好きな訓え  「水の五則」 ・・・・作者不詳・黒田如水の作との説もある

 

一 みずから活動して他を動かしむるは、水なり(自分から実行する)

二 常におのれの進路を求めてやまざるは、水なり(淀んだ水は腐る)

三 障害にあって激しくその勢力を百倍し得るは、水なり(エネルギーは障害に比例して大きくなる)

四 自ら潔くして他の汚濁を洗い、清濁あわせいるる量あるは、水なり(泥水の汚れは泥水で洗う)

五 洋々として大海をみたし、発しては霧となり、雨雪と変じ、あられと化す。凍っては、玲ろうたる鏡とな 

  り、しかもその性を失わざるは、水なり(人間の心はよく変わるが、その本性に変わりは無い)

 

贔屓にしたい名将 黒田官兵衛(如水)・・・ルーツは北近江黒田地区

  滋賀県伊香郡木之本町黒田字保崎谷の村外れ、山すそを小道に沿って周るとえんじ色の屋根の観音堂観音寺の千手観音菩薩(重要文化財)がある。10年前までは秘仏であったが、現在は17人の村人が1年交代でお堂の管理をし公開〔拝観料500円)している。

この境内に保崎谷長者の墓碑(黒田官兵衛の祖と伝えられている)が境内に苔むしている。

北近江は豊臣秀吉出世の地である

この秀吉が天下人となったのは秀吉の名参謀「黒田官兵衛」の力である。

官兵衛は、信長に反旗をひるがえした友人荒木攝津守を、有岡城に説得に入ったまま1年間(滝川一益が城を落とすまで)牢獄に幽閉され瀕死の病人となったが秀吉への忠誠心変わらず、節を守り通した意志堅剛の武士である。

本能寺の変の時、秀吉は備中高松城攻めの最中であったが、急ぎ大返しのうえ明智光秀を討つ弔い合戦を仕掛け秀吉を天下取りにしたのは策士黒田官兵衛(このとき36歳)の力である。

黒田官兵衛の祖は佐々木源氏の庶流で代々(滋賀県伊香郡)北近江黒田地区に居住していた。黒田高政の代に足利10代将軍義稙(よしたね)の怒りにふれ黒田地区を去る。

その子重隆の時代に播州姫路(兵庫県)に居住している。このころ黒田家家伝の効験ある「目薬」を売り出しており、これが薬効著しく大人気となり財を成したといわれる。

重隆の一子甚四郎満隆の時代御着の小寺家に仕えた。満隆は明石城主の娘と結婚、主席家老として姫路城で仕え、後年官兵衛が秀吉に仕えるまで小寺姓を名乗っていた。

天文15年満隆の子万吉丸(後の如水入道)が生まれている。万吉丸は17歳で官兵衛孝高と改め、23歳の時夫人櫛橋が男児(後の黒田長政)を出生している。

天正17年、42歳のころ官兵衛孝高は「水は方円の器に随ふ」「身は褒貶毀誉(ほうへんきよ)の間に在りと雖も、心は水の如く清し」の二つの古語から取って如水円清(じょすいえんせい)と号し隠居している。

官兵衛は、水のように生き、水のように他と接して生きたいと願っていたものと思われます。

 

 

湖北(琵琶湖北部)の美しい国です

・ 関西の人々は琵琶湖の水で生活をしています。琵琶湖畔にある渡岸寺の国宝十一面観音菩薩は左手に宝瓶(水の入った瓶)をお持ちで、琵琶湖に向かって立っておいでです。水は万物の源です。大部分の観音さんがこの宝瓶をお持ちになり人間救済のため修行されているのです。

十一面観音菩薩・渡岸寺

・ 伊吹の涌水(滋賀県伊吹町)の水は良い。山腹から噴出した水が突然小川を創リ出すほど豊富な水量で、環境庁推薦の日本100名水に上げられている高ミネラルの美味い水です。この水で炊いた近江米のご飯をぜひ一度食べてください。地域の人は、この水を遠い昔から大事な財産として守っています。

 中仙道醒ヶ井(JR東海道本線醒井近く)の水も良い。山すそからこんこんと涌き出る清水が、やはり旧 街道沿いに突然川となって流れています。夏は梅花藻の清らかな花が清流を泳ぎ、「麦茶のやかん」や「西瓜」なども冷やしている。古い街をここまで伝承できる地域のまとまりは羨ましい。

(この項の参考図書・大法輪88年1月号・海音寺潮五郎武将列傳)

 

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