リカ・II

歩多 著

1、テスト前

 
マラソン大会が終わると、すぐに中間テストが始まる。
さやかとのわだかまりは、まだ残るものの、リカは自習室にもよく表れるようになった。リカが部屋に入ってくると、さやかが部屋を出る。さやかが部屋にいるときにリカが入っていくと、さやかは部屋を出た。つまり、避けているのはいつもさやかで、リカはさやかのことを気にしていない様子だ。さやかの気持ちはわからなくはない。別れたとは言え、武はリカにまだ強い思いを残している。
武とリカが付き合い始めた直後は、女の子達がリカの悪口を言い、さやかは被害者として慰められた。リカと武が分かれた直後は、男女共々リカの悪口を言った。さやかも武も被害者だった。しかし、今はリカの援助交際疑惑も晴れ、学校全体が、武とリカのスキャンダルなどまるで無かったかのように、リカに優しい。さやかは一人でリカという魔物に対して戦っているように見えた。いや、さやかは今一人ではない。彼女はこの頃、貞子先輩と一緒に行動するようになった。
自分の寝室に戻ると、時々貞子先輩が来ていることがあった。
私とさやかの部屋は、「土足禁止」と決めていているのに、先輩はいつもブーツを履いたまま、さやかのベッドに腰かけて、長い足を組む。
私はさやかを睨むが、さやかは私の顔を見ようともしない。先輩と、楽しそうに談笑する。もう、彼女は怯えてなんかいなかった。
貞子先輩は、優しい。
今まであまり関わった事はなく、怖い噂ばかりを聞いていたので、拍子抜けした。
いつもは元気の無いさやかも、貞子先輩と一緒にいる時は、とても明るい。
何となく、納得のいかないものを感じながら、それでも私はこれで良いのかもしれないと思った。失恋を経験したことの無い私には、さやかを慰める事は不可能だから……。
 

2、テスト

 
鉛筆の芯が、机に叩きつけられる音。誰かの深いため息。消しゴムを使うと、机が揺れる。紙をめくる音。私は腕時計を見た。あと、30秒。
30秒後には、この答案用紙と机から私たちは開放される。
誰かがまたため息をついた。
「はい。止め」
先生が言ったとたん、クラス中が息を吹き返したかのように明るくなった。
「やっと終わったー!」
「時間、足りなかったし!」
「昨日徹夜したかいが無かった。もう寝る!」
「俺の山勘、当たってたじゃねぇか」
「やったー! ゲームするぞー!!」
「最後の答え、何にした?」
「腹減った」
「もう、だめ。死ぬ」
ガヤガヤと皆にぎやかに教室を出て行く。
中間テストが終わると、すぐに文化祭がやってくる。
女の子の大半がブーツを履きはじめた。男子達はすでに白いTシャツから色の濃いネルシャツへと衣替えをしている。上着の色も落ち着いたものが増えてきた。
ファッションは、私達にとっては季語だ。校庭の木々よりも、よほど正確に季節を映す。
芸術の秋、食欲の秋……、秋は何かと忙しい。
 

3、格差社会

 
「リカがまた告白されたらしいよ」
静香は木製のブラシで、私の髪を優しく梳きながら言った。
「今度は誰から?」
私は大して驚きもせずに聞いた。ここ最近、リカの評判はまた上がり始めているようだ。さらに、先週テストが終わり、皆、時間と心にゆとりを持ち始めた。
「俊介君」
「え? 俊介君って、まだ中学生じゃん!」
静香が微笑んでいる。
「これから油塗るからね」と言った。
私は今、自分の寝室で、静香に「オイルパック」をやってもらっている。マラソン大会の後も、時々趣味で外を走り続けていた私の髪は紫外線で相当のダメージを受けている。顎のラインより、三センチ下ほどの長さしかない髪でも、手櫛がなかなか通らないほどに痛んでいる。
さやかは外出中だった。
「で?」
「断ったって」
私は息をついた。
静香が丹念に髪に椿油を塗りこんでゆく。嗅ぎ慣れない匂いがした。
「あゆみはリカを羨ましいと思う?」
「当然!!」
私みたいなブスにとっては、一学期間に五人もの男達に告白されるなんてことは、まるで「豪華客船に乗って五年間世界中を旅する」のと同じくらいに贅沢に思えることなのだ。
だいたい、私は、一生に一度、告白されるかどうかも怪しいのに……。
どんなに不細工な男でもかまわないから、私に向かって「好きだ」と言って欲しいと心から思った。いや、告白でなくても構わない。嘘でも良いから男の子から、「可愛い」って言われてみたい。贅沢は言わない。言えない、けど、「地元の温泉に日帰り旅行」くらいの贅沢な気分を味わいたい。
私は深くため息をついた。
「どうしたの?」と静香が顔を覗く。
「いや……『格差』を感じちゃって……」
「『格差』?」
「うん。貧乏人と金持ち、モテル奴とモテナイ奴。一部の金持ちが世界の富の何割かを独占する中で、貧乏な人たちは、わずかなお金を取り合っている……。私達も似たようなものじゃない? モテル女子が、この学校の多くの男子の心を独り占めにしている。モテナイ女の子達のところには『愛』が回ってこない。愛の格差社会だ!」
「……なるほど」静香はタオルを熱めのお湯で濡らし始めた。
「でも、お金持ちがいつも幸せとは限らないじゃない? リカも、あんまり嬉しそうじゃないよ。あまりにもモテルと女の子達からは睨まれてしまうし……。女の嫉妬は怖いからね……。別に悪いことをしているわけではないのに、不公平感は争いを引き起こすしね。そのうちに、テロが起きるかも……」
「テロ!?」静香が一体何の話をしているのか、わからなくなった。
「リカの身にテロが起きるということ?」
静香はうなずく。
「熱かったら、言って」と、私の髪に蒸しタオルを巻く。
「実はね、昨日の夜、貞子先輩に呼び出された。寝ている間にリカの髪をばっさり切れって命令された」
私は驚いて静香のほうに振り向いた。
「タオルがほどけるから、頭を揺らさない!」と静香。
「で? どうするの? やるの?」
静香はしばらく黙った後、
「まさか」とつぶやくように言った。
油のように重い沈黙が部屋に充満する。静香は私の方を見なかった。
 

4、夕食

 
「文化祭の実行委員って、大変そうだねぇ」
早苗がカレーライスにマヨネーズをたっぷりかけながら言った。
ついさっき、ユタが慌しく食堂に入ってきて、無言で食べ物を掻き込むと、すぐに席を立って出て行ってしまった。
ユタは中学生の時から実行委員をやっている。委員長の島先輩にもずいぶんと信頼されているようで、仕事が楽しくてしょうがないらしい。忙しいはずなのに、ユタの顔は生き生きとしている。
「さやかは、今日も貞子先輩達と食べているね」
千絵が横目で遠くの席に座って食べているさやかと貞子先輩と、その取り巻き達を見つめた。
「あゆみ、さやかと最近、話をしている?」と、静香が聞く。
口いっぱいにパンを頬張っていた私は首を振って答える。
そうなのだ。さやかが貞子先輩と親しくなるにつれて、私とさやかの間には、見えない壁が建つようになった。
リカはサラダのプチトマトをフォークで刺してやろうと格闘している。武はそんなリカを時折チラチラと盗み見ている。健太郎は、既に食べ終わって、暇そうにしていた。
「ねぇ、ちょっといい?」
いつの間にか、さやかが静香の横に立っていた。
「貞子先輩が呼んでる。静香、一緒に来てくれない?」
静香はトレイを持っておもむろに席を立った。
去り際、さやかがリカの方を見た。微笑んでいるように見えた。が、私は嫌な予感がした。
 
食堂の出口で朝子先輩に会った。先輩は私に裏庭へ来るように言った。そして、一緒に食堂を出たリカと千絵と早苗には、
「三人で、校庭で遊んでいなよ」とバトミントンのラケットと羽を渡した。様子がおかしい。胸騒ぎがした。
ただ事ではなさそうだと千絵たちも感じたらしい。素直にラケットを受け取ってリカを連れて校庭へでる。
 

5、裏庭

 
裏庭は、食堂のある建物から一番遠く離れている。食堂のにぎやかな騒音も、裏庭には一切聞こえてこなかった。静まり返った夕暮れ。カラスの鳴き声だけが時々聞こえる。
一緒に歩きながら、朝子先輩は少し困惑ぎみな顔をしていた。
「私の思い違いだったらいいのだけど……、たぶん、今夜あたり、貞子が実行するかも」
朝子先輩の寝室は、貞子先輩の隣だ。壁伝えに、貞子先輩の企みをこぼれ聞いたのだと言う。
「貞子は静香に髪を切らせるつもりらしい」
そのことは、静香自身から聞いていたので、驚かなかった。
「リカが髪を切られるのを防ぎたいけれど、事を大げさにしたくないから、まず、あゆみに、忠告しようと思って……」
「どうすればいいですか?」
ゆっくりと歩く。朝子先輩はしばらく考えていた。目の前に、学校を辞めた女の子が隠れていた物置小屋があった。私達は小屋の中に入った。
染み付いた体育マット、破れたバレーボールネット、バサバサの竹箒、古い形のテレビ、シンバル部分が欠けたドラムセット、ヒビの入った黒板、落書きされた勉強机……。あらゆる不必要品が粗雑に置かれている。
ここなら、誰も来ない。ナイショ話をするには打って付けの場所だ。
「今夜だけ、千絵と早苗の部屋にリカを泊まらせる事ができる? あゆみの部屋にはさやかがいるから、リカにとっては危険だと思う。できればリカには気づかれたくない。もし、知ったら毎日安心して眠れなくなるだろうから」
「……はい」
朝子先輩はまた
「ごめんね」と謝った。先輩は悪くないのに!!
 
校庭へ行くと、リカ達はバトミントンに熱中していた。3人とも上着をすでに脱ぎ捨てている。私は、これからおこる暗い陰謀を3人に感じさせないように「入れて!」と元気に駆け寄った。
 

6、自習室

 
「ぶっくっくっくぅっ!!」
突然、不気味に押し殺したような笑い声が自習室に響く。
「千絵! うるさい!」
私は苛立って叫ぶ。千絵の反応は無い。相変わらず漫画に没頭しながら、声を殺して笑っている。
「あゆみぃ、ご機嫌斜めぇ?」
早苗が呼んでいた文庫本から顔を上げて言った。
「うるさい!」
私はつい叫んでしまった。横目でリカを見る。
彼女はヘッドホンで音楽を聴きながら、枝毛切りに没頭している。静香とさやかは居ない。
何とかしてリカだけを自習室からだし、朝子先輩がたてた計画を千絵と早苗に伝えたかった。しかし、彼女が一人で居ても安全な場所に行かせなければ意味が無い。
どうしよう……。
普段は滅多に使用されない部分の脳味噌までフルに活用して考えているつもりなのに、全く良い案が思いつかない。
何を私は恐れているんだろう……。何でこんなに不安なの?
リカの髪が切られる、それだけのことなのに。別に、貞子先輩達はリカを殺そうとしているわけでも、身体を傷つけようとしているわけではない。髪を切るなんて、痛くも痒くもないことじゃないか。それも、切られるのは私の髪じゃない。他人の、いけ好かない子の、親友の敵の……、リカの髪じゃないか。
あれだけ長いんだから、多少短くなったほうが良いに決まっている……。なのに!!
いや、私は朝子先輩の信用を裏切りたくないだけだ。先輩が、忠告する相手に私を選んでくれた。私がきっとリカを守れると信じているからだ。私は、先輩に言われたから、リカの髪を貞子先輩から守るのだ。ただ、それだけだから!
早苗が大きくため息をついた。
「この本、つまんな〜い。……お風呂、入ろ〜と!」
ん? 風呂? それだ!!
「待って、早苗、風呂は後!」
「え? でも、やることないしぃ、暇だから今入りたいんだけどぉ……」
「本、読んでたじゃん! 途中で投げ出すのは良くない! 最後まで読んでから入りなよ」
「ええ〜?! やだよぉ。その本面白くないんだもん……」
「じゃあ」と私は言って、千絵の手の中から漫画を奪い取った。
「これを読みな! 千絵があれだけ笑っていたんだから、この本、絶対に面白いはずだ!」
早苗は目を大きく見開いて私を見つめている。千絵は漫画があったはずの自分の手の中を見つめて放心している。
人って、必死になるとテレパシーを使うことができるらしい。早苗は私の心を読み取ったらしい、「あゆみが、そう言うなら」と、千絵の漫画を手にした。まずは早苗を引き止めるのに成功!
次は……
「リカ! シャワー浴びてきなよ」リカは突然名を呼ばれてビックリしたようだ。
ヘッドホンをはずし、キョトンと私を見つめている。
「バトミントンで汗かいたから、臭いんだよ! さっさとシャワー浴びてきて! 耐えられない」
リカは赤くなって「わかった」とつぶやき、慌てて自習室を出た。私も後を追う。
私って、意地悪かな? でも全部、リカのせいなんだから!
 

7、廊下にて

 
廊下の途中でリカが振り返る。
「何?」
後をつける私に不信感を持ったようだ。
「別に。静香に用があるから、静香の部屋に行くだけ」
静香に、用事なんて無い。バスタオルや着替えを取りに寝室へ帰っている間に、リカが襲われたのでは元も子もないじゃないか!
幸い、部屋には静香は居なかった。リカは素早く必要なものを揃えると、寮の奥にある更衣室へと向かう。私もついて行く。
「何なの?!」
さっきとは変わって、リカは強い調子で私を牽制した。
「私に付きまとわないでよ!」
リカの苛立ちを感じた瞬間、私の苛立ちは風船の様にしぼんでいった。同時に、リカに対してキツイ言葉を使ってしまったことを後悔した。
リカは知っている。この学校の多くの女子達は皆、彼女の敵であることを……。リカは自分から味方をつくろうとはしない。彼女に友達はあまり必要ないらしい。だってリカは独りで居ても平気な猫だから。
でも、それでも、私はリカが気になる。私はリカを群れの中へ引き入れたいのだ。
何で? リカはさやかのライバルで、私はリカが好きじゃない。
私がリカにかまうのは、リカが私のスタディメイトだからだ。スタディメイトは大切な仲間だ。私がリカのことをどう思うかなんてどうでもいいことだ。リカは私のスタディメイト、だからリカが困ったら私が助ける。それは当然のことだ。
私は、何だか靄が晴れたような気分になった。
 リカは大きなアーモンド形の目で、私をまだ睨み付けている。
「バスルームを使いなよ」と私は言ってみた。
リカは驚いたようだ。
「嫌なら、別にいいけど……」と私はまた意地悪く言う。
リカはジッと何かを考えているようだ。
「でも、髪が詰まるから……」
「網があるよ」
「私、時間かかるし……」
私は考えた。そして、言った。
「靴を交換しよう」
リカは目を丸くする。
「バスルームにはすのこが敷いてあるから、皆、ドアの前で靴を脱ぐ。私の靴がドアの前にあったら、皆は私がバスルームを使っていると思い込むよ」
「……でも、私は、洗うのに半時間はかかるの」
「二十分たったら、早苗か千絵の靴を私の靴と取り替えるよ。二人分の時間を使ってバスルームに入れるよ」
リカの顔が高揚する。
「ありがとう! 私、バスルームを一度使ってみたかったの!」
 
私の靴をドアの前にキチンと並べ、リカは小声で、走るように言った
「あゆみちゃんって、いいひとだね!」
バタンッ 
バスルームのドアは閉まった。
 

8、再び自習室

 
私は自習室に駆け戻る。早苗と千絵は漫画を取り合っていた。騒がしく取っ組み合っている二人に「うるさい!」と一喝した後、私は夕食後に朝子先輩に言われたことを、千絵と早苗に伝えた。
二人は、
「難しいけど、何とかする」
「まかしといて」と言ってくれた。
早苗の靴をバスルームの前に置き、千絵に廊下でリカが出てくるまで待っていてもらう。二人は絶対にリカを一人にしないから、と約束してくれた。
後は、まかせるしかない。私に出来る事は全部やった。
 

9、切られた髪

 
翌日、いつもの様にさやかの目覚まし時計に起こされた。さやかは起きる気配を見せない。
私の思考はまだ睡魔の魔法がかかっている。だから朝は「条件反射」にインプットされた行動しか起こせない。
朝、起きる→何だか行きたくなる→ベッドから降りる→部屋から出る→トイレに入る→済ませる→手を洗う→ペーパータオルで手を拭く→タオルをゴミ箱に……、
黒いものがゴミ箱に納まっている。モッソリと無造作に積まれた藁の様に見える束。
髪の毛だ……。誰がこんな所に髪なんか捨てたんだ? ビックリしたなぁ、もう……。
え?!
私は本当にビックリした。
トイレから出ると、一目散に千絵たちの寝室へ飛び込む。下のベッドに早苗とリカが窮屈そうに並んで寝ていた。早苗はほとんど壁に張り付くほど、ベッドの奥へ追いやられていた。リカの髪がベッドから落ちて床に張り付いている。
「リカ! リカ! 起きて!」
乱暴にリカの体を揺さぶる。リカは無愛想に上半身を起こすと、大あくびをし、猫の様に手の甲で顔を撫で始めた。
「立ち上がって! 早く!」私は急かす。
「痛い……髪、敷いちゃった……」のっそりと床に立つ。
私は丹念にリカを見回した。何処か切られたところがあるか……。
長さもボリュームも、昨日のリカの髪と同じに見える。床にも切られたような髪束は落ちていない。私は騙されたような気分になって、部屋を出た。
もう少し寝たいな……と思いながら自分の部屋へと向かう。
廊下で見たことのない女の子に「おはよう!」と言われた。誰だ、これ……。
何だか、知っている気がする。
「あゆみ! 目を覚ませ! 私だよ、静香だよ」
「えー!? 切っちゃったの?」
「うん。切った。バッサリと」
顎の辺りまでのショートボブ。横から見ると前下がりで、後ろはうなじが見えるまで短く切り上げられている。
「これ、自分で切ったの?」と私は聞いてみた。
「うん。鏡を三つ使って長さを見ながら切った」嬉しそうに静香は
「似合う?」と聞いてくる。
「……うん」と私は言ったっきり、ボーと立ち尽くしてしまう。
「色々な髪型を試してきたからね、パーマやヘアダイで髪が相当痛んじゃっていたし、まあ、ちょうど良い機会だと思って……」
切られた髪は、静香のものだった。リカのじゃなかった……。
どうして?
 

10、朝の食堂

 
起きそうにも無いさやかを置いて、私は静香と一緒に食堂へ行った。皆、朝食にはあまり来ない。食堂は静かだった。
「貞子先輩がね、リカの髪を切れと私に命令したことは、もう話したよね」静香はトーストにバターとイチゴジャムを塗りながら言った。私はバニラヨーグルトを口に運びながらうなずく。
「それで、もしリカの髪を切れないのなら自分の髪を切れって、私を脅したんだ」
一口かじりながら、静香は笑った。
「『脅し』という言葉は間違いかな……。だって、私は自分の髪を切るのに何の躊躇も感じなかったのだから……」
貞子先輩は脅す相手と内容を間違えたようだ。静香のように髪型を変えるのが好きでたまらない子に、「髪を切れ」と脅しても、のれんに腕押しである。
「皆が皆、リカみたいに髪を切るのが嫌っていうわけではないのにね。先輩自身がショートヘアなのに、どうして肝心なことに気がつかないのかな……」
食堂の扉が空き、貞子先輩とその取り巻きが入ってきた。
突然、静香は「あゆみ! 私をなぐさめて!」と小声で言う。
「何で?」
「だって、先輩はきっと私が嫌々自分の髪を切ったと思い込んでいるよ。今は、敵に優越感を味あわせておいた方が良いと思う。私はこれから落ち込むから、あゆみは私を元気付けて」
言い終わると静香は肩を落とし、下を向いて、弱々しく泣き始めた。
私は慌てた。思いつく限りの慰め言葉を必死にかけてやる。演技じゃなく、本気で慰めていた。
肩は振るえ、時折手で顔をぬぐう仕草をする。鼻をすする音。一瞬、私は静香も演技ではなく、本当に泣いているのかと思った。しかし、顔を上げた静香の顔には涙なんてなかった!こわい女!!
 

11、健太郎

 
日本史の授業中、教室の隅で健太郎がカメラのシャッターをしきりに押している。
黒板に向かう先生、質問に答える生徒、熱心にノートをとる子、教科書に目をむけている女子、グループでディスカッションをする様子、そして教室全体の様子。
健太郎は生徒達の気を散らせること無く素早く場所を変え、様々なアングルで撮ってゆく。静かな教室に響く、シャッターの音すら気にならない。
健太郎が授業中に写真を撮る事は、すなわち、文化祭が近いことを意味していた。
生徒会は文化祭というイベントにはほとんど手を出さないが、一つだけ仕事がある。「展示」という形で生徒達の寮生活や、学校生活の内容を披露するのだ。生徒の日常生活がわかるので、この展示は生徒の親達に人気があった。展示にはたくさんの写真を使う。ほとんどの写真は写真部によって撮られる。
部員二名。廃部寸前の写真部の部長、それが健太郎だ。文化祭準備の為ということで、学校は彼に一時間分だけ授業を休むことを認めている。
日ごろから思っていたことなのだが、健太郎は存在感が全くと言ってよいほど無い。いつもユタや他の男子の影に隠れて行動している。発言も滅多にしない。まさに「影」だ。彼の被写体はカメラを意識することなく自然体でいられる。
十分ほどの時間を使って撮影をした後、健太郎は教室を音も無く出て行く。彼はこれから他の学年の授業風景を撮りに行くのだ。
今年はどんな展示にしようかと考えるとワクワクしてきた。もう先生の声に集中できない。私は展示内容について、思いついたことをノートに書き出していった。
 

12、夕食

 
「何だか、慌しくなってきたね」
静香は短くなった自分の髪の毛先を気にするように左手でつまみ、右手のフォークでチャーハンをすくっている。
「あと一週間で文化祭だもん」
千絵はインクが染み付いた手でパンを千切っている。
千絵は絵画部の部員で、文化祭ではイラストを展示するらしい。
早苗、リカ、静香は部に所属していないので、「屋台と歩きでホットドッグを売る」というクラス企画準備に熱心だ。
「売り子のユニフォームとして、可愛い服をおそろいで着たいなぁ」と早苗が焼きそばをフォークとスプーンで食べながら言った。
「喫茶店じゃないんだよ。私達はホットドッグを売るんだよ。あまりキュート過ぎる服は合わないと思うけど?」と静香。
「ホットドッグっぽい服って、どんな感じ?」と私は話しに割り入った。
「スポーツスタジアムなどで売られているイメージがあるよね。ベースボールキャップを皆でかぶるのは?」とリカが豆腐に醤油をかけながら言った。
「嫌だ。可愛くないもん! ホットドッグじゃなくて、喫茶店の企画だったら可愛い服が着られたかもしれないのにぃ」
早苗にとってはクラス企画として「何を売るか」よりも「何を着るか」の方が大切らしい。
「明日、ホームルームで話し合おう」と静香が言った。
 

13、写真

 
夕食後に生徒会室に行くと、オダセンと朝子先輩の他に、健太郎と中学生の俊介君が来ていた。俊介君は写真部の残りの一人だ。中央の席に座っているオダセンはノートパソコンをいじっている。パソコンには健太郎のデジタルカメラが接続されていた。
部屋に私が入ったとたん、
「待っていたよ、あゆみ! 良い写真があるから見て」と朝子先輩はニヤニヤと笑いながら言った。
健太郎は褒められて照れるのか、顔を赤くして突っ立っている。
私はパソコンの画面を覗いた。
一枚の写真が画面いっぱいに拡大されて、液晶の光の中から浮き出ている。走る二人の女の子を横から撮った写真。
「これ、私とリカ?」
マラソン大会の写真だった。ゴールの数メートル手前、黒髪をなびかせながら走るリカの一歩後ろを走る私。
一心に同じ場所を見つめて走る姿。
リカの大胆な髪の動き。
色が違うはずなのに、私の髪とリカの髪が同化しているように見える。
シンクロ、そんな言葉が頭に浮かんだ。
「どう? 気に入った?」と朝子先輩は聞いてきた。
「……ええ、まあ……はい……」何と答えて良いのかわからず、私は曖昧に言った。
この写真に写っている自分自身が何だか別人に見えるのだ。何でそう思うのかはわからないのだけど……。
この写真は展示の「学内イベントを紹介するコーナー」に貼られることとなった。
 

14、カメラ

 
私はさっきからうんざりしていた。手の中にはズッシリと重いカメラがある。
朝子先輩とオダセンが去った後、私は健太郎からカメラの使い方を教えてもらっていた。
展示には寮内での日常も紹介するのだ。男子寮内の写真は健太郎が既にたくさん撮っていたが、女子寮内の写真が無い。私が代わりに撮ることになった。
健太郎は「部のカメラで一番使いやすいやつ」と言っていたが、カメラや写真に全く興味が無い私には健太郎の説明がよくわからなかった。
だいたい健太郎の声は聞き取りにくい。さらに彼はしゃべっている間によく黙ってしまう癖があるのだ。私は段々と苛立ってきた。
「私のポケットサイズのデジカメで撮影するからいいよ。このカメラ、重すぎる」
と、カメラを健太郎に返す。
「でも……」と健太郎は言いよどむ。そして黙った。
「何!?」私は早く寮に帰りたい。
「それだと、引き伸ばした時に、……画像が粗くなるし……」
「いいじゃん、そんなの。別に芸術の為に写真を撮るんじゃないんだからさ。展示だって、写真展なんかじゃないんだからね!」
私は椅子から立ち上がって、部屋を出ようとした。ドアノブに手をかけた時、
「待ってください!」と俊介君が立ち上がった。
健太郎の手からカメラを取ると、私に手渡しながら、ゆっくりと言った。
「本当に、簡単なんです。シャッターを軽く半押しするだけでピントが合います。一度軽く押してピントを確かめた後、もう一度強く押して撮って下さい。」
「本当に?」私は半信半疑だ。健太郎のよくわからない講座を半時間ほど聞いていた私には、このカメラの使い方がそんなに単純には思えなかった。
「使ううちに慣れますよ」と俊介君は笑って言った。
 

15、「先輩」

 
確かに使い方は簡単だった。
「撮るよー。笑って、笑って!」
気持ちの良いシャッター音。
ファインダー代わりのディスプレイにペンを右手に持ちながら左手でピースサインをする千絵が映る。
私は既に「中学生寮」の各自習室と寝室を周って、写真を撮ってきた。あとは、自分の学年女子の写真を撮るだけだ。高校二年生女子と、「受験生寮」の写真は朝子先輩が撮ってくれることになっている。
私は隣の自習室行った。この部屋にはパパラッチ弥生と真美がいる。彼女達二人と他の同じ学年女子達がおしゃべりしている最中だった。
「写真撮るよー。皆、『話に夢中』っていう格好して」と私は注文を出す。
「わかった」と真美は言い、
「それでさー、さっきの話の続きなんだけどね……」と話を続ける。
私はシャッターをきった。
もう一枚撮ろう。弥生たちに私は近付く。
「この学校の先生達も、貞子先輩には逆らえないらしいよ」
真美の言葉にビックリした私はピントを合わせるのを忘れてシャッターを押してしまった。
女の子達は「嘘でしょ〜?」と騒ぐ。でも顔は楽しそうだ。
もう一枚。
真美が自信を持って言う。
「嘘じゃないよ。私見たもん。貞子先輩が校門の前で堂々とタバコを吸っていたところに林が通りかかったんだけど、林は何も言わなかった。林は先輩を恐れているんだよ」
林とは、体育の林先生のことだ。大人の監視の目が無い寮内では、先生であろうと、政界人であろうと、皇族であろうと、全て呼び捨て。
だが、「先輩」は違う。本人が目の前にいなくとも、皆「先輩」という敬称を略したりなんかしない。
私はまた一枚撮り、パパラッチたちのいる自習室を後にした。
 

16、文化祭始まり

 
文化祭は何故か、毎年恒例の「騎馬戦」から始まる。立候補と推薦で選ばれた、体格の立派な六人の男子が馬になる。騎馬戦と言ったら運動会で、文化祭とは何も関係が無いような気もするのだが、これも「伝統」の一つなのだから仕方が無い。馬の上に乗るのは文化祭役員の委員長と副委員長だ。今年の武士役は、もちろん島先輩とユタ。
全校生徒は校庭に集まり、騎馬たちを見つめている。
ユタと島先輩は顔にエアソフトシューティングなどに使われる、厚めのゴーグルをかけた。取っ組み合っている間に目を傷つけられないようにする為だ。頭には野球帽をかぶる。帽子のつばは後ろ向きにし、取られ難くする。
二人は既に馬の形になって待機している男子達の上へ跨った。ユタの騎馬の先頭にいるのは武だった。武はラグビー部などで体を鍛えているため、ユタの推薦で騎馬になった。
ユタの騎馬は左手から、島先輩の騎馬は右手から土俵にあがる。
和太鼓の音がゆっくりと鳴る。
その音に合わせて二組の騎馬は互いを睨み合いながら、土俵の中を旋回する。
太鼓のリズムが徐々に早くなり、駆け足の速度になると、騎馬は声を上げて衝突した。
歓声があがる。
砂煙があがる。
鼓動があがる。
ユタと島先輩の手が互いに絡みつく。
敵を場外へ出そうと、馬役たちは激しく押し合う。
今は一体となった二つの騎馬の上でユタと島先輩の体が、天に突き上げられたように見えた。
次の瞬間、ユタの馬が体勢を崩した。
落ちる!
ユタの手が島先輩の頭をかすめた。
砂煙の中へユタは落下した。
一発、爆音を鳴らして太鼓は止まった。
「勝負あり!」
林先生が叫ぶ。
「勝者、副委員長!」
煙の中からユタがのっそりと立ち上がり、左手を高々と上げた。島先輩の帽子が握られていた。
 

17、にぎやかな出店

 
廊下の壁は生徒達の企画宣伝のチラシで色とりどりに飾られている。教室から、様々な音楽が流れてくる。生徒の呼び込みの声があちらこちらから聞こえる。廊下を行きかう人たちのにぎやかなおしゃべり。文化祭には、生徒達の保護者がたくさんくる。家族と久しぶりに再会した時の歓声が一番大きく耳に入る。
私は人ごみを避けるために校庭へ出た。昼間とは言え、11月の外気はすでに冷え込んでいる。吐く息が少し白い。
校庭では様々な屋台が出されている。一つ一つの屋台が、何処の店よりも目立とうと、派手な装飾で競い合っていた。
空手部の「割って! 焼きせんべい」、チアリーディング部の「クレープ・Cheerers!――買ってくれた方にはもれなく『応援』さし上げます」、サッカー部の「たこ焼きボール」。   
 部員数の少ない、ギター部と華道部は合同で店を出していた。「焼きおにぎり(バター醤油味)浅漬けとピクルスがついて来る!」
「あゆみ! あゆみ!」
突然背後から声をかけられた。
さやかが白い胴着を身に着けて立っている。
「うちの部のうどんを買ってよ」と私の腕を引っ張って、「うどん、柔」と書かれた屋台に私を連れ込む。
「ちょうどいいや。寒いから、何か暖かい物を食べたかったところなんだ」と私はさやかからうどんを一杯買った。
 そのあと、私はクラス企画のホットドック店に立ち寄った。
「どう? ホットドッグ、売れた?」と私は鉄板の上でソーセージを転がす静香に声をかけた。静香は忙しく手を動かしながら、
「まあまあかな」と言った。
「店から買ってくれる人はあまりいないけど、うちには優秀なセールスウーマンがいるからね」と笑う。
そこへ、
「ただいま」とリカが帰って来た。
「静香ちゃん、あと、30本追加でお願い!」
リカはとても楽しそうだ。今日は髪をお下げにしている。編んだ状態でも毛先がお尻に着き、時々腰に巻いているエプロンのポケットの中に入る。手には空になったお盆を持っていた。
ポケットの中に手を突っ込んで、リカは100円玉を次から次へとつかみ出してゆく。
「リカ、お釣りに使うかもしれないから小銭は持ち歩きなよ」と静香が言う。
しかしリカは「でも、重くて……」と言って、コインをまだ出し続けている。
見ると、リカのポケットは重みで今にも破けそうだ。
静香はコインの山に飛びつくと、数え始めた。私は静香の代わりに鉄板の上の肉の面倒をみる。
「……い、一万、一万百、一万二百……」念仏の様に唱える静香の声。
ホットドッグは一本100円で売っている。
「一万二千八百円」と静香は数えきった。
リカは文化祭一日目の午前中だけで128本ものホットドッグを一人で売ったのだ。
「リカ……あんた、すごいよ」うめくように静香は言った。
 

18、展示室

 
最近は日が沈むのが早い。午後四時近くなると、外は薄暗くなってきた。
私は生徒会企画の展示室にいた。訪問者も、この時間になるとほとんど居なかった。私は教室の入り口にある受付の椅子に座ってボーとしていた。
受付には色画用紙で作られた小さなカードが置かれており、訪問者は本校の学生にメッセージを残せるようになっている。展示を見に来た親達が子供に一言書き残すことが多い。メッセージは、書いた本人の手によってテープで閉じられ、そのまま受付にあるダンボールのポストに入れられる。文化祭が終わるまで、生徒会が厳重に管理する。
「あゆみちゃん、こんにちは」
突然、名前を呼ばれて顔を上げた。和美さんが立っていた。私は挨拶をすると、
「オダセン……いえ、小田先輩は今、クラス企画を手伝いに行っているようですよ」と教えてあげた。
和美さんは微笑んで、
「展示を少し見てから、茂に会いに行くわ」と言って、教室内のパネルに目を通し始めた。
白いセーターにベージュのスカートと黒いブーツを合わせている。ブーツと髪とのバランスがとても良い。和美さんが展示を見ながら首を傾げるたびに、髪がサラサラと動く。
キレイだな……。
私は机の上に頬杖をついて、またボーとし始めた。
廊下が騒がしい。誰かがけたたましく音をたてながら走ってくる。
「あゆみ! 大変!」
叫びながら入ってきたのは千絵だった。続いて静香と早苗が部屋になだれ込んでくる。
「まずいよ。今度こそヤバイ! リカが貞子先輩たちに拉致された!」静香の息を切らせている。
「リカ、きっと貞子先輩に、髪を切られちゃうよぉ!」
早苗の言葉に和美さんがハッとなって、振り返る。
「リカが今何処にいるか、わかる?」と私は問う。
「わかんない。……ついて行こうとしたんだけど、さやかや他の先輩達に邪魔されちゃって……」と千絵は下を向いた。
「でも、女子寮の何処かに居ると思う!」と静香は言いきった。
「早く行きましょう。リカちゃんの髪が切られる前に見つけなくちゃ!」いつの間にか私達の側に居た和美さんに急き立てられ、私達は教室を飛び出した。
 

19、女子寮の奥

 
女子寮に飛び込むと、最初に貞子先輩の部屋の扉を開けようとした。が、鍵がかかっている。
私はようやく気がついた。今日は文化祭で、外部から人がたくさんやって来る。盗難を防ぐために、寮内の全ての自習室と寝室に鍵がかけられているのだ。鍵を持っているのは、寮監督の先生だけだ。これでは私達はもちろん、貞子先輩達だって部屋には入れない。
「トイレとバスルームには鍵がかかってないよ!」と千絵が叫ぶ。とすれば……、
「更衣室だ!」静香は廊下を駆け出した。
寮の一番奥の、一番寂しい場所。
静香が扉を勢いよく開けた。
 
貞子先輩の左手がリカの髪束を掴んでいる。
私はさやかを見た。リカの右腕を両腕で抱え込むように、押さえている。取り巻きの先輩の一人が左腕を同じように持っている。
リカは床に膝を着きながらも、懸命に抵抗していた。
「さやか! リカを離して!」
さやかは私の顔を見た瞬間に気が引けたらしい、緩んださやかの両腕からリカの右腕が抜け出た。
貞子先輩は慌てたせいか、すぐにでも切ろうとハサミを髪にあてた。
「やめて!」
和美さんが飛び出して先輩のハサミを持った手を激しく叩く。
ハサミが円を描きながら部屋の隅へと飛んで消えた。
解放されたリカが私達の方へ駆け込んで来た。ショックのせいで顔が青ざめている。
静香がリカの髪を手でゆっくりと梳きながら、
「大丈夫。何処も切られてないよ」と優しく言った。
貞子先輩が幽霊でも見るように和美さんを見つめている。
和美さんはゆっくりと貞子先輩に歩み寄った。
「貞子」と和美さんは先輩の名を呼んだ。
先輩は崩れるように床に膝を着いた。和美さんの手が貞子先輩の短い髪に触れる。
「……信じられない。……どうして?」
その言葉に貞子先輩は怯えたようにわめいた。
「あんたには関係ないでしょ!?」
突然立ち上がると、狂ったように腕を振り回し、取り巻きや私達を突き飛ばそうとする。
「出てって! 出てってよ! みんな、出ていけ!!」
私達は狂人のようになってしまった先輩の迫力に驚き、慌てて部屋を出た。
爆発したような音をたてて扉は閉まり、鍵が内側からかけられる。更衣室には貞子先輩と和美さんだけが残された。
 

20、さやか

 
「どうしよう……」リカがつぶやく。
「きっと和美さん、髪を切られちゃうよ……」千絵が言う。
貞子先輩の取り巻きたちは「あんなに取り乱した貞子は初めて見た……」と言って放心している。
「とにかく、先生達に報告して、更衣室の鍵を開けてもらおう」
静香がそういうと、リカが走り出した。慌てて千絵と早苗が後を追う。
「私も行った方が良いかな?」と静香が私の顔を見ながら言うので、私はうなずいた。
静香も廊下を走り出した。
「さやか」と私は呼んだ。さやかは肩を震わせて泣いていた。
取り巻きの先輩達から離れるように、私はさやかを促しながら、廊下をゆっくりと歩く。バスルームの前まで来ると、さやかは私に抱きついてきた。激しく嗚咽をあげながら涙を流す。
私は何と言って良いのか、わからなかった。慰めの言葉が見つからない。
慰める? さやかを慰める必要があるのだろうか……。 さやかはリカの一番大切なものを暴力的に奪おうとしていたのだ。許されることではない。
けれど、声も枯れ枯れに泣くさやかはとても哀れだ。どう見ても、さやかは敗者だった。
さやかはリカに負けた……。いや、本当にさやかが戦った相手はリカだったのだろうか?
「リカが……」声が上手く出ないようだ。それでもさやかは言った。
「リカが、武を……私の一番大切な人を……私から、奪ったから、……私も、……リカの一番大切なものを……」
奪いたかった! と、さやかの心が叫んだ。そして前よりも一層激しく泣く。
「最低だ、私……」
 さやかはリカと戦うべきじゃなかった。少なくとも、報復という形でリカを負かそうとしてはいけなかった。彼女が戦うべき相手は、彼女自身の「嫉妬の悪魔」だったのだ。
さやかは悪魔に負けた。その代償は、激しい自己嫌悪。
無意識のうちに私はさやかの背中を優しくさすってやった。
わかったよ。もう、いいよ。と、心の中だけで私は言った。
 
喉を詰まらせたように鳴っていたさやかの声がゆっくりと静まってゆく。それでも呼吸は不規則だ。しばらくすると、さやかがゆっくりと私から離れ、顔を上げた。
私は黙ってトイレから紙ナプキンを取ってきて渡した。さやかは顔を拭くと、「あゆみ、ありがとう」とつぶやいた。私は「さやか、お帰り」と言った。
武と別れてから初めて、さやかが私に本心を打ち明けてくれたように感じたのだ。

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「リカ・II」終了

つづき:リカ・III


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