンですけど。不況とはいえ、住む家もあって、車ももっている人が、あばら家に住み、裸足の人達より不幸なのでしょうか。ひょっとすると本当に不幸なのかもしれません。逆に、犬や猫は一生財産をもたない訳だけど、人間より不幸なのでしょうか。
科学の発達、経済の成長は人間に幸福をもたらすと思われた20世紀ですが、その結果、氷河期と2度しか違わない地球の平均気温が0.6度も上昇し、オゾン層には穴があき、それでもまだ人々は経済成長すべきだと言っています。まだまだ可逆性と思っている環境の変化が、坂道を転げ落ちるように歯止めが効かなくなる日もそう遠くないかもしれません。
私はよく子供にいいます「貧乏は金では買えないよ」と。半分ジョークですけど。私の尊敬する将棋の米長邦雄元名人は「惜福」という言葉を使います。 話が大きくわき道にそれました。
何でこの話が出たかというと、私が一番音楽に興味をもち、真剣に取り組んだ高校、大学時代、日本は経済成長の真っただ中でした。この頃の風潮は、新しいものはより進歩し、完成され、レベルが高く、古いものは未熟であったというものでした。
音楽でも同様です。NHK-FM放送の音楽番組の解説で「モーツァルト時代のファゴットは、まだお粗末なものでした。」といったアナウンサーの声はまだ忘れません。
また、譜面づらの単純なバロック音楽はレベルの低いものと思われていました。その一つに、ピアノやヴァイオリンの教則本で初歩段階にバロック音楽を教材に使うという事があります。私が高校生の頃、NHK教育テレビの「バイオリンのおけいこ」という番組で、江藤俊哉氏があの有名なコレルリのへ長調のヴァイオリンソナタのガボットを生徒に弾かせ、「はい、スタッカート!」と、およそ非バロック的な演奏を指導しておりました。彼に悪気はないのですが、モダン奏法におけるスタッカートを指導するために、教材としてコレルリを選んだ訳で、コレルリ自身の音楽はどうでも良かった訳です。私は高校生ながらとても悲しく、絶望的な気持ちになりました。そのようにして教えられた生徒は、一生コレルリを単純な、原始的な音楽と思うことでしょう。余談ですが、最近の教育テレビの山下洋輔氏の「ジャズの掟」や中西俊博氏の「バイオリンは友達」は一つの完成されたスタイル、モードとしての音楽が良く啓蒙されており、隔世の感がありました。だいたい小学校で「バッハは音楽の父」、「ヘンデルは音楽の母」なんて、今でも言ってるんでしょうかねえ?これは「それ以前は音楽がなかった」と言っているのと同じですよね。今さら「ブクステフーデは音楽のおじいさん」なんて言わせませんよ!
なかなか肝心の装飾音の話になりませんね。
バロック時代の特にイタリアの音楽において、装飾音つまり「楽譜に書かれていないけど出す音」はすさまじいものでした。いってみれば現代のジャズと同じです。ジャズの楽譜は、旋律とコードネームしか書かれておらず、場合によっては旋律もなし。楽譜を読めないプレーヤーもいます。その楽譜だけを見て「これは原始的な音楽だ」とは誰も言いません。ところがバロックの場合、ジャズに比べて楽譜がかなりしっかり書かれているため、さらに装飾音が付け加えられるという事実に気付かれていないことが多い様です。
バロック時代のイタリアでどのような装飾音が付け加えられていたかを知るには、コレルリが自分自身のヴァイオリンソナタに書き込んだ装飾音をみればある程度推測出来ます。しかし、「音型」はわかりますが、実際の演奏まではわかりません。つまり楽譜の陰に隠れた当時の演奏習慣、ルバートの仕方、ビブラートの有無まではわかりません。
この点で、実はあのバッハが貴重な資料を残しているのです。バッハ自身はイタリアに行ったことはありません。しかしイタリア音楽には精通していたようで、当時のイタリア音楽のコロラトゥーラ、トリルのみならず、演奏されるべき姿としてのテンポ・ルバートまで書き込んだ楽譜を出しています。例えば「イタリア協奏曲」の2楽章がそうです。右手の描く旋律はよく見ると付点四分音符に続く八分音符を骨格としています。その旋律に絡み付くようにあのバッハ独特の十六分音符と三十二分音符の組み合わさった音型が見られます。これがイタリア独特のコロラトゥーラ。そして一見、アウフ・タクトと次の小節の頭の音がタイで結ばれたような音型。これは次の小節の主要音に付くモルデントの前打音が、バスの音より先取りされるべき事を示しています。また、一見シンコペーション風に書かれたところも、十分にルバートした結果生じる不協和音を際立たせるべき事を示しています。
おそらく、イタリア人達は、楽譜にこんな面倒くさいことは書かず、自然に演奏で行っていたと考えられます。つまり楽譜と実際の演奏は異なっていた訳です。そこでコレルリ自身の書いた装飾音にもう一度立ち戻って見ます。これを現代的に、正確に演奏した場合にはバッハが記載したようなテンポ・ルバートは生じず、この「正確さ」に意味のないことがわかります。その解釈には現代の常識を当てはめるのではなく、当時の演奏習慣に対する深い洞察が必要とされます。バッハはこのような洞察を与える資料を残した訳ですから、その点でも偉大な人でした。
以上三回にわたってお届けした「モーツァルト以前の音楽」は如何だったでしょうか。独断と偏見に満ちていたかもしれません。まだ書き足りないこともたくさんあります。音楽を歴史の後ろ側から見ていったという点で、面白かったのではないかと思います。
私自身は、高度経済成長にあって古いものは未熟だという風潮に強い反発を覚えていました。音楽は「進歩」するものではない、その時代のパッションだ、時代のモードだ、この考えを証明するためにここまでやってきたのかもしれません。その意味では過去のものではなく、自分の生きる時代の音楽をいきいきと演奏する人が音楽家としては一番幸せかもしれません。