羽生竜王との対局


 平成5年のことです。日本将棋連盟の棋士派遣プロジェクトで、当時四冠王だった羽生竜王が小中学生との百面指しのため私たちの住んでいた富山を訪れることになりました。百面指しというのは、同時に百人を相手に将棋を指すというものです。

 プロ棋士がアマチュアを指導するときに、多面指しといって複数の人と同時進行で将棋を指すことがあります。しかし、せいぜい5面指し、つまり5人相手が限界で、百面指しとは、ギネスブック級の企画です。

 この企画を知った将棋好きの私は、3人の息子に羽生先生との対局を申し込むように言いました。何せ羽生竜王といえば後に史上初の七冠王に輝く、歴史に残る大棋士です。百面指しだろうが、ハンディ付きだろうが、対局できただけで一生の財産です。しかし子供たちは、

「負けるのは嫌だ」

といって聞きません。わたしは言いました。

「おまえたち、大丈夫だ。駒を落として貰えば勝てる。」

駒を落とすというのは、上位者が下位者と対局するときに、ハンディを付けるために、少ない駒の数で闘うことです。子供たちは言いました

「なるほど、じゃあ飛車や角を落として貰うんだね」

「そうだ。でも、いっそのこと飛車も角も金も銀も桂も香車もなしで、王様と歩だけでやって貰え。そうすれば勝てる。」

子供たちは少し心を動かされたようでしたが、まだ不安そうです。

「よし解った。もし勝ったら賞金を出す。王様と歩だけで勝ったら3000円、それより少ないハンディで勝ったら、5000円だ。」

お年玉でもこんなに貰ったことのない子供たちは、とたんに目を輝かせて申し込む決心をしました。

 当日、子供たちはそれぞれの作戦を胸に会場に向かいました。受け付けで、何と3人とも

王様と歩だけでやってください!

と言いました。私は少し恥ずかしくなりました。係の人の

「せめて、金と銀は付けて貰わないと困ります」

の言葉で6枚落ちに手合いは決定しました。他の多くの子も6枚落ちです。

 いよいよ対局です。羽生竜王は驚くべき早さで指して行きます。見ていると、相手によってはセオリーに反してわざと守らずに乱戦に持ち込んでいます。百人相手の将棋を時間内に終わらせるための驚くべき作戦に改めて感服しました。

 結果は長男健太郎は勝ち、次男康太郎と三男翔太郎は惜敗でした。百人中勝者は30人ほどで、その多くが将棋道場で専門的に習っている子供ですから健太郎は得意満面です。

 さて、その夜のことです。テレビのニュース番組に三人の姿とその後ろから将棋盤に手を延ばしている妻洋子の姿が写りました。アナウンサーの解説

「中には熱心に指導している母親の姿も見られました」に、わが家は大爆笑でした。何故ならそれは、将棋を全然知らない洋子が裏になった駒を持ち上げ、

「この変な模様の駒って飛車なの?角なの?」といっている場面だったからです。

「本日の回文」

「いよっ!羽生は強い」

(いよつはぶはつよい)