窓際のセイレーン

百日紅 薙瑠

プロローグ

 学校に七不思議というものはつきものだ。夜中誰もいないはずのグラウンドに駆け足の音が聞こえる。誰もいない音楽室でピアノが鳴る。夜中に一番済みの女子トイレに幼い女の子の幽霊が現れる。鏡にいるはずのない血まみれの女子生徒の姿が映る……云々。なんていう話はうちの学校には一つもありはしない。

 いや一つだけある。放課後誰もいないはずの音楽室からピアノが鳴るという噂だ。もっともこの噂の張本人は僕なのだが。

 放課後、帰宅するときに目にとまったグランドピアノ。それが夕日にあたりなんとも寂しげに佇んでいたのだ。

 そのピアノを見ているうちに指がうずうずしてくる。

 弾きたい……あのピアノが弾きたい。思う存分弾きたい。その時背後から初老の男性の声がした。

「……弾きたいのかい」

「え?」

 驚いて僕が振り向くとそこには優しい笑みを浮かべた老人が立っていた。おそらく70は過ぎているだろう。この学校の先生は若い先生ばかりだし、始業式に長い挨拶をした校長先生とも顔が違う。

「君、ピアノが弾きたいのかい?」

「は、はい!」

「そうか」

 にこりと満面の笑みを浮かべその老人は僕に鍵を手渡す。

「あ、あの」

「弾き終わったら『用務室』まで返しにきなさい。おお、それから先生には見つからないようにな」

「あ、有難うございます」

 なんとかお礼を言うことはできたが、そのときはまるで狐につままれたような思いがした。

 それをきっかけに僕はたびたび鍵を借りピアノを弾かせてもらった。

 てっきり用務員のおじさんかと思った紳士的な老人は、放課後僕を「理事長室」へ呼び出した。

 僕は顔から火が出るくらい恥ずかしくなったが、理事長は豪快な笑いで許してくれた。

 弾く曲はそのときの気分によって様々だ。ショパンだったり、ラフマニノフだったり、ビル・エヴァンスだったり、ポップスなども弾いた。

 決められた課題曲ばかり弾いてばかりで、いい加減あきあきしていたところだった。

 誰もいない音楽室でその時自分が弾きたい曲を弾くのは、僕にとって例えがたい貴重な時間だ。

 それは丁度サティの「3つのジムノペティ」を弾いていたときだった。音楽室の方に近づく足音が聞こえたので、僕は老人から教えてもらった絶好の隠れ場所、開かずの「準備室」に隠れた。

 不幸にもその足音の主は女子生徒達で、彼女達は悲鳴をあげながら逃げていったのだ。 以来その話に尾ひれがつき、この学校に一つ「学校の怪談」ができたのだった。

4月27日(金曜日)

 ようやく「音楽室の怪」の噂が下火になってきたとき、僕は久しぶりにピアノを弾かせてもらうことにした。

 今度は掃除登板の生徒も部活の生徒も帰ったから少なくともまた噂が復活することはない。

 僕は指がうずくのを必死に抑え音楽室へ向かった。

 歌? なんだろう僕の音楽室の方からもれる声。メゾソプラノで透明感のある女性の声だが、弱々しさはなくむしろしっかりと耳に残る声だ。

 僕はその声に惑わされたように気づかれないよう音楽室の扉を開く。

 僕の目に飛び込んだのは窓際で揺れる長い黒髪だった。

 おそらく腰下まであるに違いないその髪は、彼女の歌声に誘われるかのようにして吹く風によってサラリと宙を泳ぐ。

 まっすぐに切り揃えられた長い漆黒の髪。蛍光灯の光によって光の線が彼女の髪に漣のしぶきのように幾筋にも浮かび上がる。思わず近寄って触りたくなってしまうほど癖もなくただ真っ直ぐな髪。手に触れたらきっと驚くほどサラサラとしていて、思わず毛先まで撫でてしまうだろう。

 幾筋の髪がふわりと風に誘われるかのように宙に高く浮かびあがると、今までの漆黒の世界が一変する。宙を泳ぐ髪は夕日を浴びると、きらきらとした光沢の粒を無数に乱反射する。

 ドキリと鼓動が一気に加速する。もっと近くで見たいそんな無意識の思いにかられ、僕は思わず教室のドアを音をたてて開けてしまった。

 彼女はこちらを一瞥したかと思うと、後ろのドアから脱兎のごとく走り出す。

「あ……」

 そのときの僕の顔はさぞかし間抜けな顔をしていたに違いない。

 一瞬だけかすかに僕のほうを振り向いた時も、教室を走る去る横顔も長い髪に隠れていたせいで見ることはできなかった。いや、僕の視線は彼女の長い髪に釘付けになっていたのだろう。

 ちらりと顔を動かしただけで黒髪の束がするりと彼女の背を流れた。それと同時に彼女の長い髪に引かれた幾筋もの光の線がその動きに合わせかたちを変える。

 走り去るときはバサリと馬の鬣のように激しく舞い、普段は素っ気ない教室の後ろの壁を見事なほどの漆黒色に染めた。

 その姿が僕の脳裏を強烈に焼きついてどうしても肝心の顔を思い浮かばせることができない。

 思い浮かぶのは長い髪と彼女が歌っていた曲、あれはたしか僕が初めて音楽室で弾いた曲だ。

 そう言えばヨーロッパかどこかの言い伝えだったと思うが、美しい歌声で船員を誘い出し、ついにはその船を難破させるという魔物の話があった筈だ。

 なんという名前の魔物だっただろうか。もしかしてその魔物も美しく長い髪の持ち主だったのだろうか。

5月1日(火曜日)

 

 どうしてゴールデンウィークに水を差すかのように二日間だけ平日があるのか。せっかく土曜日休みだというのに。とはいえ内心僕の心は少し浮かれ気分だ。

 あの後家に帰るなりインターネットで魔物の名前――セイレーン――を調べた。

 セイレーンの姿そしてセイレーンに関する逸話は実に多種多様なのだ。幼女の顔を持った羽毛の赤みがかかった鳥だったり、上半身は海鳥だったり、半分女で半分魚だったり。 逸話のほうは、船乗り達を歌声で魅了し船を難破させるというのが一般的だ。だがプラトーンによれば、「天球の八層それぞれにセイレーンを配している。おのおのが一つの音を一定の高さで歌い、それに合わせて運命の三女神が過去、現在、未来を歌う」というのだ。

 彼女の性質も妖精だったり、悪魔だったり、怪物だったりと諸説紛紛だ。

 だから僕も勝手かもしれないが、「セイレーン」と名づけた。

 どちらにせよ「歌う」ことには変わりはないからだ。

 今日彼女が誰なのか見極めるために僕はわざわざ始業時間より一時間も早く学校に着いたのだ。

 静まり返った校庭、静まり返った廊下。朝早く来るのもなかなか悪くはない。

 教室には誰もいないはずだ。僕は勢いよく扉を開く。

「おーっす!」

「おはよ」

 誰もいないはずの教室にメゾソプラノの声が心地よく僕の耳の中に入り込む。

 小柄な体を精一杯背伸びさせて黒板を丹念に拭く一人の少女が僕の目に飛び込む。

 顔には不恰好な黒縁の眼鏡、髪は頭の上でひっつめにしてきつく結い上げられている。「なんだ委員長か」

「『なんだ委員長か』とはご挨拶ね、遠藤君。せっかく珍しく朝早く来たんだからちょっと手伝ってくれない?」

「わかったよ。委員長」

 早起きは三文の得って誰が言ったんだろうか。もしそいつが目の前に現れたら、僕は言い出しっぺの顔を思い切りつねってやりたい。

「遠藤君」

「なんだよ」

「私にもちゃんと『長野智美』という名前があるの。できれば名前で呼んでくれない?」 怒るわけでもなくただ淡々とした彼女の言葉と表情にどこかツンとしたような感じを受ける。

 もちろん彼女の名前はとうに知っているのだが、彼女の雰囲気からどうしても「委員長」と呼んでしまうのだ。

「長野さん」

「そ。よろしい」

「じゃあ僕が黒板を拭くよ」

「ありがと」

 彼女の後ろ通り過ぎると、きつく結わえてある髪からほのかにフローラルな香りが僕の鼻を優しくくすぐる。無意識に僕の視線は彼女の後姿に釘付けになる。

 わずかにある後れ毛からすっと真っ直ぐに引かれた大量の黒い艶やかな線。ほどけばもっと綺麗になるのにもったいない。そう思ったとたんに、この前感じたドキドキ感がふいにフィードバックする。

 僕は慌てて黒板のほうに目を逸らし、黒板消しに力をこめる。

 そんな仕種を見てか、長野さんがくすりと微笑む。

「なにもそんなに力を入れなくてもいいのに。でも遠藤君の指って細くて長くてきれーな指だね」

「そーかな?」

「ね、ね。ちょっと見せて」

 長野さんはそう言うと半ば強引に僕の左手を覗き込む。自分の手が女性に触られるとなんだか気恥ずかしくなる。

「へー……遠藤君の指こんなに長いんだ……でも思ったより結構ごつごつしてる」

「しょーがないだろ。男なんだから」

 熱心に僕の手を弄る長野さんの姿を見て、無意識に頭の上で結わえてある髪が僕の目に映る。

 髪を解いたら長野さんはどんな感じになるのだろうか、長野さんの髪も結構長いのだろうか。

 そんな事を想像しているうちに、急にこの前窓際にいた彼女と長野さんの姿が不思議と重なり合う。

「……セイレーン?」

「え? な、なに? 遠藤君」

「ああ、いやなんでもない。長野さん」

「もう、他人行儀にさんづけしないでよ」

「じゃあ……トモ」

「トモ?」

「名前が『ともみ』だからトモ」

 そう言うと長野さんはポカンとした表情からしだいに笑みを噴出す。

「アハハハハ……遠藤君って、なんかおかしい」

「そ、そうかな」

「そ、そうだよ。真面目そうでなんだか暗そーで近寄りがたいと思ってたんだけど」

 腹をかかえ思いっきり笑われるとなんだかムッとなってくる。僕は胸の奥で「それはおまえもだ」と一人呟く。

「ごめん、ごめん。『トモ』でいいよ、遠藤君」

「じゃあおまえも『遠藤君』なんてよせよ」

「じゃあ、名前が『俊廣』だから、トシくん」

「おまえも俺と変わんないじゃん」

「そ、そうね……ところでトシくんはさっきなんか言ってなかったっけ?」

「あ、ああ……実はこの前の放課後なんだけどさ、音楽室で長い髪の子みかけたんだ。」「え?」

「窓際で綺麗な髪を揺らして気持ちよさそうに歌を口ずさんでいたんだけど、トモは知らない?」

「え? あ……私は……知らない……な。放課後音楽室に行ったことないし」

 なぜかトモの歯切れは悪くなり、なんだか仕種も落ち着かなくなる。もしかしたら何か知っているに違いない。きっと友達に「内緒にしておいて」と言われたのかもしれない。 まあ、いい。いつかまた彼女に会える。そんな気がして僕はわざとその話を切り上げた。

 そうだ、彼女の姿を見たのは金曜日だった。それなら今度金曜日に待ち伏せしていれば彼女の正体を突き止めることができるかもしれない。

5月11日(金曜日)

 

 その日の放課後僕は音楽室へと向かった。幸い音楽室にまだ「セイレーン」は現れていないようだ。

 僕は「準備室」に隠れ彼女が現れるのを待つことにした。

 二時間が経ったが一向に現れる気配はない。もうここには来ないのだろうか。

 その時ゆっくりと扉が開き始め、子猫がやっと通れるぐらいのところでピタリと止まった。どうやら中に誰もいないことを確認しているようだ。やがて安心しきったかのようにゆっくりとゆっくりと扉が開く。それに合わせるかのように僕の鼓動も小躍りし始める。 音楽室に入ってきたのは思いもよらぬ人物だった。頭の上で結い上げた髪型に不恰好な黒縁の眼鏡――長野智美だ。

 音楽室の窓を開けると、彼女はおもむろに眼鏡を外す。そこから以外にもつぶらな瞳が現れる。そして彼女は結い上げた髪を解き始める。

 ――バサリ

 僕はこの瞬間を忘れることが出来ないであろう。解かれた長い髪は開放感の喜びを訴えるかのように、宙でスルスルとうねりながら彼女の背へと落ちる。艶やかな黒い髪が一つの線となり腰まで一気に流れたかと思うと、大きく左右に宙に揺れる。夕日を浴び幾つもの光沢を乱反射させながらしだいにその揺れは小さく収まってゆく。

 一陣の風が音楽室に吹き込むと、ふわりと長い髪が後方にたなびき、気持ちよさそうに再び宙を泳ぎだす。きっと風も彼女の髪を弄りたくて仕方がないに違いない。

 窓際に腕を置き彼女はあの歌を歌いだす。間違いない長野智美、いやトモがセイレーンの正体だったのだ。

 僕は彼女に悟られないようピアノに近づき、彼女の歌に合わせピアノを弾いた。

 彼女は驚いた表情で僕のほうに振り向く。

「ト……トシ……くん」

「続けて」

 僕は笑みを浮かべピアノを弾き始めた。戸惑った表情を浮かべていた彼女は、恥ずかしげに頬を朱に染めながらも再び歌いだす。

 それに合わせ静かに風がそよぎだした。そのたびに僕は風になびく彼女の髪を何度も盗み見てしまった。

「ばれちゃった」そう言って彼女はペロっと舌を出した。

 腰下までの真っ直ぐな長い髪の彼女は先ほどとはまるで別人のようだ。

「この曲、トモも知っていたんだ?」

「ううん。あの時トモくんが弾いていたでしょ。そのとき初めて聞いて、私散々調べたんだよ」

「じゃあ……あの時いたんだ」

「だって……ずっと……トシくんのこと見ていたから」

 トモは急に顔を真っ赤にしてもじもじし始める。なんだか僕の顔もつられたかのように熱を帯びる。

「ぼ、ぼく?」

 突拍子もない答えに動揺し僕の声は裏返る。トモは顔を茹蛸のように赤くしながらもコクリと頷く。

「ずっと……見てたけど……私が地味だから気づいてくれなくて……だから、思い切って髪を解いて、眼鏡を外してあの歌を歌えば、きっとトシくん気づいてくれると思った。でも最初のときトシくんと目が合ったら、急に恥ずかしくなって逃げちゃった。ごめんね」

「僕こそごめん。全然気づかなかった」

「もういいの」

「そうだ。これから毎日ここで二人で歌わない?」

「え?トシくん……いいの?」

「トモなら大歓迎さ」

 僕はトモの手を握ると、トモのつぶらな瞳が目にとまった。

 そこでビデオの一時停止ボタンが押されたかのように、お互いの視線が釘付けになる。やがてゆっくりとどちらともなく顔を近づけた。

エピローグ

 

「……ひろ! 俊廣! ほら、起きなさい。お友達が迎えにきてるわよ」

「友達? 迎え?」

 翌日僕は普段より早く起きる羽目になった。いったい誰だか知らないが、もう少し遅く来て欲しいものだ。

 大きなあくびをかみ殺しながら玄関のドアを開けると、一人の少女が立っていた。つぶらな瞳。腰下まである長い髪は頭の上のギンガムチェックのリボンに結ばれ、ポニーテールのようにしてある。

「おはよう。トシくん」

「トモ?」

「髪型変えてコンタクトにしたんだけど、似合わない?」

 そう言って彼女は恥ずかしそうにポニーテールにまとめた髪を撫でる。

 彼女のあまりの変わりように僕はしばし唖然とする。そのせいか、あまりにも飾り気のない自分の素直な言葉が口からポロリと漏れる。

「い、いや。すっごく似合うよ」

「そう!? よかった!」

 満面の笑みを浮かべ彼女は長い艶やかな黒い尻尾を揺らしながら歩き出す。彼女の動きに合わせるのように左右に大きく揺れる。たまに姿を見せる細い首筋がやけにまぶしく僕の目に焼きつく。

 僕はすっかりセイレーンに魅了されてしまったようだ。でもそれも悪くはないと感じている。

                            終

後書き

 ロングヘアファンの皆さん、はじめまして! 百日紅薙瑠(さるすべりながる)と申します。もちろんこんな冗談みたいな名前は本名ではありません、ペンネームです。

 ひょんなことからwind様のご好意によりロングヘア小説を書かせていただくことになりました。

 力量的にはまだまだ未熟ではありますが、楽しんでいただければ幸いです。また今回初めてロングヘア小説というジャンル(?)に挑戦してみましたが、目の肥えている皆様及び女性の方が喜んでいただけることを願うばかりです。

 これを読み皆さんの脳裏に長い髪が浮かび上がれば、私としてはまずまずの成功だと思います。

 これからもポツポツとロングヘア小説を読みきり掌編または短編小説として書かさせていただこうかと思います。その時はもちろんロングヘアの魅力をできるだけたっぷりと書かせていただく予定ですが、私自身かなり気分屋でして、その時その時にならないとどういう風なものができるかわかりません(笑)。

 いったい何作書くことができるか、いつまで書き続けることができるのか、これからどういうものをお見せすることになるのか、皆目検討もつきません。ですが暖かいご声援がある限りはなんとか書きつづけたいと思います。

 

 最後にお礼を。

 wind様、私の作品を掲載いただき誠に有難うございました。これからもご迷惑を多々おかけするかも知れませんがよろしくお願いいたします。

 忌憚のないご意見・ご感想・励ましのお便り等をお待ちしております。

 それではまたお会いできることを祈りつつ……

 

 平成13年6月20日 百日紅拝


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