私はロリータです。ゴスロリでもゴスでもなく『ロリータ』です。
まず理解していただきたいのはロリータブランドの服着ているからロリータなわけでもなく、ジーンズを穿いていてもロリータの精神を持っていればロリータなのだということです。
昨今ロリータ『服』がブームですが私は流行に乗って着ているのではありません。私にとってロリータ服と呼ばれるジャンルの服を着るということは、兵士が戦場に行くために迷彩服に身を固めるのと同じく、精神から服を求めていると言うことなのです。
私はロリータをするには様々な制限を自分に枷ます。ロリータ服は私にとって一つの枷でありロリータであるという精神の実現なのです。私は他に着物を愛用してますが着物もロリータ服と同じく私というロリータを表す記号にすぎないのです。気持ち、精神こそがロリータなのです。
私のロリータ論、まずロリータは可愛くなければならないのです。それは顔立ちや姿形の問題でなく精神がかわいらしさを求めるという事なのです。レースやフリルの沢山着いた服を着てスカートをパニエで目一杯膨らまし、ドロワーズをちらりと覗かせる。あくまでも清楚で可憐。宝塚歌劇団のモットーのように清く正しく美しくなのです。それは年齢性別の関係がなく、ロリータだと心が疼くならばその方はロリータなのです。
ロリータ服は自分のための自分を表現する一つの手段です。
私は先に書いたように『ロリータ』という精神に重点を置いていますので、ジーンズを穿いていてもロリータであり、パンク系の服を着ていても着物でもロリータなのです。
しかし、一番安心出来るのは贔屓にしているロリータブティックのお洋服に身を包んでいる瞬間であり、お洋服を買っている瞬間なのです。買っているという表現はあまり好みません。お洋服をお迎えに行くという表現が一番あっているのでしょう。
お洋服は戦闘服でもあります。世間の好奇の的であり私のように特殊な服装に特殊な髪の流さだとそれは一層大きくなります。
私は一般人にはなりたくないのかも知れません。流行に流されるのを嫌い、異端へとたどり着いた先がロリータだったのでしょう。その証拠に私はロリータ服に出会うまでファッションには一切関心を持っておらず、梅田の今はなきマリアテレサでコルネットの別珍のお洋服を買うまでは普通の地味な服で過ごしていました。ただそれまでも精神だけはロリータでありました。
フリルを求め、レースを求め、私はこれからも独自のロリータを目指していくのでしょう。
自分らしさ自分の精神、それが私にはロリータであった、それだけのことです。
2004年9月25日
櫻姫