黒金の宝冠

紅檀社


 誰にも付いて来られずに家を出られたらしいと知って、アイネルゲはそっと息を吐いた。行き先も告げずに出て来て、帰ったら叱られるのだろうけれど、今日こそは一人でいたかった。
 誰も知らない、水辺。この地方には幾らもある湖沼だったが、その中でも目立たない、池と言った方が良いほどの、小さな。アイネルゲしか知らない、秘密の場所。水の清らかさも、形も、際立って美しいのかどうかは分からなかったが、岸辺の丁度良い所に、人を暖かく迎えるような木が立っていて、その根に座ると、ほかの何処からよりも、光や、風にさざめく水面が優しく輝いて見えた。
 傍らに、携えて来た本と、剣を置く。そして懐から櫛を取り出した。いつも下ろしている髪を一房、掬って丁寧に梳かすと、湖面さざめかせているのと同じ風に、それを乗せた。
 自分の顔回りにある時は黒に見える髪が、柔らかい葡萄色に見えたり、陽に輝いたりする。それが唯一、アイネルゲを慰める時間だった。
 でも、この季節はじきに過ぎていく。
 アイネルゲは微かに眉を顰めた。
 自分が、父の統括するこの伯爵領に戻ってから、もうすぐ三度目の冬が来る。何もできずにいる時間が、このまま徒に増えていくのか。後を継ぐ男子がいない家の第一令嬢として、この家を継がなければならない日は、刻一刻と迫って来るのに。数年前、女王が即位して以来、女の当主は増え続けているが、それとて、まだまだ少数派だ。その中で、つつがなくこの地を治めていくなど、自分にできるのだろうか。
 貴族の子女として、人並みの教育は受けている。それなのに、最初の仕官の口探しでうまく行かずに領地に戻ってから、何もできていない。
 このまま時が過ぎていくのだろうか。脆弱な、身体。それとも、心?
 アイネルゲの手から、弄んでいた髪がすり抜ける。
 できない、のではなく、しない?
 いつもいつも、思ってはいけないと。焦ってはいけないと。押え付けている思いが顔を出した。
 剣の稽古をしていた、と言い訳するためだけに持って来ていた剣に、アイネルゲは手を伸ばした。座ったまま鞘を払う。
 たまさか手にした剣は、思いの外、重い。いざと言う時に、これを振り回して戦うことなどできるだろうか。二三回振ってみるが、とても無理そうだ。昔は出来たのだから今もそれほど酷くはないだろう、と油断していた。
 こうやって、風化していくのだ、何もかも。
 領地に戻ってから鋏を入れていない毛先は随分長く、不揃いになった。長い所ではもう、肘を越えて。
 ──髪だけがこうして、丈を成していくのに。
 がさりという音に、アイネルゲの物思いは絶ち切られた。
背後の茂みが鳴って、アイネルゲは思わず剣を構える。
 誰も来る筈は無いのに。金属音がする。
(人間?)
 気配を探る間に、音の源が正体を現す。
 髪を結い上げた、騎乗の婦人。歳はアイネルゲよりも五つ六つ上か。黒く見える瞳の強さに、アイネルゲは一瞬たじろいだ。顔立ちは優れて整っているが、まず受ける印象は、傲慢なまでの意志の強さ。取り敢えず剣を下ろし、アイネルゲは尋ねた。
「何者です。こちらが王家所轄の狩場だと知っての侵入ですか」
 一見して貴族と判る物腰に、アイネルゲは慎重に言葉を選んだ。
「存じておる」
 婦人は高圧的に返すと、馬首を変えかけたが、途中で振り向いた。
「ヴィエットラン伯爵の第一令嬢アイネルゲか。第二令嬢のユーテリゼではないな? 城はどちらだ」
 質問の形で名を確認されたが、返事は求められなかった。城と言われてその方角に目をやったアイネルゲの視線を追ってそちらを見やった婦人は、名乗りもせずにアイネルゲをその場に置いて、去った。
 後ろ髪もきちんと結い上げられ、馬の尻尾の方がよほど自由に揺れている。
 厳然とした後ろ姿を見送ると、アイネルゲも立ち上がった。怪しい者には見えないが、城へ行くと言っているのなら、王家からの使いかもしれない。
 それを放り出せる立場ではなかった。
 アイネルゲの髪を、一陣の風が巻き上げた。
 
「お姉様、お姿が見えなくて心配しました」
 妹のユーテリゼが足早に寄って来た。姉と同じく黒い髪だが、顎の線で鋭角的に切り揃えられ、眼差しも、いかにも剣士然と、凛としている。姉として立ててはくれるが、この妹を前にすると、アイネルゲはいつも劣等感に苛まれた。
「何か?」
「王城から御使者がお見えです。今、父上が御相手していらっしゃいますが、夕食には皆、揃うようにと」
「分かりました」
 何か言いたげだった妹に背を向けて、アイネルゲは階段を上った。さらり、と靡いた毛先に、妹の視線を受けながら。
 
 夕食の紹介された相手が先程の結髪の貴婦人だったことに、アイネルゲは驚かなかった。
 父以外、客分も迎える者も皆女の中で、ドレス姿なのは母だけだった。父は、常通り髪を靡かせたままのアイネルゲを睨む。妹が気遣うように視線を流したが、アイネルゲは下を向いた。
 いつもは尊大な父が、客の前で畏まっていながらも、娘達に対しては威厳を保つのに苦心している。
「こちらが、妻のセファ。上の娘のアイネルゲ。そして下の娘のユーテリゼでございます。
 私の母、前伯爵の未亡人は旅行中で…」
 彼女は、一瞥して軽く頷いた。
「こちらは、王家から御狩場の事でいらした御使者様だ。故あって、お名前は伏せられるが、くれぐれも御無礼の無いように」
 名を伏せているとは言え、伴の一人も連れていない。父のこの様子では相当な身分の貴族だろうに。
 殆どの会話は父と客人の間で行われたが、アイネルゲは落ち着かなかった。黒々とこちらを射抜く双眸が怖い。
 名は言わずとも、恐ろしく高い身分なのが分かる。おそらく、珍しくもへりくだる父の態度が無くても。侯爵、あるいはその更に上。仮に伯爵家だとしても、ヴィエットランとは違い、王城に部屋を持つ名家か。明らかに爵夫人などではなく、爵位の称号を持つ本人。ならば、将来のアイネルゲと同じ立場だ。
「こちらのユーテリゼ嬢は剣の上手だと聞いたが、それは活かしておられるのか」
 妹の名が出て、アイネルゲは身を固くした。来る。自分にできるのは……やってきたのは、馬に乗ることと、詩を書くことだけ。それも、乗馬は人に抜きん出ている訳では無く、好きで乗っているだけ。詩も、好きで書いて来ただけ。自分で発表できたものも無い。
 それでも、場は一見和やかに流れていく。
「──成る程、武張った御一家であられるな。では、姉姫は何をしておられる」
 何かを、何かを言おうとしたが、喉に何か閊えたように言葉が出ない。婦人のこちらを見る目は何の責めも浮かべてはいないのに。
 苛々とした父の咳払いを、母が遮った。
「アイネルゲは身体を壊して以来、静養を続けておりますの」
 いつだって、表向きにはそう言われて来た。
「それは良くないな」
 客人の顔が曇った。
「いまも芳しくないのか?」
 気遣わしげな顔に、アイネルゲは何とか答えた。
「…いえ、今は随分良くなって…外に出ても、気分が悪くなることも少なくなりました」
 本当は、家の中にいる方が余程気分が悪かったけれど。
 言ってから、今日泉で会ったことを、どうか口に出さないでくれるよう、強く強く祈った。
「では、何かをされている訳ではないのだな」
 アイネルゲは俯いた。
「…そろそろ、とは思っておりますが……」
 ならば丁度良い、と客人は微笑んだ。
「女王が良家の子女を一人、欲しがっている。
 アイネルゲ嬢、心に決めたことでもないのであれば、この私と一緒に来てはどうか。ヴィエットラン伯爵、もし決まれば御本人にはすぐに来て頂くが、後ほど伯爵令嬢に応分の支度金は用意する」
「は、それは願ってもいない事でございます」
 父は恐縮しながらも、喜んだ。次代として頼りにならず、かと言って後継者を作る結婚もしそうになく、厄介に思っていた上の娘が突如、王城に上がれるようになるとは、まさに僥倖だろう。
 しかし、アイネルゲにはまず何よりも不安が先に立った。
「アイネルゲ嬢、後はそなた次第、私と来るか、否か」
「畏れ多いことでございますが、あまりに突然で…」
 いつかは何かをしなければいけないと、思っていた。
 でも今、この土地を離れ、あの泉を離れ、親しい者などいない王都へ向かうのかと思うと、身が竦む。
 妹が、母が、父が見る。このような時機は二度と廻っては来ない。それは、良く分かっている。自分にこのような機会が訪れるとは、思ったことさえなかった。
「どうして良いのか、わかりません。今しばらくお時間を頂きたいのですが…」
 無骨な印象を与えるほど鍛えられた指にどこか意外な艶っぽさを見せながら酒杯を口に運ぶ婦人に魅入られたかのごとく、誰もが口を開かない。彼女は徐に酒杯を置いた。
「したが、アイネルゲ嬢、私は明朝この地を発つのだ。残念だが、あまり考える暇はやれぬ。難しくは考えないで良い。ここにいたいか、他所に行ってみたいか、諾否を令嬢御本人の口からお聞きしたい」
 アイネルゲは必死に皿の上の物を、細かく細かく切り刻んだ。少しでも、話題が逸れて欲しかった。
 今、決める。今、決める。今、決める、今決める今決めるいまきめる…。
 頭の中が、真っ白になった。
「アイネルゲ嬢」
 断固とした声にびくりと身体が跳ね、手からカトラリーが落ちる。耳障りな金属音に鳥肌が立った。俯いた時に落ちた髪が今、唇に貼り付いた。さぞみっともないことだろう。
 恐る恐る視線を上げると、確たる、でも、優しい眼差しに迎えられ、自らがどれほど怯えた目をしているのかを思い知る。
「一月きっかり、そなたを城で使おう。なに、ここもあそこも、城は城。そう恐ろしい所ではない」
 それはもう、決定だった。
 
 アイネルゲは部屋に篭って持って行く物を選ぼうとした。向こうで必要な物は全て揃うから支度は不要だと言われたが、そういう訳にもいかない。
 昔書いた詩と、適当な句が見つからず書きかけのもの。本。辞書。菫色のインク。花文字用のペン先。
 使い慣れたものはどれも、すぐに手に入る日用品とは違う。
 何をどう持っていけば良いのか分からなくなって、机の上に取り並べた文具をそのままにして、鏡台の櫛道具を纏めてみる。
 アイネルゲのもう一つの趣味、と言えるかも知れないものに、必要な道具。
 誰もが使う、獣毛のブラシ。銀の飾り櫛。異国渡りの木の櫛は、簡素だが、一番髪に優しい気がして、日々使っていた。阿列布の髪油。少し特別な日に使っていた、取って置きの香油。気の落ち込みを慰めてくれる物を、できる限り掻き集めた。
 大好きな、綺麗な薄布。実用になる物は殆どないが、気鬱を幾らかでも和らげてくれる物は、何よりも実用的な筈だった。
 それに、何もいらない、とは言われても、王城まで丸三日の旅。最低限の下着も必要だろう。仮にも伯爵令嬢がドレスの一着も無しという訳にいくのか? 武具は?
 ごちゃごちゃと引っ張り出して、床の上から寝台の上まで、見るも無惨な有様だ。一段落ついたら、少しでも休んでおかなければならないのに。
 無意識に掻き上げた前髪に指が通らないのに気が付いて、思わず木櫛を手に取る。髪の縺れをことごとく抜き去るのにいつしか夢中になった。
 三回ゆっくりと扉が鳴る。アイネルゲはびくりと手を止めて、そちらを見た。
「お姉様」
 ユーテリゼだ。
「何?」
 櫛を置いて、抜けて辺りに散った髪を慌てて拾い集める。
「御支度は進んでいらっしゃいますか?」
 扉の向こうのユーテリゼの気配は動かない。
「今やっているところ。何か用?」
「入ってもよろしいでしょうか」
 手伝いに来たと言うなら断ったが、ユーテリゼの口調に、ほんの少し思いつめた気持ちがあって、アイネルゲはつい入室を許した。
「どうぞ」
 ユーテリゼは静かに入って来ると、後ろ手に扉を閉めた。いかにも甲冑の似合いそうなしなやかな身体と、無駄のない身のこなしに、アイネルゲは羨望を抑え切れない。
 ユーテリゼは部屋の散らかり様に一瞬目を丸くしたが、何も言わない。アイネルゲも、それを見ない振りをした。
「何?」
 殊更に構わぬ様子で、アイネルゲは尋ねた。
「お姉様、この度は急なお話で…」
「ええ、そうね。驚いたわ」
 アイネルゲは机上の本を揃えた。
 ユーテリゼは直立したまま、何も言わない。
「あ、そこの紐を取って」
 ユーテリゼが渡した紐を受け取って、書物を束ねる。
 人が見ている前では何となく仕事ができる自分が嫌だった。
 何かしろと命じた訳では無いが、ユーテリゼも寝台の上に散った紗のリボンを纏め始めた。背を向けたままアイネルゲに問いかける。
「お姉様…」
「何?」
 先程から何度も聞いている問いを、アイネルゲは少々の苛立ちを交えて繰り返した。
「明日、お発ちになるのですね」
「ええ」
 アイネルゲは、紙片を数える振りをした。
「大丈夫でしょうか…」
「雨も降りそうにないし、大丈夫でしょう」
 妹の懸念を分かっていながら、気付かぬ振りをした。
「いえ、あの…お務めが何かも良く解らないのに…」
 快活な気質の妹が、自分にだけは言葉を選ぶような話し方をするのが改めて癇に障った。
「お父様も止められなかったし、本当に無理だということはないのでしょう」
 すげなく躱したアイネルゲに、ユーテリゼは食い下がった。
「いえ、あの…お姉様は、どうお考えなのですか? 本当はお嫌なのでは…」
 ユーテリゼはリボンを既にまとめ終え、適当な布袋に日用品を詰めているようだ。
「私が嫌だからと言っても、どうなるものでもないでしょう」
 アイネルゲはインク瓶の蓋をきゅっと締め直した。
 妹はアイネルゲに向き直った。動きに沿って乱れた髪が、元通り頬に落ちる気配がする。
「お姉様。お姉様が本当にお嫌なら…」
 アイネルゲは手にしたペン先から目が離せなかった。
「なぜ? 私は嫌だとは言っていないわ」
「でも、決して行きたいとは思っていらっしゃいません。そう思っている人の様子ではありません」
 アイネルゲは窓の外にちら、と目をやった。大分月が高くなっている。燭台の光よりも明るい程だ。
「なぜいきなりそんなことを言うの?」
 アイネルゲは髪を掬って、月の光に当てた。髪の艶が指に巻いた線によって移って行くのを目で追い掛ける。ユーテリゼが一歩寄ったのが分かった。
「見ていれば、解ります。わざわざ侍女も使わずに御自分で支度なさって……でも、とても本当に支度しているようには見えません。
 お姉様、ご無理なら、代わりに私が」
 アイネルゲは髪を落として妹と向き直った。
「代わりにあなたが行って、何かできると言うの? さっきあなたが言った通り、何をするかも分からないのに。それを、あなたならできると言うの? 私には無理でも?」
 アイネルゲは畳み掛けた。
「お姉様……」
 ユーテリゼの顔が歪んだのは分かったが、言葉を抑えるどころか、逆に、感情が頑なになった。
「それに、あなたには毎日のお務めがあるでしょう。それを放り出して行くと言うの? たとえ私が嫌がったとしても、冷静になりなさい。あなたには責任があるでしょう、ユーテリゼ。私がどう思っていようと、私が行くのが一番良いのよ」
 ユーテリゼが下を向いてしまったのを見て、アイネルゲは言葉を切った。
「今日はもう、お休みなさい、ユーテリゼ。あなたも、明日は早くに御挨拶しなければならないでしょうから」
 はい、とユーテリゼは小さく口の中で言った。最後に振り返って、
「お姉様も、少しはお休みください」
「支度が終わったらね」
 ユーテリゼが辞した後、アイネルゲは妹が触っていた布袋を開いてみた。必要な物が最小限入っているようだ。これと、朝になってから持って行きたい物を合わせることにして、アイネルゲは寝台の空いている場所に横になった。
 疲れてはいたが、すぐに眠気が訪れるわけではない。
(どうせ、たったの一月)
 夜が白み始める頃、僅かに眠った。
 
 
「アイネルゲ嬢。乗馬は問題ないな? 今更だが」
 婦人が尋ねたのは、出発直前。既に二人の乗る馬が引き出されてからだった。
 戸惑うアイネルゲを見て、婦人はおや、と言う顔をした。
「馬車の方が良いか」
「いえ、むしろ好きなのですが…」 
 口籠るアイネルゲに、婦人は先を促した。
「…これだけの旅装で、三日も旅をするのですか…?」
 本当に馬だけで行くのかと、驚いたが、相手も不思議そうな顔をした。
「来た時と同じだ。その倍の日数は困らぬ支度をしてあるぞ」
 誰の手も借りずに手早く自分でやったらしい。馬の両側に一つずつ提げた婦人の革袋は、アイネルゲの支度品の、多くて三分の一。駿馬にすっきりと積まれた装備に、アイネルゲは恐慌状態に陥った。
 部屋に駆け戻って、今にも運び出される自分の荷物を見た。
「待って」
 二人掛かりで荷物を持っていた、侍女と下男が手を止めた。アイネルゲは二人に飛びかかるようにして朝慌てて掻き集めた荷物に飛びついた。差し当たって必要ないものを少しでも削ろうとして詰めた物を引き出しているうちに、何がなんだか分からなくなった。
 何が必要なんだろう。
 焦る程に、分からない。
 掻き上げた髪が、指に絡む。傍にいた侍女に命じた。
「櫛を。髪の道具の入った袋を開けて」
 鬼気迫る様子のアイネルゲに、侍女と、一緒にいた下男までも袋を開けてそれを探した。
 適当に突っ込み過ぎて、何がどこにあるのかわからない。片端から床の上に開いて中の物を引き出した。
「それ、その袋!」
 遂にリボンの塊が目に入った。
 アイネルゲは袋を侍女の手から奪い去ると、自分の手で選り分けて、隠れていた櫛を取り出した。
 扉が鳴る。外で、ユーテリゼの声がした。
「お姉様」
「何? 今、忙しいのよ!」
 声を掛けながら、いつも使っている木櫛と、髪油を手に握った。
「お支度はいかがですか? 皆様、お待ちなのですが…」
「今行きます!」
 物が散乱した部屋を片付けるように侍女に命じながら、アイネルゲは昨夜ユーテリゼが詰めた日用品の袋を新たに掴んで、部屋を飛び出した。
 
 
(速い…!)
 アイネルゲは焦った。少しも急いでいるようには見えないのに、ともすれば遅れがちになる。
 技を競えば上手だとは限らないが、好きな乗馬で人に遅れを取る事があるなどとは思ってもみなかった。王城まで最短距離の山道。葉が落ちた山中でさえ、前を行く婦人の背を見失いそうになる。背中にびっしょりとかいた汗が、冷や汗なのか脂汗なのかもわからない。
 乗馬では乗り手より余程差を付ける馬の格が、まるで違う。ずくん、ずくん、と言う脈動を頭で感じた。
 頭を枝にぶつけそうになって慌てて首を竦めた途端、小枝にぴしりと腕を打たれる。かなりの痛みを堪えて行き過ぎると、後ろからぐん、と頭を引かれた。慌てて手綱を引いたが、勢いで落ちそうになる。
 髪が枯れた小枝に引っ掛かり、吊られていた。実際何本も毟り取られた痛みで、アイネルゲは顔を歪めた。馬を何歩か下がらせて解こうとしたが、気が急いて中々うまくいかない。遠ざかる婦人の足音に尚更焦って、涙が零れそうになった。
「アイネルゲ嬢」
 突然に、声が掛かった。
 アイネルゲの髪が絡まった枝の下に、いつしか婦人が立っている。彼女は革手袋の手で頭上の枝を摘んだが、アイネルゲの髪で目線までは降りなかった。
「簡単には解けそうにない。切るしかなかろう。どちらを切るか。髪は折れているようだが、枝はまだ生きている」
 生きているのが枝の方だと言われてしまえば、そちらを切るとは言えない。アイネルゲは涙を呑んだ。
「髪を、切ります…」
 突っ張っている髪越しに見える婦人の目が一瞬和んだ。一応は正しい答えをしたらしい。が、婦人が剣の柄に手をやったのを見てどうしようもなく悔やんだ。
「あの、自分で致します……」
「そこからでは見えまい」
 鞘から抜く音に身が竦む。一気に切られてしまったら、どうなってしまうのか。髪を靡かせる風にこだわらずに、纏めておけば良かった。アイネルゲは激しく後悔した。
「アイネルゲ嬢」
 身を固くして目を閉じたアイネルゲに、声が掛かった。
「もう少し離れて、髪を張らせて、根元を押さえられよ」
 アイネルゲは慎重に馬の足を一歩進ませ、すぐに手綱を引いた。そして続けて言われた通り、髪の根本側を押さえる。唇を噛んで運命の瞬間を待った。
 シュ、と金属音のような音がして、頭が解放された。怖かったけれど一気に振り向かずにおれなかった。
「動けるか」
 目が婦人の笑みと合って、どぎまぎする。
 彼女は、切る間に押さえていた枝から手を離し、剣を納めた。
 アイネルゲの髪から解放された枝は、元の高さに跳ね戻って揺れている。枝にぎりぎりで残った髪は、ほんの僅か。
「ありがとう、存じました……」
「栗鼠の巣材くらいにはされるやもしれぬが」
 頭上の髪の房を見上げて、婦人が呟く。
「切らねば、他の髪も傷めるだろうからな。より大切な方を守るためには、時には切らねばならぬこともある」
 婦人は前方の木の枝に掛けてあった自分の手綱を取り、馬に跨がった。
 彼女の後ろ髪は、昨日と同じように結い上げられていて、殆ど乱れを見せていない。後れ毛が二筋見えるだけの項を見ていると、彼女は馬を進めようとして一旦手を止め、腰の辺りを探ってから振り向いた。
「アイネルゲ嬢、これを」
 アイネルゲが放られたそれを受け取ると、細い革を編んで作った、紐だった。
「纏められよ。傷んだ髪は二度とは返らぬ」
 アイネルゲは髪を襟足で一掴みにすると、その紐を掛けて、しっかりと結んだ。婦人はもう背を見せて進んでいる。
 アイネルゲは気が付いた。彼女の馬体も、身の丈も、決して小さくはないアイネルゲより一回り高いのに、枝にぶつかることもなく、小枝を髪に突っ込ませることもない。ましてやあの、高々と結い上げた髪。それが、木漏れ日を反射して強く光る。
 馬だけでは無い違いを、認めざるを得なかった。
 
 
 
 暗くなる度に近くの街道に出て宿を取り、二人が王城を目にしたのは三日目の正午前だった。
 葉の落ち切らない森の中、アイネルゲは婦人の背だけを見て進んでいたが、ふと視界が明るくなった事に気が付いた。
 婦人が馬を止めたのを見て、アイネルゲは視線を上げた。そして、自分が開けた小高い丘の上にいる事を知る。
 目の前に迫る、初めて見る白亜の城。瀟酒と言うにはあまりに豪壮だった。大きな石が視覚的に引き締めるように配置されていて、甘やかさの欠片も無い。
 自分が育った城とも、学舎とも、まるで違う。建造物から受ける、思わずたじろぐ程の意志の強さ。圧迫感すら感じさせる、見る者をおののかせるような闘志。
 でも、完全に見知らぬそれではなく。
「アイネルゲ嬢、王城は初めてか」
 はい、とアイネルゲは返事した。
 断じて、「城は城」などではない。ここは紛れもなく国を統べる、王の住まう場所。
(ああ…)
 と、アイネルゲは納得した。
 この城は、この婦人と良く似ている。
 漸く飲み込んだ唾さえ、喉に滲みた。
「アイネルゲ嬢はどちらの学都で学ばれた」
「クリューロの都……です」
 領地を離れて学んだ学都は、ここではなく、いにしえよりの歴史を誇る古都。そこで、辛うじて名門の端くれに名を連ねる大学で。
 そうか、と言うと婦人はアイネルゲの立つのとは反対側の後方、右の上をちら、と見遣った。アイネルゲも釣られてそちらに視線を移した。
 目を凝らすと、森の木々の間に物見台が見える。その上の兵が徐に番えた矢を下ろし、アイネルゲはぎょっとした。が、婦人はもうそちらを向いてはいなかった。
 吹き上げる風がさらりと鬢の乱れ髪を巻き上げる。一緒に風に揺れた髪の先を少し見遣ってから、アイネルゲは視線を伸ばした。
 遥か彼方まで、青く抜けた空の下。目線の少しばかり下に、豪壮な城。その足下にちまちまと続く城下の街。
 遷都して百年と経たぬこの地は、
(若い)
 この地よりずっと後に生まれた筈のアイネルゲは思った。
「参れ」
 知らず呑まれていたアイネルゲに厳然と声が掛かる。アイネルゲは慌ててそれに従った。
 
 幾刻も経たぬうち、アイネルゲは彼女に付いて延々と続く回廊を歩いていた。
(おかしい)
 位置からすれば、確かに城に入っている筈なのに。
 アイネルゲは不審を感じた。
 あれだけの規模の城で、まだ日も高い時間なのに、誰一人として行き交う者がない。
 先の分からない森の中にいた時と同じ。ひたすらに婦人の後を追い続ける。気が付くと肩幅ぎりぎりの細い廊下を歩いていた。所々に点々と明かり取りの窓、と言うよりは穴が空いているが、暗い。
 自分は何処へ来てしまったのか。王城で、一月、勤めるだけの筈ではなかったのか。心臓の音だけがどんどん大きくなる。
(もう、耐えられない)
 と思った時、婦人がぴたりと止まった。正面は行き止まりだ。
 暫く見て、アイネルゲはやっとそれが何かを知った。
(変な、扉…?)
 把手がある。でも、それが咄嗟に分からなかったのは、一つの扉に幾つもの──と言うより、埋め尽くすように把手があったから。
「後ろを向け」
 婦人が唐突に、命令を発した。
 勿論アイネルゲの他に誰もいない。少しして初めて自分に言われているのだと理解して、アイネルゲは慌てて不様に後ろを向いた。
 カチ、カチ、カチ、とごく微かな金属音が、響いた。
 時を刻むゼンマイのような音を聞きながら、アイネルゲはそのまま不安な時を過ごした。
「こちらを向け」
 再び声をかけられてアイネルゲが前を向くと、もうそこには扉は無かった。
 代わりに現れたのは、変四角形の明るい小部屋──五歩も歩けば横切れてしまう程の。そして何とも奇怪な形に断ち切られたような窓。
(一体…?)
 アイネルゲを気にする事なく婦人は前に進む。アイネルゲもそれに続いた。扉が背後で閉まり、アイネルゲは心配になる。
「まあ、お早いお帰りでしたこと!」
 女の声がして、婦人にふわりと抱きついた者がある。柔らかな声にはどこか不似合いな、黒いドレスの裾。
「今回は天候に恵まれた。
 変わりないか、エーヴェ」
「ええ、何も。うまくいきまして?」
「ああ」
 軽く抱き返して、婦人は彼女を離した。
 顔を見ると、二人は驚く程印象が似通っている。アイネルゲは軽い驚きを感じた。
 二人の歳の頃が同じ。二人共がアイネルゲより背が高い。そして、その印象を与えるのは同じ形に結い上げられた髪と、同じ、意志の強い眉。
(姉妹?)
 アイネルゲは自分がユーテリゼと似ているとは思っていなかったが、他人の目から見るとこのようなものなのかも知れない。
 尤も、自分達姉妹は明らかに髪の長さが違うけれど。
 そして、服の色。ドレスと乗馬服と、全く違うのに、白いシャツと黒い上着、そして黒いドレスの襟元と袖口から覗くレースが、不自然なまでの一体感を醸す。
 ドレスの女性がアイネルゲに気付いたのを機に婦人は二人を引き合わせた。
「ヴィエットラン伯爵の第一令嬢、アイネルゲだ」
 アイネルゲは礼を取った。
 続いて、婦人は出迎えた女性を、いかにも無造作に紹介する。
「現国王テレアレイグラ二世」
 アイネルゲは目を見張る。これが、歳若くして──今のアイネルゲよりも二つも年下で王座に着いた女王。
 彼女が傑出した治世を行ったからこそ、女子の家督相続が、不承不承ながらも認められるようになったのだ。アイネルゲでさえも。
 瞠目するアイネルゲを前に、彼女は乗馬服の婦人を見た。
「そうなのですか?」
 彼女が聞いたので、アイネルゲは当惑する。
 婦人はこれまた貴族に不釣り合いな程小さな寝台に腰掛けて、ごつい長靴を外している。
「──ではなかった。テレアレイグラ二世の影、レプラチェメン伯爵家当主、エーヴフェクトだ」
 アイネルゲでも知っている。確か、王の幼馴染みで、最も信頼の深い側近。いつでも侯爵位を授けられてもおかしくないほど、数々の勲功を上げている筈の。
 国初から、僅か数十年。新興の王家の三代目の王。それに従う側近でさえも、この存在感。アイネルゲは畏怖すら覚えた。
 女伯爵は、ドレスの裾を摘んで優雅に膝をかがめた。
 なんと洗練されている事か。大貴族とは、こうも違うものか。そして、自分を伴った婦人の権高さ。アイネルゲはただただ、圧倒された。
「脱げ、エーヴェ」
 あまりにも唐突な命に、アイネルゲは驚いたが、
「はい、只今」
 女伯爵の返事に、さらに仰天した。
 口を開けたままのアイネルゲに、女伯爵は悪戯っぽい眼差しを送った。
「失礼、ヴィエットラン伯爵令嬢。でも、良く見ていてくださいね」
 アイネルゲは声も出せず、ただ頷いた。
 女伯爵が脱いだばかりのドレスを、乗馬服を脱ぎ捨てた婦人が受け取る。
 こちらに背を向けた彼女の身体は、見事なものだった。無駄な肉など一つも無く、鞭のような、と言うにはあまりにも意志のある肉体。線を整える下着はまったく無しで、薄物一枚の上から、ドレスを着ける。それも、誰の手も借りず、一人でさっさと。
 アイネルゲは女伯爵に目を移した。人の手を借りないのは、こちらも一緒だ。ただ、こちらはドレスを脱いで渡すと、あちこちに巧みに凹凸をつけている当て物の入った下着を脱いだ。そして、部屋の隅の物入れから、別の、檸檬色のドレスを出した。
 だが、それを着ける前に、彼女は補正のコルセットを着ける。背で紐を締める頃、婦人が当然のように手を貸したことに、またもやアイネルゲは驚く。
「もう少し締めてくださってもよろしくてよ」
 婦人は返事をせず、そのまま固い顔で紐を括った。
 アイネルゲも普段は殆ど自分で服を着付けるがドレスとなると話は別だ。
 しかも、このように明らかに高位の貴族の女性が二人して、まるで当然のように手早く自分で身支度を整えていく。
(でも、何故)
 手など幾らでもあるだろうに。
 腰の曲線を強調した檸檬色のドレスを着けた女伯爵は、鏡台とも言えぬ小さな鏡を乗せた化粧台を覗き込む。洒落た化粧水の瓶らしきものを手布で受けると、目の辺りを拭いた。
(違う)
 女伯爵がこちらを向いて、アイネルゲは悟った。彼女が拭き取ったのは、鋭角的な角眉。
 変わって現れたのは、優しい三日月眉。
 すぐにまた鏡の方を向いた彼女は、結い上げた髪に手をやる。
 髪のピンを三本ばかり引き抜いて白い指でほぐすと、ばさりと落ちた髪は驚く程長い。アイネルゲの、肘より下までの髪を更に越えて、ゆうに腰を覆う程。転がり落ちそうになった毛たぼを、すっとその手が拾う。
 幾分細手で、目の揃った、素晴らしい艶の髪。結っていた跡が波打ち、強く光っている。アイネルゲは知らず溜め息を漏らした。
 と、思う間もなく、彼女はその髪を、目の詰まったブラシで軽く撫でて表面を整えると、再び結い上げる。檸檬色のドレスと良く合った金の飾り櫛を幾つか挿す。
 異なった形に結って、髪の先は見せたまま、肩から腕につく位。結った後が付いただけではなく、実際は髪に緩やかな癖があるらしい。少しずつ長さの違った髪を背に散らした髪が実に華やかで、アイネルゲは羨望を覚えた。
 それが終わった頃、後ろに立った黒衣の婦人が後ろからつと手を伸ばして鏡台の上の宝石箱を開け、真珠の首飾りを取り出した。そして、女伯爵の頸に乗せると、髪の下を通して金具を留める。
 確かに真珠なのだけれど、柔らかく黄金の光沢を放つ。肌の上で繊細に輝く珠の連なり。
 髪の光沢と相まって目を奪われるアイネルゲに、女伯爵は微笑んで首飾りに手を添えた。
「陛下からの賜り物ですの。すばらしいでしょう?」
 アイネルゲは、また頷く。
 その間に女伯爵は、今度は寝台に腰掛けて、その下から靴を取り出していた。金箔が乗せてあり、華奢で踵が高い。だが、足から外した頑丈な長靴は、それよりもずっと底と踵が厚かった。
「宮廷一の美女を飾れば真珠も本望だろう」
 婦人も重々しく言い添えた。
 華奢な靴に足を通しながら、彼女は驚いたように顔を上げて抗議する。
「とんでもない。宮廷で一番お美しいのは、陛下ですわ」
「そう言うのは、そなただけだ」
 立ち上がった女伯爵の裾を、軽く腰を曲げて、婦人が裾を整える。
「皆、畏れ多くて軽々しく口にできないだけでしょう。
 …それくらいは自分でできますから、甘やかさないでくださいな」
(……え?)
 アイネルゲは、話の流れに何やら違和感を覚えたが、それが何かまではわからなかった。
 女伯爵が立ち上がると、アイネルゲより僅かばかり背が高いくらいで、顔半分が上にある婦人とは大分背丈が違う。
「アイネルゲ嬢、こちらだ」
 声をかけられ、アイネルゲは我に返った。
 華やかに装った女伯爵が、壁にしか見えなかった面をどうやってか、扉のように開く。それを傲然と黒衣の婦人が抜ける。アイネルゲも促され、恐縮しながら後に従った。
 アイネルゲは、婦人に従って扉を出て、目を見張った。
 今まで居た、光の満ちた小部屋とは打って変わった──広大と言って良い程の、部屋。
 でも、後から出て来た女伯爵の後に閉じた壁を見て、少なくとも、自分は巧妙に配された隠し部屋から出て来たのだと理解した。
 重厚な調度に圧倒されそうになる。
 窓に背を向けて設えられた、執務机。
 壁に掲げられた、剣と、槍。
 窓の外で、今も緑を讃えて風に揺れる木々だけが、同じ。
 そして、肖像画の中からこちらを睥睨するのは……?
 後ろに立った女伯爵が声を発する。
「お聞きしてよろしいでしょうか」
 それはアイネルゲへの問いではなかった。
「ご自分の紹介はまだお済みではないのではございません?」
「まだだ」
「もう、よろしいでしょうか」
 女伯爵が彼女に伺いを立てた。婦人が頷く。
 黒衣の婦人は足を止め、執務机の前でアイネルゲに向き直った。二人の間に立つ形で、レプラチェメン女伯爵が仲介をした。
「ヴィエットラン伯爵令嬢、第三代国王、テレアレイグラ二世陛下ですわ」
 婦人の眼差しを真正面に受けて、喉が詰まったように声が出ない。先刻からの腑に落ちなさと、壁の肖像の面差しがそっくり同じなのに、頭のどこかでは気付いていた筈なのに。
 不躾な程、視線を反らさない鋼のような瞳にも。
 何に伏せることもなく、あまりにも当然のように昂然と掲げた頭にも。
 反感さえ抱く程の威丈高な態度に、皆が──自分さえも、従ってしまうのも。
 人の生を変えてしまえる程の選択を、あまりに簡単に問えるのも。
 限りなく、正しい。
 いや、
(どんなことでも、正しくなるほどの力を持つ)
 だからこそ、
(怖い……)
「いかがした、アイネルゲ嬢」
 覗き込まれ、アイネルゲは思わず飛び上がった。
「い、いえ……」
「心配することはない。そなたに勤まる役だからこそ、召し抱えたのだ」
 膝ががくがくと震える。それでも、相手の瞳から、目が離せなかった。
 
 アイネルゲは、レプラチェメン伯爵エーヴフェクトにその身分を預けられた。そして、仮の名と、茶色い巻き毛の、短髪の鬘を与えられる。一人でいる時と、二人以外の者がいる所ではそれを外すことを禁じられた。
 その日のうちに靴を誂えられる。恐ろしく無口な、靴屋らしき者──アイネルゲに口を開くことは許されていなかったので確認できなかった──足形を取られ、爪先立ちさせられ、綿密に計測された。
 
 早朝は、人気の無い庭の片隅で、女王の剣の稽古の相手。
 汗を流して、私室で朝食の相手。
 明るいうちは、女伯爵に伴われて、女王の執務の手伝い。
 そして、夜は初めに入って来た小部屋に閉じ込められる。窓を開けることはおろか、カーテンを上げることも、明かりを灯すことさえ許されない。
 一人になってやっと外すのを許される鬘を部屋の隅に放り投げようとして──朝、拾ってかぶるのは自分自身なのだ、と思い直して、寝台の角に掛けた。
 朝、扉を開ける前に身支度を済ませておかなければならない。
 毎朝、規則正しく四回、扉が鳴らされる。アイネルゲも同様に叩き返して、初めて外に出して貰えるのだ。
 せめて時計を置いて欲しかったが、何かの拍子に音が漏れてはいけないとのことで、許されなかった。
(朝、起きられないかもしれない)
 横になっても心配で、眠れない。今眠っておかなければ、逆に朝方眠り込んで失態を晒すかも知れない。
 なぜ眠れないのかわからないほど、気が立って……混乱していた。
(私は、何をしにここへ来たのだろう)
 豪華なドレスを纏って、自信に満ちあふれた、貴婦人達を前にして。
 髪を、風に放つことも許されず。
 涙が、こめかみを伝って髪に吸い込まれた。
(いけない、髪が傷む)
 アイネルゲは起き上がって、布を探した。せめてもと、濡れた辺りを拭って、涙がこぼれないように目に当てる。でも涙は勝手に落ちるだけで、泣く程の力は残っていなかった。
 
 数えてみると、やっと八日目。長い長い間、ここにいるような気がしたけれど。
 表に出ると、今日は女伯爵の姿が見えない。疑問が顔に出たらしく、婦人──女王が言った。
「エーヴフェクトは稽古の後で来る。……あれも、体調が万全ではないのでな」
 アイネルゲは意外に思った。しなやかな身のこなしで快活に笑う彼女が不予だとは。しかし稽古に入ると、苦しさに、それを忘れた。
 ドレスのままの女王との対峙。アイネルゲは初めこれにも驚いたが、見ていると、聞かずとも説明された。
『襲われるのが戦場に出ている時だとは限らぬ。だから、闘うのに一番不利な格好で稽古するのだ』
『着替える時間もなくて済みますし。
 お時間に猶予がある時は、色々な格好でお稽古されますのよ』
『いざ戦場に出て、甲冑に振り回されるようでは、それこそ話にならないからな』
 幾ら鍛練されているとは言え、重たげな裳裾を引き摺っての剣の稽古。
 そう思ったアイネルゲだったが、直に考えた甘過ぎたことを思い知らされた。
(強い……!)
 多分、剣士として知られた、妹よりも。圧倒的に。
「アイネルゲ嬢」
 必死で呼吸を整えようとしていても、肩の上下するのを抑えられずにいるアイネルゲに声が掛かった。
「辛いか」
 慌てて、首を振る。二回だけ息を吸って、吐いて、漸く声にした。
「い、いえ。そのよう、な、ことは……」
 幾ら密な稽古とは言え、この程度で辛くなってはいけない練習量だと言う事は、さすがに知っている。
「精一杯やっているのは、判る」
 アイネルゲは唇を噛んだ。
「が、せめて、気合い声だけはきちんと出せぬものだろうか」
 これ、以上。何を求められても無理だ。
「私は聞いているだけだ、アイネルゲ嬢」
「はい……」
手が、その形に固まるほど剣の柄を握り締めて、稽古しても。
(足下にも、及ばない…)
 こんな所で、泣いては、いけない。
 滲む涙を堪えようと、目を閉じると、両の目から、筋となって零れた。
「アイネルゲ嬢」
 アイネルゲがどんなに動揺しても、声の調子は変わらない。
「これから私が言う、二つのことをせよ。
 一つ目は、声をきちんと出すことだ。他は多少、行き届かなくなってもまだ仕方ない。
 二つ目は、私から一本取ることだ。時刻は問わぬ。私が剣を持っていない時でも良い。とにかく打ち込んで、私から一本取ってみせろ。今の環境の中で、隙を見てかかって来るが良い。
 一本取れたら十日稽古を休んで良い」
 もう、良いと。言われるのなら、どんなに楽だったか知れないけれど。現実は、そう甘い筈もない。
「横からでも後ろからでも、上からでも下からでも、どこからでも構わぬ。私に参ったと言わせてみるが良い」
 しゃくり上げながらした返事は、女王が今まで受けた、どの挨拶よりも不様なものだったろう。
 そんなアイネルゲにさえ笑顔を見せてくれた女王は、それでも、その場で切り掛かって来ることを命じた。
(眠りたい)
 アイネルゲは、願った。
 何も、考えずに。
 
 差し当たって、少しでも休みが貰えるならと、アイネルゲは隙を窺ってはみたが。
 勿論、そう簡単に隙など転がっている筈もない。
 働かない頭で、アイネルゲは考えた。
 どうしたとて、結局、これはひと月続くのだ。ならば、このままいても同じこと。無駄に楽などしようとせずに、ただ淡々と日々の勤めを果たせば良いのだ。
 このていたらくで十日分の稽古を休もうなどとは、おこがましいだけだ。
 アイネルゲは、諦めることにした。
 それでも、ふ、と気付く。顔を上げると、女王はアイネルゲを見ている。
『来い』と。
 声には出されなくても、それを見ぬ振りができる程、神経が太いわけでもなく。
 その度に、アイネルゲは剣の柄を握ってはみたが、それを抜くことなどできるわけもなかった。
 さらに、三日ばかり経った朝。
 女王がまた、自分を見た、気がした。
 破格の厚意で、ああまで言ってもらって、せめて一太刀、繰り出して見せなければ、いい加減、不興を買ってしまうかもわからない。
 アイネルゲは女伯爵の座る椅子を、稽古場となっている一角にのたのたと出しながら、稽古の気構えを整えようとした。本当は少しでも遅く、始まって欲しかった。──朝食の時間は決まっているから、切り上げる時間が遅れることは無い。
 椅子は元々、立って見ていた女伯爵に、女王が手ずから用意したのだった。薔薇色の頬をした女伯爵は、それくらいならば自分はやると言い張って、これまでそうしていたのだ。
(でも、具合がおよろしくないのなら……)
 自分がやるのが当然だと思う。どうして今まで命じられなかったのかが不思議だ。
 どうして女王ともあろう者が手ずからそんなことまでしたのかわからなかったが。
 ここ数日伯爵は遅れ気味だったが、女王はそろそろ稽古を始める頃だ。
 考えながら、女王を見上げた時。
(──今だ)
 剣から心が離れていた分、アイネルゲは無心になっていたのかも知れない。心を梢の向こうに向けている女王は、こちらを意識に入れていなかった。
「たあっ!」
 切っ先を、喉元へ突き込んでいく。
(取れた)
 そう、思った。
 それなのに。
 剣が、止まった。思わず力を入れたが、ぴくりとも動かない。
(!?)
 広げた視界が赤く変わったのと、鼻の奥にきな臭さを感じたのと、どちらが先かは分からない。
 ビシッという音と共に衝撃を受けて、身体と鬘が後ろに吹っ飛んだ。顔の真ん中を殴られたのだと分かったのは、既に痛みを感じてから。涙が出たのは、衝撃でなのか、痛みでなのか。
 関節が曲がるよりも遥かに深く手首を捻られ、握っていた剣を毟り取られる。どちらに動く間もなく、迫る風切り音に身を固くした時。
「エーヴェ!」
 鋭く声を駆けて、アイネルゲと刃の間に手を差し伸べたのは、女王のテレアレイグラ二世。
その手の甲が、喉に当たる。
 女王の手に刃を向けて、いつもの華やかさをそのままに、でも初めての無表情を見せるのは、女伯爵のエーヴフェクト。
「あ、あら」
 途端に表情を崩して、血染めの左手など構わぬように、女伯爵は剣を下ろした。左手で握っていた刀身半ばに掠れたように血の跡が付いていたけれど、アイネルゲの喉を突こうとした切っ先は、今も冴えたまま。
「ご承知の上でしたの?」
 女王は息を大きく吸って、吐いた。
「私が、アイネルゲ嬢に、隙を見て一本取って見せろと言ったのだ」
 まあ、と言いながら彼女は練絹のハンカチを出して、まずは刃を拭こうとした。左手が僅かに上がった時、見る見る若草色のドレスが血に染まる。
 女王が彼女の握っていたアイネルゲの剣を取ると、女伯爵はハンカチを左手に巻き付けて、音が出るほど締め付けた。
 ひっ、と見ているアイネルゲの方の息が止まる程痛そうだったが、女伯爵の表情は微塵も変わらない。
「前もっておっしゃって頂かないと。ヴィエットラン伯爵令嬢が、お亡くなりになるところでしたわ」
 掌底が入った鼻から落ちる血を手の平で受けつつ、アイネルゲは震えた。この人には…この人達には、自分の命を奪うことなど、薔薇の花を摘み取るより容易いこと。
 一家の当主と言うだけでは、なくて。権力があるだけでは、なくて。いつでも…いつだって、それができるのだ。
「何のために鍛練するのか、本質を見誤る側に責任はありますけれど、いくら鍛錬のためとは言え、いつでも切り掛かって良いと仰るなどとは、少しくご油断が過ぎるのではないのでしょうか、テレアレイグラ二世陛下」
 優しい口調で糾弾する女伯爵の背は、厳然とした、支配階級のものだった。
「すまない、レプラチェメン伯爵。アイネルゲ嬢」
 いつも毅然と上げた頭を少し俯けて、女王は失態を認めた。そして、顔を押さえていないアイネルゲの左手に、剣を返した。
「剣の手入れを。二人共、手当をして来い」
 アイネルゲは躊躇したが、女伯爵はくるりと背を向けて、室内へ向かった。こちらに背を向けてしまった女王を気にするアイネルゲに女伯爵が手招きをした。
 屋内に戻ると、女伯爵は涙と血でべたべたになっているアイネルゲの頬に手を当てた。
「腫れないとよろしいのだけれど。少しお待ちになってね。水を持って来させますから」
 アイネルゲに鼻を押さえさせると、廊下の外の誰かに言い付けて冷水と布を持って来させる。女伯爵は、侍女を中に入れずにそれを受け取ると、棚から象眼を施した飾り箱を取り出した。でも、中は紛うことなき実用品──巻いた裂き布と、薬瓶が入っている。瓶の一つの蓋を取って水に落とすと、布を浸して軽く絞り、アイネルゲの顔を拭った。
 芳香が拡がったが、女伯爵は言った。
「香りがお嫌いでないとよろしいのだけれど。これは腫れを押さえますから我慢なさって」
 彼女はいつも、素晴らしい香りをまとっている。アイネルゲよりも気になるものが多いのかもしれない。
「血は、止まったかしら」
口の中は、まだ錆の臭いがしたけれど。顎と、口の下も丹念に拭われたから、口の中も切れているのかもしれない。
 アイネルゲは、恐る恐る手を離した。
「大丈夫、です」
「ああ、良かったわ。鼻が折れなくて」
 ほっとしたように言った女伯爵に感じたのは。
 ──憎しみ、かもしれない。
 全てに近いもの、を持っている人に。
 廊下側の扉が鳴った。
 女伯爵は、また戸口で茶器の乗ったカートを受け取った。さっき、水と一緒に命じておいたのだろうか。
「どうぞ、ヴィエットラン伯爵令嬢」
変わった臭いの、
(薬草?)
「こちらは、心に。聖者の草のお茶ですわ。お飲みになって」
 アイネルゲは、言われた通り、口を付けた。
「今回は、わたくしが邪魔をしてしまいましたけれど、いかがでした? 伯爵令嬢。陛下から、一本取れそうでした?」
 取れなくはなかったかもしれない、と思う。
 でも、それは、自分が見る目が無いだけなのかもしれない。腕はともかく、見る目まで無いとは思われたくない。
「おそらく、そう簡単ではないと思います。仰せなので、打ち込んではみましたが…女王陛下は、本当にお強いですから」
 アイネルゲは、見栄を張った。
 この人の前で見栄を張っても浅ましいだけと、どこかで理性の声は聞こえていたけれど。
「それはそうですわ」
 ころころと、鈴を転がすような声で女伯爵は笑った。
「陛下は毎日、練習なさいますもの」
 厳格な意志を遂行する為の鍛え抜かれた身体は、そうやって鍛練を積んで造られたのだ。
 アイネルゲは、愕然とした。自分が何をしてきたと言うのか。自分が練習できる状態にいつもあったわけではないのだけれど。
「陛下はいつも、御自分を鍛える環境に置かれますの。それを他の者が遂行するよう、日課にして。
 でも、止めることだって、いつでも御出来になるのに。たった一言で。それをなさらないからこそ、陛下は陛下なのだと、わたくし、いつも感動しますの」
アイネルゲが薬茶を干したのを見てとると、さてと、と声をかけて、女伯爵は別の茶器に新たに注いだ。
「これを陛下にお持ちいただけるかしら。まだ外で、落ち込んでいらっしゃるでしょうから」
 落ち込む。アイネルゲは目を見開いた。
「あら、そんなお顔をなさらなくても」
笑みを含んだ口元に当てた手の甲に、艶かしい長い指。同じ、伯爵家の生まれなのに。これぞ、貴族の姫だ、とアイネルゲは認めざるを得なかった。──もっとも彼女は今、名家の当主本人だったけれど。
「陛下は、真面目でいらっしゃるから、反省するのにも、真摯でいらしてよ。
 でも、一本取るように、とのお話は、ヴィエットラン伯爵令嬢の方からご辞退いただけないかしら」
 アイネルゲに否やのある筈も無い。
「わたくしは、暫くレプラチェメンの居室におりますから。執務の始まる時間には戻りますけれど、御用がおありならば使いを寄越すようにお伝え下さい。
 あとね、陛下は熱い物が苦手なのは覚えておいて頂きたいの。ご本人は決しておっしゃらないけれど、ね」
 アイネルゲは冷めかけた薬茶の乗った盆を捧げて、外へ向かった。
 女王は、顔を少し上げて、風の音を聞いている。彫像のような横顔に鬢から落ちた房が、靡いている。
 声を掛けようかどうか迷っていると、先に下問があった。
「大事無いか、アイネルゲ嬢」
 思わず身体に緊張が走る。
ございません、と何とか声に出して答え、畏れ多くも茶器を掲げる。伯爵令嬢の仕事ではないと思うが、それだってそつなくこなすのは難しかった。
 む、と女王は茶器を見遣った。
「エーヴェからか」
 薬茶の匂いを感じたらしい。
「こころに、とおっしゃって…」
 そうか、と彼女は一気にそれを干した。
 眉一つ動かなかったが、彼女はこの薬茶が嫌いらしい。
「それで、考えたのだが。アイネルゲ嬢」
 そして、空の茶器を差し戻した。
 アイネルゲは、はっとしてそれを受け取る。
「先日の、いつ何時でも一本取れという話、これまでにして貰えぬだろうか。私が浅慮であった」
(この人は、認めるのだ)
「いくら油断などしないとはいえ、私は一国を預かる身。相手が誰であろうと、命の隙など作るべきではなかった。私を守る事を生業として、それで命を落とす者さえいるというのに」
 自分が、浅はかだったと。これだけの、努力をした上で。身の竦むような畏れを人に与えながら。
「何だ、アイネルゲ嬢。言ってみよ」
「それでも陛下は、毎日練習なさるのですね…」
「それはそうだ。特に剣術は、幾ら心得があると口で言っても、腕を磨かねば、それまでだ。身体を動かすのは大変なことだからな」
「陛下は、大変お強いと思いますが…」
「素人相手なら負けることはなくても、私を襲うような者には、『昔やった』では通用しない。もっとも、選りすぐりの刺客相手では日々の鍛錬など、無意味かも知れぬがな。
 ──それでも私のような怠け者は、一日途切れれば、二度と剣を握ることはなくなるやも知れぬ。
 自分を守ろうとしないならば、守られる資格は無い。私は、それだけは忘れてはならぬのだ」
 私は、誰にも守られてなどいないけれど。
 アイネルゲは、僻むような気持ちを覚えた。
(それでも)
 理由を付けて、それを敬えない自分を許すわけにはいかなかった。
 醜過ぎて、耐えられないから。
「痛い思いをさせてすまなかったな、アイネルゲ嬢」
 アイネルゲを気遣うように頬の辺りを触った手は、暖かかった。
「殺されなくて良かった」
 続いた言葉は、総毛立つようなものだったけれど。
 女王の強い目を、刹那よぎった痛みらしきものに、アイネルゲは面食らう。
「殺された者が…あったのですか……」
 ああ、 と彼女は空を見た。
「ずっと昔だ。エーヴフェクトと初めて会ってから、そうは経っていない頃だったがな」
「お二人は、いつ頃から…?」
 あの親密な空気は、一朝一夕の間に養われたものではないと、アイネルゲにも容易に見当が付いた。
 ふっ、と笑みを含んで女王は答えた。
「字が読めるかどうかの頃だったから…四つ五つだろうな。
 まだ王女だった私は、初めての同年代の友人ができて有頂天で、美しいエーヴフェクトに夢中だった。その彼女は、屋敷で生まれた仔犬に夢中だった。彼女の話を聞いて、その仔犬を是非見てみたくなった私は、大層無理を通して、伯爵邸に出掛けて行ったのだ。
 可愛らしい姫君にはおよそ不似合いな、薄暗い馬小屋の隅で──あれからあの話をしたことはないから聞いていないが、おそらく生まれて二月程の、可愛い盛りの仔犬だった。五匹生まれた内の四匹が母犬と一緒で、それらと遊んだのだ。
 暫くすると、エーヴフェクトは最後の一匹の、彼女の秘蔵の子を連れてきた。
 他の四匹よりも、際立って育ちの悪い不格好な…一腹の中の一番小さな子で、母犬に見捨てられていたのを、エーヴフェクトは自分の手で山羊の乳をやり、尻を拭いて、育てていた。
 掌中の珠のようにして育てた、兄弟とも母とも馴染まぬその子を、彼女は私に見せてくれようとしたのだな」
 解けたアイネルゲの髪を弄ぶ女王の指は、多分、無意識のものだろう。
「その仔犬は、私には馴れなかった。今思うと、無理もない。愛してくれるのは彼女だけという状況の中で、そう簡単に他人に気を許す筈も無かったのだ。
 それをわかっていなかった私は、安易に手を出した。仔犬は私に噛み付こうとし…エーヴフェクトに叩き殺された。
 まだ牙も満足でない仔犬を、ほんの子供のエーヴフェクトは、床に叩き付けた。私を噛もうとしたことで。
 エーヴフェクトは、私に害をなす者を決して許さない。逆に言えば、私はそう簡単に害されるわけにはいかないのだ」
「怖くは、ないのですか」
 指が離れてから、アイネルゲは聞いた。
「それは、怖いさ」
 女王は一瞬、ぞんざいな口調になった。
「お二人は親友だと思っておりましたが…」
「それは間違いない。おそらく彼女なしでは、私は生きてはいけまい。
 だからといって、畏れがないわけではない。
 しかし、無能で、畏れなど持つべくもないエーヴフェクトより、今のエーヴフェクトの方が格段に美しいことは間違いが無い。
 そして私が愛するのは、美しいエーヴフェクトだ」
 アイネルゲには、そう思える程の友がいるかどうかわからない。
「私は、レプラチェメン伯爵エーヴフェクトの忠誠に相応しい、女王テレアレイグラ二世であらねばならぬのだ。
 ──この先、並々ならぬ力量を求められるだろうがな」
「陛下には、その力量がおありだと存じますが…」
 あっはっは、と女王は実に愉快そうに笑った。
「たまには世辞も言うか、アイネルゲ嬢。なかなか良いぞ」
 皮肉かと思ったが、そうではないらしい。
「伯爵の傷はどうであった」
あ、とアイネルゲはやっと思い出した。
「レプラチェメン伯爵家の居室へ行かれました。執務の時間には伺うそうです。御用の際には使いを寄越すようにと…」
「手当ては見せなかったか。かなりの深手だな」
 女王は、自分の手が痛むような顔をした。
 アイネルゲは今更ながらに気が付いた。
 女伯爵は、右手で冷水の桶を受け取り、右手で布を絞り、右手で茶器を受け取り、右手で茶を入れ、さり気なく、左手がアイネルゲの視界に入らぬように立ち。そして、明るく話しながら、丁寧に右手でアイネルゲの手当をした。
 いつも優しい笑顔。──その彼女は唯一瞬の迷いも無く、その手で抜き身の刃を握った。
 今、アイネルゲの前に立つ、この女王のために。アイネルゲの髪を、風が乱す。
「アイネルゲ嬢。剣をどこに置いた」
「まだ、部屋の方に……」
 取りあえず放り出したままで、拭うことすらしていなかった。
「そうか。戻るぞ。朝食が遅れた。
 ──鬘を拾え」
 言い置いた彼女は、さっさと背を向け、アイネルゲを待つことはしなかった。
 
 その夜、日課が終わるには少し間がある頃、アイネルゲは女王に声をかけられた。
「髪油は持っているか」
 アイネルゲは、面食らったが、答えた。
「はい…」
 出掛けに引っ掴んだ、櫛と油。今使えるのは、それだけ。それさえも、かなり心細くなってはいる。勿論、他を持って来て、それを忘れるよりは、ずっと良いけれど。
「アイネルゲ嬢、髪油の器を」
 唐突にそう言うと、女王は就寝の時間前だというのに小部屋の戸を開けて、それを取って来るよう命じた。そして、その後に通されたのは、女王の私人としての居室として使われる、四、五部屋──書斎、居間、化粧室、寝室などの内の、化粧室。威圧するような鏡の前に並んだ化粧道具は思いの外、少ない。さすがに凝った意匠の器ばかりではあったけれど。
 アイネルゲの髪油を確かめた女王は、鏡台の一本を取ると、そこに、注ぎ足した。ほんの少し色味の違う油が、糸のように瓶の底に届き、僅かに深くなる。
 そこで女王は手を止めた。息を潜めて見つめていたアイネルゲは、当たりに芳香が散っているのに気が付いた。
「これ以上減ると、知れる。足りなくなったら言え」
 髪の傷みには良い筈だ、と言う女王に、アイネルゲは問い返した。
「ありがとう存じます…。でも、あの、『知れる』とは一体…?」
「髪結いの侍女だ。零したと言っても良いが、まあ、まず気付かれてしまうだろう」
 ほんの少し指先に着いた油で、女王は乱れた鬢を撫でた。
「アイネルゲ嬢は、ここにはいないことになっているのでな。私が使う以上のものが減ると、当然怪しむ者が出てくる。
 王というのも、存外不自由なものでな」
 その夜、アイネルゲは、星明かりが微かに差し込む小部屋の中で髪を下ろし、栓を抜いた。
 ふわりと広がる香りは、嗅いだ瞬間は簡素ですっきりしているけれど、その実、絶妙な配合で、複雑に絡み合っている。アイネルゲに分かるのは、迷迭香と檜葉に、糸杉、……それくらいのものだ。
 濃い色の髪に効能があるように、選んである。そして、確実にそれと分かる存在感のある香り。アイネルゲは一瞬、目を細める。この匂いは、
(とても、あの方に似ている)
 梳って油を掃いたアイネルゲの髪は、珍しくも揃って、静かに星の光を受ける。
 
 次の夜は、月例の夜会。何かと忙しい伯爵と女王を後目に、アイネルゲはいつもより多くの時間を一人で過ごした。
 夜会に出て…せめて覗いてみたい気持ちは、かなり強かったけれど、王宮で影のように潜んでしているアイネルゲにそのような機会がある訳がない。
 度々部屋を出されたアイネルゲは、焦れるような、ほっとしたような気持ちで、運び込まれた女王のドレスや宝石を眺めた。自分が着けたら分不相応なのは分かり切っていたけれど。
 夜会の幾刻も前から、女王の支度が本格的に始まる。湯浴みし、衣装を選び、それに合わせた下着を選び、宝石を選び、紅を選び、香料を選ぶ。
 アイネルゲは窓掛けの後側に椅子を置いて、息を潜めて座っているように命じられた。
「咳などは出ていないな、アイネルゲ嬢」
 おそらく数日間に渡って、綿密に観察されていたのだろうが、アイネルゲは答えた。
「はい」
「身動きすれば、間者として刺し殺さねばならぬ。心して、自重せよ」
 は、と…アイネルゲは返事した。そして、何を見聞きしなければならぬのか、怖れた。
 実際には、窓掛けのこちら側では、何も見えない。聞こえて来るのは、侍女達の衣擦れ。何かを命じる女王の低い声。優しい水音。金属音は、装身具を填める音か。そして、甘やかな脂粉の匂い。
 聞いているだけで溜息が出そうな支度の様子を、アイネルゲは座り直したいのを堪えながら聞いていた。
 今までの衣擦れの音とは明らかに違う音がした。
(あ)
 アイネルゲは気付いた。
(髪を、解かれた)
 髪を滑る櫛の音。昨日分け与えられた油と同じ、清涼感のある気配。
 しゅっ、しゅっ、と短い音はすぐに止み、息の長い音が続くようになった。
 きっちり結い上げられていたお蔭で縺れが殆ど無いのか、一息に櫛が髪を通る。
 ほんの時折、ピン、と高い弦を弾くような音が混じる。その音をも、アイネルゲは楽しく──殆ど、夢見心地で聞いた。
 新たに漂う香水の匂い。挨拶の後に遠ざかる衣擦れの音。そして、訪れる沈黙。
「アイネルゲ嬢、出て来ても良い」
 固まってしまった膝と足首をぎくしゃくと動かしてアイネルゲは立ち上がると、辺りを窺いながら恐る恐る窓掛けの影から出て、息を飲んだ。
 濃紺のドレスに、白いレース飾り。いつも撫で付けるように纏めてある髪は、耳の下へ長く下ろされた後、再び頭頂に向かって登って行く。
 濃き薄きの調子は、いつもと変わっていないのだけれど。
 鮮やかな変身に、アイネルゲは目を見張る。
「直に、エーヴフェクトが迎えに来る」
「はい」
 衒いなく胸元にあしらった宝飾の煌めきに、アイネルゲは目を奪われる。
「そなたは、彼女に付いて、王宮の夜会を学べ」
 彼女はどのような装いなのだろう。アイネルゲは、期待に胸を弾ませた。
 今は、宴の前の、ほんの一時。
 夜会の前の貴婦人のたしなみとして、瞳に光を与えるため、女王は暫しの間、目を閉じた。
 アイネルゲは、目を閉じはしなかったけれど、いつもとはどこか違う、ざわついた王城の気配に、共に耳をすませた。
 頃合に入室した女伯爵を見て、アイネルゲは驚いた。さぞ華やかだろうとの期待は見事に裏切られ、男の、いささか軍服を模したようにも見える、かっちりとした服。
 髪は下ろして、襟の後ろ当たりで簡単にまとめてあるだけ。
 そして、剣を下げている。誰とも踊るつもりなどないのが見て取れた。
(ダンスは名手だといっていたのに)
 鮮やかなステップを見せてくれるのだろうと…良く良く見ておいて、あわよくばそれを盗み取ろうなどと思っていたアイネルゲは、軽く失望した。
 伯爵が歩を進める度に、チャリチャリと、金属──剣が鋲に打ち付ける音がする。聞こえるかどうかの僅かな音が、却って 耳に付いた。いつも彼女が、いかに音を立てずに歩いていたか、弥が上にも知らされる。
 彼女は、戦いに臨む覚悟で、女王の横に立っている。上着の裾で散る、艶やかな髪のカールが、隠しようもなく華やかな影を添えていたけれど。
 回廊に出ると、二人の意識に、もうアイネルゲはいない。が、分かった。女王に付き従う列は、角を曲がる毎に、長く長く、伸びて行く。
 そして、広間に入った瞬間、女王の気配が強まった。圧倒するような存在感。気安く傍に寄ることなど、及びもつかない。美しく装った華やかな貴婦人方が、ちゃらちゃらと安っぽく、上っ面の造花のように見えた。
 一斉に頭を垂れた人々と共に、アイネルゲも倣う。
 ざわめきを圧する沈黙の力。その中を、高みの席に登る女王の靴音だけが響いた。アイネルゲは貴族が次々に、賑々しく口上を述べるのかと思っていたが、皆、慎ましく整然と並ぶ。最初に挨拶したのは、年配の優しげな婦人。
「陛下の母君…王太后さまですわ」
 階下に立った女伯爵が、不意に低い声で呟いた。アイネルゲだけに聞こえるように。これが、聞いておかねばならないことなのか。
 女王の母が純金に近い髪をしているのに驚きながらも、アイネルゲは気を引き締めた。
「陛下の伯母君、デタイルド公爵夫人です」
 さらにその次に挨拶に立ったのは、アイネルゲもときめくような美青年。
「デタイルド公夫人の御子息、テーレン様」
 彼は女王に、愛くるしいといっても良いような笑顔を見せる。ほんの少し、女王の目が和んだのが、アイネルゲにも分かった。
 そして、その他の叔父叔母、従子達、と続いて、アイネルゲは気付いた。
 皆、それぞれに風合いは違えど、一様に、金の髪。煌めくような、燻したような、蜜のような、錦糸のような。願ったとて、そうなれるものでは無い輝きの中で唯一人、女王の、鏡のように光を弾く黒髪は、全く異質のもの。
 アイネルゲの思いを読み取ったように、女伯爵が言い添えた。
「王族は皆様、金色の髪をお持ちですの」
 改めて見回すと、宮廷の中では、とりどりの頭髪だけれど、王の血族は、まるで定められたように金髪で。
 その中で、王が自分の隣の女伯爵を友に選んだのは、何らかの親近、──一体感?
 ぼんやりと自分の物思いに浸っていたアイネルゲは、こちらを見ている伯爵と目が合って、どきりとした。
「一通り、皆様のお顔は覚えられまして?」
 笑顔の向こうの考えは、いつも通り、読めないけれど。集中してはいなかったのが、知れたような気がして、アイネルゲは歯切れ悪く答えた。
「いいえ…なかなか…」
「それは一度では無理でしょう」
 言いながら、彼女は王に目を戻す。
 アイネルゲは、なぜ今伯爵といて、落ち着かない気分になるのか理解した。
(レプラチェメン伯爵は、少しも身を飾りたいと思っていらっしゃらない)
 アイネルゲは、似合わぬ鬘を外して、華やかな装いでこの場に立ちたいと願っているのに。この人は今、
(戦いに臨んでいる……)
 自分の普段着を男仕立てにしていることなど、完全に遊びの域なのだと思い知らされる。
 
 広間を辞した時、アイネルゲの気はすっかり滅入っていた。疲労困憊して、一刻も早く、横になりたかった。神経が立って、眠れないなどしないと見当は付いていたけれど。
 先に女伯爵と共に女王の私室に向かい、彼女が退出して来るのを待った。
 暫くして化粧室に戻って来た女王は二人の姿が目に入らないかのように腰掛ける。寝仕度もさせずに侍女達を下げると、彼女はいかにも疲れたように息を吐く。アイネルゲは、大層驚いた。
「エーヴェ、アイネルゲ嬢に寝仕度の手順を」
 女王が実際に声を発した時、いつもとの違いは全く聞き取れなかったけれど。
 はい、と返事した女伯爵は、すぐにはそれには取りかからなかった。
「陛下、お顔の色が優れません。一息吐かれてはいかがですか」
 それを聞いて初めてアイネルゲは女王の顔色の悪さに気が付いた。ドレスの色が映っているだけではない。女王らしくもなく、溜息を押さえ切れなかった当たり、かなり辛いのだろうか。
 歩み寄った女伯爵は、手の平で女王の額、頬、首筋を確かめ、最後に女王の瞳を検分する。
「やはり熱もおありですわ。決して低くありません。
 よくぞ真っ直ぐに立っていらっしゃいますこと。全く感心は致しませんけれど、本当にご立派ですわ、レイグラ」
 初めて聞く、秘めた怒りが滲み出るような女伯爵の声。
 迷うように間が空いた。
「いや、それほど時間は無い」
 声は、やはりいつもと同じく断ずるように。
(でも、少し、力が無い……?)
 強いて言えば、という程度だけれど。
 沈黙が抗議のように広がったけれど、結局伯爵は女王に従った。
「ヴィエットラン伯爵令嬢、こちらですわ」
 女王が立ち上がって席を外した後の椅子へ座らされたので、アイネルゲは尚更驚いた。そして、鬘を外すように命じられる。
「こちらは、わたくしがお預かりします」
 あ、と思う間も無く取り上げられ、鏡台の上の瓶を示された。
「右側にあるのが髪油、左側にあるのが香水だと、大体のところを覚えてらして」
 覚えておけ、とはっきりと命じられたのは初めてだ。
 アイネルゲは、必要な時に思い出せるよう、ひたすら右が髪油、左が香水、と唱える。
「紅は、ここにも置いてはありますけれど、行事の時は、化粧係が持って来ますので、その中から選びます」
 紅の器はそれと見て取れるので、アイネルゲは安心して、はい、と頷く。
「髪は、殆ど御自分でなさいますが、こちらも公の際には髪結いの侍女に任せます。係は九人。普段の日は休みの関係で、五人に減ることもあります。それぞれに、編み込みや結い上げなど、得意がありますので、その日の髪型によって、上手の者を。襟の形や宝石などと兼ね合いがありますので、時に応じて、衣装係と宝石係との連係を図ります。
 細かいことはおいおい。一度に言っても、覚えられるものではありませんので、今は申しません」
 アイネルゲは、すでに目を回しそうだった。自分の生活とは、
(桁が、違う)
「褒められたことではないのですけれど、陛下は御自分で髪を結われることが殆どなので、その際は、こちらの櫛とピンで──」
「アイネルゲ嬢、これをやろう」
 後ろから手が伸びて、アイネルゲは驚いて振り返る。既に乗馬服に着替えた女王が後ろに立って引き出しの一つを開けると、緻密な彫刻を施した箱を取り出す。
 その中にはかんざしが幾本か入っていたようだが、彼女は迷いなくその内の一本を取り上げた。銀の刃のようにぎらりと光る銀の胴に、青い玉が付いている。
 深い藍色は硝子なのか、内に白い小花を散らしてある。花の中心はほんの少し、気が明るくなるような黄色。
 見たことも無い、凝った細工に、アイネルゲは思わず両手で捧げて、くるくると回した。
 清涼感があって、愛らしいかんざし。一時は随分と使い込んだのだろう。
「あら、妬けますわ」
 笑いを含んだ女伯爵の声に我に返るまで、アイネルゲはそれに見入っていた。
「エーヴェは髪飾りよりも宝石の方が好きだと思っていたが。こちらのリボンを使ってみるか」
 別の所から取り出されたそれは、何故か血を思わせる臙脂色。
 紗なのはすぐに分かるが、凝った織りを更に強調する刺繍に、要所要所に細かく石が鏤められている。
「髪飾りではなくて、陛下のお心遣いが羨ましいだけですわ」 
 そうか、とだけ女王は返事して、それを女伯爵の結い糸の上から結んだ。さすがに似合う見立てだ。うんと艶が増したが、アイネルゲはすぐに自分の手の中の、玉に目を落とした。
「ピン一本で髪を結えるのも、そう長い間ではない」
 アイネルゲは、女王を見た。既にいつものきっちりと巻き付けた髪型に戻っていたけれど、ほどくと、肘まであるアイネルゲより長いのかもしれない。
「結い方を知らなければ、明日にでもエーヴフェクトに習え」
 アイネルゲは驚いた。これまで毎日、茶色い頭の鬘をかぶりっぱなしで、髪型の事など一言もなかったのに。
「アイネルゲ嬢、こちらへ」
 貰ったかんざしを持って行って良いのかどうか判断がつかぬまま、アイネルゲはそれを持って女王の後に続いた。そのアイネルゲの更に後ろを、女伯爵が来る。
 そこから書斎へ入り、女王の仕事の手順を説明され、アイネルゲは面食らった。
 今全てを覚える必要はない、ただ聞いておくだけで良い、とは言われたものの、今覚えておかねば足を引っ張ることになるのは自分だと思った途端、アイネルゲは胸が苦しくなるのを感じた。
「アイネルゲ嬢、今は念のために説明しているだけだ。余程の変事が起こらぬ限り、必要の無いことだ」
(では、何かが起きたら……?)
 覚えなければ、大変なことになるのか。アイネルゲは膝と、かんざしを持つ手の震えを抑えることができなかった。
「アイネルゲ嬢」
 アイネルゲの顔に掛かった髪を、女王の手が払う。
 いつものように見下ろす女王の黒い瞳。何を見通しているというのか、いつも自信に満ち溢れて。
「変事が起きた時、今のそなたに何かできると期待などされていない」
 期待など、されていない。
 気が楽になって、良い筈なのに。
 アイネルゲは、胸が苦しくなった。自分にできることなど無いと、初めから判り切っていた筈なのに。
 何かしなければならないと、いつも思っていたのに。
「焦りは、自らに対する過分な期待と知れ」
 追い打ちをかけるように、声が鞭打つ。
 そこまで言わなければならないほど、自分はひどかったのか?
 ここに来て一日一日、精一杯あがいていたつもりだったけれど。
「陛下!」
 声が割り込んだ。
 アイネルゲの前にいる女王が、椅子の背を握りしめて、下腹を押さえる。
「……っ」
 良くはなかった顔色が、今では相当に悪いと断言できる。こめかみに汗が滲む。
「大きな声を出すな、エーヴェ」
「ひとまずお掛けになって」
 驚く程強い口調で、押さえつけるように座らせると、女伯爵は、炉の傍によって薪をくべた。
 そして女王を、近過ぎるくらい、暖炉の傍に座らせる。
「陛下。やはりお出かけになるのに賛成できませんわ」
「病気だという訳ではない」
「そこまでいけば、立派なご病気です。せめてもう一日、お待ちになれませんか」
「エーヴェ。前々から言っているだろう。今夜の夜会が終われば発つと。
 …もう、時間がない。こうしている間にも時は過ぎていく」
 女王はまた、何処へか、出かけて行くのが判った。
 そして、それは、
(多分、お忍び)
 アイネルゲの秘密の泉に、突然表れた時のように。
 女王は座って目を閉じて、奥歯を噛み締めている。顎まで伝ったのは、多分脂汗。
「…陛……」
 アイネルゲが思わず話しかけようとしたその時、女王は静かに眼差しを上げ、全ての痛みを拭い去ったかのように立ち上がった。そしていつもの視線でアイネルゲを射抜く。
「アイネルゲ嬢、留守を頼む」
「……?」
「大丈夫だ。必要なことは全て教えた」
「エーヴェ、後は任せる」
「はい」
 女伯爵は不承不承頷いた。が、アイネルゲはそれどころではない。
「あの、では私は…」
「そなたはここで、私として最後の一週間を過ごす」
「でも、あの」
 泳いだ目で、アイネルゲは女伯爵の方を見る。
「明日より一週間、私はこのところひどくなっている血の道の病で、床に伏すことになる。
 私の代わりに、寝ていれば良い」
「む、無理…です……」
 自分でも聞き取れない程の声だったが、女王の耳はそれを拾ったらしい。
「無理ではない。ここで三週間そなたを使って、私がそう判断した。
 そなたは、私の代わりに八日間、ここで寝ていることができると。
 ここに来るかはそなたに選ぶ機会を与えたが、今はそなたの意志は問わぬ」
 そんな、とアイネルゲは涙がこぼれそうになる。
 女王は、意識したのだろう、少しく優しい声で言った。
「不安になるのも無理はない。しかし、どうしてもエーヴフェクトに代わりをさせる訳にはいかないのだ。
 万が一にでも彼女が変調をきたしたら、手当をしてやれなくなる」
 女伯爵は、微苦笑する。
「大丈夫だと申しますのに」
「駄目だ」
 これだけは撥ね付けるように言って、女王はアイネルゲを見た。
「では、寝間着に着替えて、私の寝台で眠れ。
 期間中は、エーヴフェクト以外、誰も近付かぬよう、この二年、皆を躾けてきた」
 二年。二年もかけて仕組んだことを、自分が知らされたのは、たった今。
「どうした、アイネルゲ嬢。質問か」
「…なぜ、私なのですか」
 反抗するような声が出て、自分で驚いた。
「今までは、レプラチェメン伯爵が、陛下の代理を勤めてこられたのではありませんか。
 なぜ、今さら私にお命じになるのですか」
「まだ内密だが、レプラチェメン伯爵は懐妊している」
 自分にはあまりに遠い話。頬と、唇が、勝手に震えるのがわかる。
 女王はマントを掛け、襟元を結ぶ。
「何かあれば、エーヴフェクトが処理する。心配せずとも良い。
 失敗したところで、責任を負うのは私だ。
 そなたの将来に傷をつけたりはさせぬ。
 エーヴフェクトがそなたを守り、指示を出す。それに従え」
 女王は、手袋を着けながら命じる。
「今、発つ。二人共、後を頼む」
 律動的な足音と共に、マントの裾が靡いたが、それがいつ視界から消えたのか、アイネルゲは覚えていない。
 
 それからアイネルゲは促されるままに寝間着に着替えた。寝仕度が整った頃、ばらばらと窓を叩く音に気が付く。
(雨……)
 女伯爵は既に知っていたらしく、窓の外に目をやっている。
「次に降る時は、雪なのでしょうね。少しは濡れるのを避けて下さるとよろしいのだけれど」
 物憂げに溜息を付く美貌は、何ともさまになっているけれど。
(陛下は、雨などものともせずに、真直ぐに駆け抜けて行かれるのだろう)
 聞かずとも、容易に想像が付く。
 雨も、自らの痛みも、まるで初めから無かったかのように。
 強い身体と、心を持つというのは、それができるということだ。
 雨がまた少し、強くなった。
 
 次の朝、アイネルゲは跳ね起きた。
(寝過ごした!)
 辺りを見て、自分の部屋では無いことを思い出す。そして、昨日までの小部屋にいるのではないことも。
 屋敷の自室より、遥かに豪奢な、ここは、王宮の──女王の寝室。
「お目覚めでいらっしゃいますか、陛下。ご無理なさらないで」
 陛下と呼ぶ女伯爵にアイネルゲは困惑する。
「伯爵……」
「いつも通り、エーヴェとお呼びになって」
 今日の彼女はドレス姿に戻って、優しくアイネルゲに微笑みかける。
 然らば、彼女はあくまで自分を女王として扱う気か。
「お加減はいかがですか、陛下」
 アイネルゲは寝台にひっくり返った。
「悪い」
「お休みになっていてくださいませ。朝食は召し上がりますか?」
 アイネルゲは目を閉じたまま、頷いた。
「暫くしたら、お持ちいたしましょう」
 女伯爵は辞したが、いざ寝られることになると、中々寝付けない。今まで灯りのない部屋で寝てきたせいか、気が立っているのか。それとも、単に身体が朝起きるように習慣づいたのか。
 それでも、あれこれと考えている内に頭が重くなり、目を閉じて耐えていたつもりの間に、いつしか微睡んでいたらしい。
 夕暮れの光を目蓋に感じたような気がして、アイネルゲはゆるゆると目を開いた。
 空腹を感じた。厚い雲が垂れ込めてはいるが、日暮れは当分先のようだ。多分まだ、昼時くらいなのだろう。朝食を用意すると言っていた女伯爵は、まだやって来ない。
(もう少し、眠ろう)
 目を閉じて、毛布に潜っていたが、何か明る過ぎる気がして、目も冴えてしまう。本格的に腹も空いてきた。
(でも、寝ていないと)
 暫く待ったが、誰も来る様子がない。このまま女伯爵がやって来なければ、
(干上がってしまう)
 悶々と考えていた時、訪う声がした。
「入れ」
 なるべく女王に似せたつもりだが、それを聞いた者は、多分笑い出すだろう。
「大変お待たせ致しましたわ。少し毒味に手間取りまして、失礼致しました」
(毒味…!)
 そうだ。ここは、陰謀渦巻く王城で。王侯の口にするものを料理番が味見するだけではなくて。
「食欲が無くなりまして?」
 アイネルゲの考えを読んだかのように、女伯爵が首を傾げる。
「いいえ」
 アイネルゲは、スプーンを握った。
(どうせ、役に立たない命だもの)
 毒を喰らって命を落としたら落としたで、国王の身を守った、と言える筈。
 その夜から、アイネルゲは熱を出した。
 やはり毒を盛られたかも知れないとうつらうつらしていると、様子を見に来た女伯爵が言った。
「お疲れが出たのかも知れませんわね」
 額に置いた布を取り替えるのも、彼女だけ。
「お弱いのですから、よほど御注意なさらないと」
(どうして、それを)
 確かに自分は、身体が強いわけではないけれど。
「陛下、お薬湯を」
(…陛下……)
 そうだ、彼女はアイネルゲを女王として扱ってきた。あたかもアイネルゲがその人であるかのように。してみると、これは女王への語りかけなのだ。
 アイネルゲは、濁った意識の中で、促されるままに薬湯を含んだ。
「弱い……」
「ええ、いくら頑健に見えるように鍛えていらしても、エーヴェはちゃんと存じておりますわ」
 見通すように言われると、思わず自分が女王なのかと思ってしまう。
(違う)
 アイネルゲは自分に言い聞かせた。丈夫でないのは自分のことではない。鍛え上げているのも、自分のことではない。
 脂汗を滲ませるような痛みの中、単騎、叩き付けるような晩秋の雨の中、駆け抜けて行った、あの方だ。
 それから三日、アイネルゲは病床にあった。やってくるのは、やはり女伯爵だけ。このままここで朽ちてしまうのではないかと恐怖を覚えたが、徐々に熱が下がったところをみると、言われた通り、ただの風邪だったのだろう。
 四日目、アイネルゲは楽に喉を通る物だけではなく、しっかりした物も食べたくなった。
「飲むものと、何か…もう少し…」
 女伯爵は実に嬉しげに、にっこりと笑った。
「かしこまりました、陛下。何かお望みはございまして?」
「いつものものを」
 少しずつ、少しずつ。こうして、女王の好みを覚えて行く。
 覚えていくと、自分の好む物とは少しずつ、時には大分違うことが分かって、自分の存在を思い出せる。
 運ばれて来た飲み物は、苦くて、濃くて。焼き菓子は、歯を立てなければならないほど、固いもので。自分が心のどこかで望んでいた林檎の香りがするお茶と、果物が乗ったタルトとは全然違っていたけれど。
 添えられたゼリーのひやりとした感触と、それを選んだ女伯爵の心遣いは、確実に、アイネルゲの喉と心を潤してくれた。
 少しだけ開かれた窓の隙間から入って来る風が、開かれたカーテンを揺らす。
 風は相当に冷たかったが、久しぶりの外気に、蒸れた室内が清められていく。清浄な風に当たって、アイネルゲは揺れない髪の重さが気になった。随分、油っぽい。そう言えば、久しく櫛も通していない。
 髪に指を通していると、女伯爵が窓を閉めに来た。
「御気分がおよろしければ、お湯を御用意致しますけれど」
 待っていたようにアイネルゲは頷いた。
 それを聞くと、女伯爵はすでに隣室に用意してあったらしい盥と、布を持ち込んだ。
「病み上がりですから、湯拭きで我慢なさってくださいましね」
 身体を拭くのを手伝って貰い、丹念に地肌まで拭ってもらうと、大分すっきりした。
 ふう、と思わず息を吐いて顔を上げると、女伯爵と目が合った。
「伯……エーヴェ、ありがとう」
 礼を言うと、女伯爵はそれこそ、白い花が開くようにふわりと微笑んだ。
 アイネルゲは一人になると、暫く寝台の上で髪を梳った。これ以上できないくらい優しく梳かし、丹念に丹念に、ほんの少しずつ油を梳き込む。枝別れした髪先を一本ずつ取り除き、かつて無い程に髪が整うと、長い長い時間をかけて、それを鑑賞した。
 が、暫くすると、それだけでは満足できなくなった。ずっと続く曇り空で、今日は映り行く光も変わらない。それすらも、少しずつ暗くなりつつあり、髪の輝きも、それに伴って薄れていく。
 退屈に苛々し始める丁度良い頃合で、女伯爵が機嫌伺いに表れた。
「何かお持ちいたしましょうか」
「本が、読みたい」
「軽いものがよろしいかしら」
 アイネルゲは、少し考えて、言った。
「いつも読むようなものを、一通り」
 女伯爵が三度に分けて運んで来た書物は、軽く四十冊を越えていた。
(これらが、いつも読むもの…)
「最近書庫から書斎へお移しになったものをお持ちしましたわ。他にお読みになりたいものがあれば、取りにやりますけれど」
 いらない、と断って一通り頁を捲ってみたアイネルゲは、目を剥いた。政の本が多いのだろうとは見当が付いていたけれど、音楽、狩り、文学、古典。果ては料理の本から、科学の本、刺繍、香料、手妻の本まで見つけた時は、どうして良いか判らなくなった。
 執政を取る女王が読む科学の本はどの程度なのか、目を通してみて愕然とした。専門書ではないか。
 アイネルゲは、目を閉じて、わななきを耐えた。自分が諦めた分野をも、あの人は、片手間にやってみせるのだ。
 意外にも多い、詩文の本を見ても、同じこと。自分が学んだこの分野一つ取ってみても、訳や解説書などとは違う、原文を読んでいる。アイネルゲは打ちのめされた気持ちになった。
(どうしてこう、何でもお出来になるの?)
 涙が出て来る。自分を憐れんで、言い訳したって。それでも何一つ、変わるわけではないのに。
(見なければ良かった)
 本を読めなどと命じられてもいないのに。
 つい余計な真似をして、いつも自分を追い詰めてしまう。
(私はこの一週間、ここで寝ていろと命じられただけ)
 その期間ももう、半分を過ぎた。家族の元へ帰る日も近付いている。
 邪魔にならぬよう、出過ぎた真似をせずに、その日を迎えれば、それで良いのだ。
 アイネルゲは毛布の下で、身体を丸めた。
 
「気が塞いでいらっしゃるようですわね。双六のお相手でも致しましょうか」
 寝床の中で丸まったままではあんまりかと思って、何とか諾と返事をする。寝台の上に座って双六の相手をしたが、もちろん勝負に興など乗る筈もなくて。集中できずにただ駒を動かした。
 勝てるなんて思っていないけれど、負けるのは嫌だという気持ちがあるのが自覚できるのが、薄汚くて嫌だった。
 勝負が付いた時、一手違いで、勝ったのはアイネルゲ。きっと、巧みに勝ちを譲ってもらったのだろう。自分の卑しい気持ちが知られてしまっているようで、アイネルゲは更に鬱々とした。
「明日は髪をお結いしましょう」
 上手に切り上げて、女伯爵は一旦盤を片付ける。両手でそれを捧げ持つのを見て、アイネルゲは不覚にも、初めて女伯爵が左腕に深手を負っていたのを思い出した。身のこなしと衣装の色に合わせた布選びとで、巧みに目に付かないようにされては来たけれど。
 その後で運ばれて来た夕食を、腹が空いているのかも分からないのに貪り食うのを止められない。
 腹を一杯一杯に満たした後、アイネルゲは余計みじめになった。
 
 次の朝、アイネルゲは女伯爵に起こされた。本音を言えば、いつまでも眠っていたかったけれど。無理矢理に身を起こし、身仕舞を任せる。最初は髪を人に触らせるのに躊躇したが、女伯爵が髪を梳るのが思いの外心地良くて、アイネルゲは癒された。
 万事に手早く、要領が良い。
 アイネルゲはちら、と今も光沢を放つ女伯爵の背中に下りた髪に目をやった。彼女は自分の身支度にも抜かりが無い。反対の立場だったら、絶対にこうはいかない。
 それでも、良い香りの油を梳き込まれてアイネルゲは一瞬気分が良くなった。
「鏡台の方にお越しになりますか? お結いする用意が整っておりますけれど」
 アイネルゲは頷いて、ゆっくりと寝台を下りた。五日間、ろくに立ち上がっていなかったので、少し目眩がする。
 かなり大きな毛たぼが、櫛やピンと一緒に並んでいる。肩から化粧ガウンを掛けられたアイネルゲは、鏡の前に座った。
 丁寧に梳かされた髪には、過不足なく油が掃かれていて、アイネルゲが自分でやるよりも、遥かに整っていたけれど、
 きちんと額の中心で分けられた髪の下にある……顔!
 どろんとした目と、たるんだ顎と、茫洋とした、しまりの無い顔。髪が艶やかに流れている分だけ、表情の醜悪さに嫌悪感を催す。
「今は、いつもの形にお結いしておきますわね」
 見たくもないのに、鏡の正面にある自分の顔から、目が離れない。前髪をまとめる女伯爵の手が顔と鏡の間に入って安心したのも束の間で、断る間もなく、化粧まで施された。
 つけているのかいないのか判らないほどの、ほんの少しの粉白粉。紅は差さずに眉を引いて、それだけでは終わらずに、気持ち目張りを入れて、貧弱な眼差しに強さを出して。
 表れたのは、女王の雛形。形だけはテレアレイグラ二世を追って、でも、中身は空っぽの。
「いかがです? 陛下。本日はドレスをお召しになってみますか?」
 どうせ、自分が役に立つのはそんなことくらい。アイネルゲは、頷くのも面倒臭かったが、相手の言うがままに任せた。
 着付けられたのは、やはり女王の着ていた基本の色と同じ。黒に近い地色と、袖や襟から出すレースは、淡い白に近い色で、アイネルゲの気持ちを明るくしてくれるような、華やかな色ではない。
「御気分に合いませんか? 別のお召し物を用意いたしましょうか」
 今さら着替えるのは、もっと疲れる。
「今日は、これで良い…」
 自分の気持ちのためにドレスを着せられたわけではない。必要なのは女王の、影。
 それでも、久しぶりに寝台を出てドレスを着せられたアイネルゲは、今日も曇天を見せる窓へ歩み寄ろうとして、呼び止められた。
「お待ちを、陛下」
 室内履きではない、靴を用意される。まるで長靴のように頑丈なそれは、踵もだったが、靴底全体が厚い。どこかで見たことがある気がして、アイネルゲは考え込んだ。
(伯爵が、最初に履いていた靴だ)
 目の前にあるこれは、新品の黒革だけれど、そっくり同じ型。履かされて、立ち上がってみると、不安になるほど視点が高い。そうか、とわかった。
(陛下の身の丈に合わせてある)
 背が高めのアイネルゲや、それより高い女伯爵どころか、並の男などよりずっと上背のある女王に合わせた靴の高さ。王城に来てすぐに、足型を取られたのは、このためだったのかと得心した。
 アイネルゲは窓際に歩み寄る。女王が発って以来、雨と曇天続きの空模様は、今日も晴れる様子を見せていない。と、窓の外、遥か向こうの方で、人影を見た。
 後ろに女伯爵を従えて、遠目には確かに女王がいるように見えるだろう。
 エーヴェ、と女王を真似て、後ろの女伯爵に問いかける。
「雨が降り始めて、何日になる?」
「五日目ですわ、陛下」
「もう二日は降ろうか」
 そうですね、と女伯爵は考えた。
「三日ほどではないでしょうか。この雲の様子では」
 謎掛けに難無く答えた女伯爵に、アイネルゲはふと疑問を持った。
「エーヴェは、私をいつも陛下と呼ぶ。こうして二人でいる時さえも。それはなぜだ」
 女伯爵は、悪戯っぽい笑顔を見せた。
「口説きたくなったら、困りますもの」
 やはり彼女は自分を女王と混同などしていない。はぐらかして、教えては貰えなかった。
 
 さらに三日が経った。今日は女王が帰って来る筈だと、アイネルゲはどこか身構えながら、一日を過ごした。女伯爵の態度も変わらない。しかし、そのまま就寝時間になった。
 今まで一緒に過ごして、知らされなかったことは、多々あったけれど、彼女が言ったことを守らなかったことは、ただの一度もない。
(何かに遇われたのかもしれない)
 変事の知らせなども、全く無い。
 そして、次の日も、女王は戻らなかった。アイネルゲは、一瞬一瞬を、息の詰まるような思いで過ごした。
 女伯爵も、何も言わなかったが、何も考えていない筈はない。決して、気振りにもアイネルゲに悟らせるような真似はしなかったけれど。
 アイネルゲは、どくりどくりと、重く血を押し出す心臓の音に悩んだ。
(もし、このまま戻って来られなかったら…)
 自分は、どうなるのだろう。
 このまま、テレアレイグラ二世として、生涯を過ごすのだろうか。
 でも、遠目ならばともかく、公式の場にでも出ようものなら、瞬時に替え玉だと知れてしまう。そうなったら、国は……?
(口封じ)
 途端に血なまぐさい言葉が浮かび、アイネルゲは悲鳴を堪える。死ぬ覚悟など、出来て…いつでも、いっそ自分など消えてしまう方が良いと思っていたのに。レプラチェメン伯爵の、血に濡れた手を、その匂いを思い出してしまう。彼女なら、やるだろう。一瞬の躊躇もなく。そして、自分は、決して敵わない。
 そうだ。彼女なら、殺してくれるだろう。アイネルゲをあまり、苦しめないで。
 アイネルゲは、肩で息をした。
 ならば、恐れることなどないのだ。終末が、一瞬で訪れるのなら、いっそ願ったり適ったりではないか。
(では、私は何を怖れているの?)
 ここで籠の鳥になっていても、心配する誰かがいるわけでもなく。家族は、自分が王家に仕官を果たしたとでも信じて、ほっとしているだろう。穀潰しと毎日顔を合わせて、溜息を吐くこともなく。
 自分には物事を裁量できない、なんて、上辺では言っていても、どこかで、絶対にそんなことは無いと、過信もしていた。
(ごめんなさい、おばあさま)
 唯一、アイネルゲのことを気にかけてくれる祖母に、詫びの言葉を呟いた。
 女が権力を握る時代に、馴染めない人ではあったけれど。アイネルゲ自身が当主になるよりも、婿を迎えて夫人になった方が良い、という祖母の考えは今思えば正しかったのかもしれない。
(では、陛下が戻っていらしたら?)
 彼女は、約束を…言ったことを、違えない。
 自分は、一月の勤めの後、家に返される。
(私は、あの方がお戻りになるのを怖れている…?)
 
 次の朝、夜もまだ明けやらぬ頃、アイネルゲはそっと寝室を抜け出した。女伯爵は、レプラチェメン伯爵家に当てられた居室に戻っているのだろう、次の間への扉を開けると、誰もいなかった。
 書斎へ入ると、たった今までそこで執務が行われていたように、ただ人間が消えただけに見えるように、物が置いてある。
 そして、多分、廊下だろうと思える方の扉を開いた。
 閉じ込められているように感じていたけれど、実際は鍵など掛かっていなくて、見張り一人立っている訳でもない。
 回廊──これもまた、父の城とは桁の違う広さ。改めて、自分が通って来たのが秘密の通路だったのだと確信する。
 この広大な王城では、一人くらい増えたところで、まったく気付かれはしない。一応は貴族の子女の自分でさえも。
 アイネルゲは初めて城を見た時に、丘の上から見えた城塔を目指した。
 見張りの塔よりいささか高いが、位置は崖に近過ぎるので、実際の見張りは森の中の物見台で行っていると聞いていた。
 女王はしばしば、そこで一人、物思いに耽ると知っている。
 城の美観のためだけに建てられた塔。
 その感覚が既に、アイネルゲのそれを凌駕している。そこへ向かって、アイネルゲは女王の白い寝間着に、同じ色のガウンだけの格好で、夜更けの城内をひたひたと歩いた。
 晩秋と言うよりは初冬と言った方が相応しい城の中。冷えが室内履きを突き抜けて、アイネルゲの足を凍えさせる。アイネルゲはガウンの前をかき寄せた。
(本当に、誰もいない…)
 王城に──国中の上流貴族が集まる筈の所に──人一人、見当たらない。
 誰に見咎められることもなく、アイネルゲは塔を登り始めた。
 外と大して変わらないだろう寒さ。窓は無く、壁の上の方に、小さな明かり取りの穴が並ぶだけ。アイネルゲはかじかんだ足を、何度も石段に引っ掛けながら、上へと登る。爪先の痛みも感じないほど冷えきっていた。ガウンの前を合わせる手に掛かる髪も、滑らかな氷のように冷めたくなっている。
 何周したかなど、覚えていない。息が苦しい。肺に差し込む空気が、針のように突き刺さる。
 階段の終わりに現れた扉を、アイネルゲは両手で押した。
 吹き付ける風が、容赦なく、アイネルゲの髪と裾を巻き上げる。高度のせいか、中とはまるで違う、厳しい突風。
(陛下は、こんな中で、考え事を…?)
 アイネルゲは扉を背に閉め、風と向き合った。
 目を開けるのもやっとの中、アイネルゲは地平線の向こうの光を見た。黎明。
 この焦がれさせるような光。偉大な王の統べる大地の上で、自分は何と小さな存在なのか。
 アイネルゲは、胸壁によじ登った。光は、じっと見ていると、分からないくらいにゆっくりとしか、変わらないのだけれど。
(今日は、晴れる)
 陽は確実に登って、今日こそあまねく大地を照らす。
 こうしてただ一人で誰よりも高い所に立ち、まだ眠っている世界を見据えていると、まるで、自分が何かを動かす力を持っているかのような錯覚に捕われそうになるけれど。
(でも、私は)
 何もできない存在。たかだか、親に飼われているだけの。人の影法師にすら満足になることができない。
 一瞬、風が治まった。
 それでいて、何もしないのは、できないからだと言われて、それに縋って、安心しているだけの。自分からは動かず、動かされるのも嫌がるだけの。
(私は、何も、していない)
 アイネルゲの頬を涙が伝う。
 でも、それだって。風が、自分をここから吹き落としてくれたら、一瞬で終わる。
(いいえ、違う)
 自分が──自分から、一歩踏み出しさえすれば良いのだ。
 不意に止んでいた筈の風が、アイネルゲを足下から掬い上げた。髪が後ろに引かれ、アイネルゲは思わず前に向かってたたらを踏み、
(…あ……っ!)
 踏み締める床がないのに気が付いた。
「アイネルゲ!」
 ぐん、と後ろに引っ張られたのは、髪の毛。足場を捕らえた、と思ったら、もう一度引かれ、アイネルゲは均衡を失い、後ろ向きに胸壁から落ちた。
「何をしている! こんなところで!!」
 怒鳴りつけられた時にいたのは、女王の胸の中。下に叩き付けられるのから庇われて。
 見上げる瞳が映しているのは、荒れ狂う怒りを、それでも抑え付ける自制心。
「落ちるではないか!!」
 激しく息をしながら、確かめるようにアイネルゲの身体を抱き締めてから解放しようとしたその手にアイネルゲの髪が巻き付けられていた。まず、髪を手繰られ、それから肩を力任せに引き寄せられたのだと理解した。
「どうして…こちらに…?」
「まったく…! 城頭に白鳥が留まるとは珍しいと見上げれば、この髪がなびいて、人間だとわかった。身投げでもするのかと思うと、空ばかり見て、その様子もない。そのくせ、妙に危ういので駆け付けてみれば、この有様だ。
 そなた、ここで何をしていた!」
 駆け上がって来たのだろう。外階段を目で差しながら女王が問いかける。
「考え事を、しておりました」
「何の考え事だ。わざわざ塔に登ってするような考え事か」
 それでも、この人が怒るのは、自分が抜け出したからではないのだ。今ならば分かる。四週間前は、無理だったろうけれど。
「私とは、何なのかを考えておりました」
「そして、わかったのか、アイネルゲ嬢。この風は、何かしら教えてくれたか」
 風は先程より随分治まっている。女王のマントの裾が、僅かに風に翻るくらい。空は大分、明るくなった。
「はい……」
「申してみよ」
 強い声にも、もう冷たさは感じない。
 分かったのは、あなたが得るために莫大な対価を支払ったものを、何もせずに手に入れたがっていた、私。
 ぐずでも病気でも頭が悪くても、何かを、一つでも、確かに、やり抜いていれば…。
「それは…」
 声を出そうとすると、代わりに出たのは涙。それ以上何かを言おうとすると、しゃくりあげてしまいそうで。黙っていると、急に寒さが堪えて、身体に震えが走った。女王は溜息を吐くでもなく、着ていたマントを脱いでアイネルゲにかけてくれる。裾はアイネルゲには長くて、足下の石に付いたけれど。
 そこで、ふっと笑いが零れた。
「お帰りなさいませ、陛下」
 女王は、虚を突かれたように言う。
「う、うむ。遅くなった。そなた、何故笑う、アイネルゲ嬢」
「陛下の香りがしたものですから。つい、懐かしくなって」
「暫く香料は使わなかったが、染み付いているのかも知れぬ」
 女王は、探るように男物の上衣を着けた自分の身体を見回した。
「陛下に良くお似合いでいらっしゃいます」
「そうか? エーヴェもそう言ったな。もともとは彼女のために調香したのだが、私の方が似合うと言って、私とだけは、この香りを共有すると言い出した」
「調香もなさるのですか」
 道理で、あの髪油の香り高いこと。
「うむ。たまには、好きなこともする」
 アイネルゲは、ふと聞いてみたくなった。
「これは、どういう香りなのですか?」
「晴れた冬の針葉樹の森を吹き抜ける風の香りを、とエーヴフェクトが所望した」
 なんとと捉えようのない希望。
「難しいですね」
「ああ、この香りには、さんざ苦労した。エーヴェの言うことはいつも難しい。
 それでも、アイネルゲ嬢。エーヴフェクトは簡単だ。自分で物を言う」
 アイネルゲは口を噤んだ。
「自分が何を言って良いのか判らない、という処までは、彼女は自分の口で言うのだ」
「………」
 何を言わんとしているのかは良く分かるけれど。
 アイネルゲは自分のことではない話をした。
「…お聞きしてもよろしいでしょうか…」
 何だ、と女王は返した。
「陛下は、今まで、どちらに…?」
 駆け登って来る間に外したらしい手袋を填め直している女王に、アイネルゲは聞いた。
「訳も分からぬ私を、ここへ置いて。国政は、そんなに疎かにされて良いものなのですか」
「それを言われると、一言もない。この度は、全くの私用であった」
 女王は渋面を作った。
「考えると、私をお連れにいらした時、城を五日も空けられたのですよね。そして、今回、私を影にして八日、いいえ、九日もの間、城を留守にされました。合わせて二週間以上。どうして、一度で済ませてしまわれなかったのですか。無責任だとは、思われませんか」
 アイネルゲは目に力を入れて、女王を見上げた。女王も、目を反らさずに見返して来る。
「無責任かと問われれば、そうだ、としか答えられぬ。
 私は、エーヴフェクトを縛る時間を短くするため、敢えて長く城を空ける道を取った。
 そなたには、晴天の霹靂であったろう」
 晴天の、へきれき。それだけ? アイネルゲは言い返そうとして、思い出した。彼女は、ここへ来るかどうか、諾否をアイネルゲ自身に問おうとした。答えなかったのは、自分。
 違う、本当に恨んでいるのは、ここへ連れて来られたことではなくて。何もしていない自分を、思い知らされる機会を、無理矢理に叩き付けられたことだけ。
 つい今し方、強気で女王を睨んだ目から、もう涙が零れそうになる。恥ずかしくて、情けなくて、アイネルゲは顔を反らした。
「陛下には、才能がおありで、お強くて、自分に自信がおありだから……」
 言っている端から、みじめになるのに。
「お留守の間の都合をつけることなど、何と言うこともないかも知れない。優秀な御友人に私を預ければ、何も起こらないと安心できるかも知れない。でも、私にはそれは分からない。ただ日々を過ごすことしかできない」
「エーヴェはそなたを見捨てたか? 不自由な目に合わせたか? 彼女がそなたを守ると私に言った以上、自分の寝食は疎かにしてでも、そうした筈だ。
 妊婦は、腹の子を守るために極力自らの身を守らねばならない。それでもエーヴフェクトは、腹の子よりも、私の代わりたるそなたを守ることを選んだ。不服か」
「陛下が政務の間に、手慰みにお読みになる本だって、私ごときは読めないようなものを、何冊も、何冊も!」
「本の十冊やそこら読んだところで、その世界が判る訳でもあるまい」
 本当にそう思っている声だけに、尚更口にした悔いが増した。
「でも、私には十冊どころか、その一冊すら読みこなせない…」
 アイネルゲは見られないように涙を拭った。
「何の為に読む。誰の為に読む。
 少々目を通したくらいで、私が理解できているとは限らぬ。ただ好きで読むだけならともかく、それを真に自分が納得できねば、読書に限らず、先には進まない」
 違う。進まないんじゃなくて、進めないのに。
「陛下は私のように、弱い者の気持ちなど、お分かりにならない。何かしようとしても、頭の奥で、沈むような感じがあって、何をしようとしても、それがそこにあって、何かしようとしても阻まれて、何かしたいと思ってもその才能が無くて、いつも頭の奥で、邪魔をされて、」
 口が、抑えられない。人と話すのに感情のままに走るなんて、最低なのに。
 息が、切れる。吸っても吸っても、胸が苦しくて。目の前が白くなる。
 アイネルゲの、今まで漠としていた思いが今、心の中で形になった。今までしたかったことは、それなのかも知れない。
「死にたかったのか」
 断じるような声。今のアイネルゲには、それに耐える力は無いのに。いっそ、その腰に提げている剣で刺し殺してくれたらいいのに。
「アイネルゲ嬢。私の友の話をしよう」
 唐突に、女王は言った。
「私の学友の一人で、幼い頃から、迸るような才気の持ち主だった。
 彼の口から溢れる言葉は明瞭で、彼にかかればこの世に謎など無いと思える程だった。
 しかし、あまりに才があり過ぎたためかも知れぬ。一般に物思いに耽る年頃になると、彼は一際深く、思索に沈み込むようになった。
 そして、十七、八──早い者は、妻を娶る年頃になって、初めの自害を図った。
 自らの命を絶つ者は、その直前まで助けを求めると聞いていたが──彼は、そんなことはしなかった。
 決して悟られぬよう、あちこちへ手を回し、細心の注意を払って、それこそ寸分の狂いも無く、それを遂行し──失敗した」
「助かったのですか」
 ああ、と女王は頷いた。
「本当に気紛れに、私が──彼のいたその小屋を使って、悪戯することを思い付いたのだ。
 戸が開かないのを訝しんで窓を覗くと、厚く布が掛かっていて──どうしてあの時、ああまでして、その小屋に入ろうとしたのか、私は覚えておらぬ。
 結局、悪知恵を働かせて、扉を叩き壊して中へ入り──絶命する手前の彼を見つけた。
 思いきり良く手首を掻き切った部屋の中は血塗れで」
 そこで女王はふっと、凄艶な笑みを浮かべた。
「──いや、そんなことはどうでも良い。
 とにかく私は、彼を死なせなかったのだ」
 アイネルゲはほっと息を吐く。
「それから彼は、随分長い間、寝付いていた。
 辛うじて儚げな笑顔も見せるようになり、皆が安心した頃、彼は二度目の自殺を図った。
 その時は、私に言われて彼の様子に気を付けていたエーヴフェクトがかなり早い段階で見つけて、手当てをした。そして私は、彼と話をする機会を待った。
 彼が同情や関心を買うために狂言自殺をしているのならどれほど良かったか──でも、違う。彼はそのような甘えを人に見せるには、あまりに鮮烈な美意識を持っていた。
 私は床についている彼を見舞おうとしたが彼はそれを受け入れず、歩けるようになると私に謁見を願い出た。
 そうでなくても透明な肌からますます血の気が抜けて、蒼白な顔で──でも、彼は足取りの乱れを人に見せることなど、許さなかった。
 私達は特別に王女の謁見室を出て、彼とここへ上がった。私は、今丁度アイネルゲ嬢が立っている辺りで、ここに立っていた彼の背を見ながら、長い間語らった」
 女王は、足下に印でも付いているかのように、ぴたりとある場所で止まり、アイネルゲの方は見なかった。
「芽吹きの早い、それこそ早成過ぎる程の才。何しろ彼はずっと昔から──何しろ六回目の誕生日を迎えた頃には既に、この世を去りたいと願っていたのだからな。
 彼の目を通して世界を見るとどれほど煌めいているだろうと夢想していた私は、何も判っていなかったのだ。
 我々は、様々なことを分かち合った。国々のこと、森羅のこと、神のこと、そして、命のこと。
 私の言うことなど、殆ど彼の雛形に過ぎなかったが──何しろ、私が持つ疑問に答えて来たのは、教師陣ではなくて、彼だったのだからな。彼は、私の話をひとつひとつ聞いて、そして、丁寧に否定した。
 人格の攻撃ではなく、間違いを正すための否定。あれ程に正しい否定を、私はそれから受けたことがない。
 でも、その時は彼が否定できないことが、ただ一つ、あった」
 風で、気持ち悪く絡まった髪に、無意識に手を通そうとしながら、アイネルゲは聞いた。
「それは…?」
「未来。そして、その可能性」
 女王は即答した。アイネルゲは手を止める。
 空は、かなり明るくなった。
「この先生きていて、生きる価値があるものがみつからないと言えるのか、と私は問うた。
 彼は、言える、と断言した。
 私は、証拠を見せろ、と詰め寄った。
 ──無論、そのようなことができる訳が無い。命ずれば竜の牙とて抜いて来よう彼でさえ、未来の証拠など、挙げられる筈はないのだ。
 未来の可能性──その一点において私は議論に勝ち、彼に後十年、生きることを誓わせた。
 今思えば、生きる価値あるものが見つかるという保証も無かったのだがな。彼は私に、情けをかけてくれたのだろう。世界を見通すことのできぬ、凡庸な私に」
 女王にはおよそ似合わぬ自嘲の横顔に、アイネルゲは目を見開いた。
「私が即位すると、彼は辺境への領地替えを願い出た。その地での彼の貢献は、言う迄も無いが、目覚ましかった。国境は安定し、私が戦地へ向かうことも殆ど無くなった。何より兵役を課すことが格段に少なくなったお蔭で、国庫までも潤った。
 そして、この約束の十年目、忍び歩きの時に身代わりを勤めていたエーヴフェクトが身籠った。私は目見え以下の──宮廷で顔を知られていない貴族の令嬢から、私の影を演じることのできる娘を探し出そうとした。
 とにかく最短の時間で連れて来て、訓練せねばならなかった。自分の目で相手を確かめる為に単身飛び出して、そなたに行き会った。
 そして九日前、私は彼に会う為に任務を放り出して再び単身で城を出た」
「本当は、ユーテリゼを…妹を、お連れにいらしたのですね……」
 女王は否定しない。
 分かり切ったことではないか。誰が自分など。わざわざ連れに来るものか。
 アイネルゲは自分に言い聞かせ、女王を見た。
「しかし、私はそなたに出会い、選んだ。
 そして後を託し、旅に出た」
 微動だにしない横顔。後れ毛だけが、風に緩く揺れる。それもだんだん解けて、多くなってきた。
「感心できないことは判っている。私とて、このような君主は真っ平だ。それでも私は、この先の可能性を知るために、どうしても出掛けようと決めた。
 今回、約束の一日だけ前に彼に会いに行って──結局、殆ど政治の話をしていたな。至らぬ点を、多々指摘されてしまった。勿論、先程アイネルゲ嬢に非難されたことも、痛烈に言われた。
 しかして、それよりも遥かに多くの、得難い知恵を授けて貰った。
 結局、彼と話した方が、私が城を二週間留守にすることを踏まえても、今後百年の国家の安定に役立つ事実には、さすがに彼も反論できなかったな」
 彼女は、切なげに苦笑する。
「尤も、彼の哲学について話し合うよりも、政治について話し合う方が有用だと返されると、それは、さすがにそうする他無かった。
 私が話したかったことについて、やっと機会を作って貰えたのは、約束の期日の、日の出の半刻ばかり前だった。
 とりあえず、彼は約束を守って、十年を生きてくれた。その事実にだけは、私は喜び、安心してもいた。
 結果を聞こうと言うと、彼はこの十年来の日記を示して、私にそれを読むように促した。
 ここで約束をした日の夕べから書き始められたそれを、私は読んだ。それで余裕を持って立てた予定よりも、帰りが遅くなったのだ。
 心細い思いをさせたな、アイネルゲ嬢」
 アイネルゲは頭を振った。
 女王は再び唇を開く前に、夢見るように虚空へ向けて、目を輝かせた。
「本当に、人を虜にするような──煌めくような、日々の言葉。迷いのない、その強さ。自己弁護の一切無い、その美意識。その、痛み。
 人に見せるためではなく──いや、初めから、私に読ませる為だけに綴られた、彼の息吹」
 女王はふと気が付いたように現実に戻り、肩越しにアイネルゲを見遣った。
「いや、それすらもこの場合、問題ではない。
 私は、この十年は、彼に取って苦渋でしかなかったことを理解した。
 そして、私が読み終えると──彼は、全てを火に投じた」
 風はもう、秋の片鱗すら残さずに、完全に冬のもの。でも、上衣だけの女王は、寒さを感じている様子も無い。女のものとも思えぬ程、広い背を、夜明けの風に晒す。
 アイネルゲは、着せかけられたマントの下で、寒さに自分の両腕を抱き締めた。
「アイネルゲ嬢」
 きっかりと軍人のように回れ右をして、女王はアイネルゲに向き直った。
「死にたいと言う者を、私は止めぬ」
 厳然と、突き放すような口調。けれど、瞳の奥の隠しきれない痛みは、アイネルゲにだって、見える。
「…止められないのだ、アイネルゲ嬢」
「それ程のお方、陛下がお命じになれば生きていらっしゃるのでは…国のためなら……」
「そのような施しは受けぬ」
 女王は言い放った。
「今まで生きてくれた事で、充分以上に彼は私に報いてくれた。
 この日の為にあらゆる圧力に逆らって係累を作らず、ただ義務だけを果たし、ただ、約束を果たす為だけに生きていてくれた。
 この上、あの魂から搾取はせぬ。
 誰にも、この私自身にも! そのような事は、断じて許さぬ」
「………」
「もう一度言う、アイネルゲ嬢。
 見栄でも、欺瞞でも、諦めでもなく、逃げでもなく、死を選ぶ者を私が止める事は、二度と無い。
 答えよ、アイネルゲ。
 そなたは、私が止めるべき者か、否か」
「…………っ」
 その問いは、突き付けられた、刃。自分の言葉次第で、喉を掻き切られる事も、切っ先を引かれる事も、望みのままなのに。
(私の、意志で)
 なのに、何も、言えない。
口を開いてみても、喉と唇が震えるだけで。
 今まで、ずっと考えていたこと。刃に貫かれて死にたいのなら、今ここにある言葉の剣に、身を晒らせば良いだけなのに。
 私が、この塔から身を投げても、この人は、何の手も差し伸べない。
 身じろぎ一つしない女王の、髪だけが落ちていく。
「陛下、御髪が……」
「髪よりは、そなたの選択の方が大切だ」
 少しでも視線を外して欲しいと思った。
「そなたの選択を、尊重してやるくらいの権力は、ある」
 そんなことは、分かっている。嫌と言う程、思い知らされている。
「どうしたい? アイネルゲ嬢」
 どうしたいか、なんて。どうしたいかなんて……。
 アイネルゲが頬を、唇を震わせているうちに、女王は聞き直した。
「では、質問を変えよう、アイネルゲ嬢。そなた、私にどうしてほしい?」
 腰に下げた長大な剣。それで、
(この、首を、跳ねて)
 もしくは、
(この胸を、貫いて)
 それで、一瞬で楽にして。
 そのように言えば、
(この方は、微塵の迷いも無く、私の望みを叶えて下さる)
後で、自分がどんなに苦しんでも。その苦しみを、今すでに見越していても。
 それなのに、自分の気持ちは、どう言葉にしても、しっくりとしない。
 女王の身体も、見据える瞳も、微動だにしない。瞬間を切り取ったような姿に、アイネルゲは胸の深い、奥底の──いつも花で、美々しい言葉で飾り立てているのに、隠しようもなくどす黒い、溶けない氷のような、塊を見出した。
(そうだ、私は)
 アイネルゲは認めた。自分が死んだら、
(この方に、苦しんで…悲しんで、欲しいのだ)
 どうしようもない感情に、アイネルゲは歯を食い縛る。
(死のうとするのを、止めて欲しいのだ)
 どうしようもなく、醜い自意識。噛み締めて、目に力を入れて、歪んだ顔から、だらしなく涙が落ちるのを、堪えようとする。
 そしてそれは今、自分を真正面に見据える相手だけにではなくて、
(大勢に…皆に、止めて…涙ながらに止めて、生きるよう、懇願して欲しい…)
 そして、
(死んだら、惜しんで、身も世も無く、地に身体を打ち伏して、嘆いて欲しいのだ)
 今の、ままの、自分の為に。
 アイネルゲは、膝を落とし、石の床に爪を立てて号泣した。
 
 どのくらい泣いていたのか、わからない。涙も枯れ、石に突き立てた指も、そのままの形で固まった頃、アイネルゲはしゃくり上げながらも、顔を上げた。
 目の前に、乗馬用の頑丈な長靴があって、見上げると、女王の顔。
 彼女は、自分の横に膝をついて、慰めてはくれない。
 傍にいて立ち上がるのを待つ、だけ。
 その手を与えず、言葉を与えず、その、気配すら与えず、凍るような寒さの中で、何も感じないような顔をして、立っている。
(それだけ、だけれど)
 そのまま、石と同化して眠りについてしまいたい程、疲れて切っていたけれど。
 アイネルゲは、自分を床から引き剥がして、立ち上がった。それだけでもう、息が切れる。
 考える言葉も、涙も、枯れ果てた。
 女王は無言で手布を出し、アイネルゲの目に当てた。
(良い香り…)
 枯れたと思った涙は、また零れたけれど、今度は、心を絞り出す涙ではなく、どこかアイネルゲを潤してくれる、雫。
 手布を自分の目の下で押さえて、瞬きながら女王の目を見上げると、その瞳がふと緩む。
 さっきより髪が崩れて、乱れ髪が格段に増えている。
 揺れる髪を見詰めるアイネルゲの視線を追った女王は、つと髪に手をやり、アイネルゲから二歩離れた。
アイネルゲを引き上げた勢いで石の床に頭を打ち付けた時に崩れたらしい、歪んだ髷からピンを抜く。その先を見て僅かに唇を引き結ぶと、手袋を外して指を髪に入れる。すぐに出したその指先の、中指と薬指に血糊が付いている。
(あ…怪我……)
 見ていると、ピンを隠しに仕舞って、女王はがっくりと崩れた髷を一旦持ち上げ、背中に打ち付けるようにして、解した。
 螺旋を描きながら落ちて行った髪は、正面から見ているアイネルゲにも判るくらい、かなり長い。
見慣れていた頭頂の嵩が驚く程小さくなり、女王はしがらみを振払うように首を振る。項の後ろで髪が解けて硬質な印象が勝っていた面差しを包む。
(あ……)
 逆に女王の秘めていた何かを見てしまったような気がして、アイネルゲはどきりとした。
(違う)
 そうではない。
(この方にも、隠しているものがあるのだ)
 アイネルゲは気が付いた。背負うものだけではなく。自らが選んで慈しむものが。
 塔の彼方から──彼女の背から緩く風が吹いて、解けた髪がアイネルゲの方へ流れて来た。
 それは今、風に煽られて、地に着いてはいないけれど、風が一瞬でも止めば。
 見ている間に風が治まる。長靴の踵を越えて、遥かに──身の丈から余る長さが、下に落ちる。
 女王は風を入れるように頭を振りながら、顔の前に落ちた髪を、掻き上げた。黒き獅子の如く、自らの意志で逆立つ、強い髪。
 完全に昇り切った朝の陽を照り返す艶に、アイネルゲは息を呑んだ。
 はっと、我に返ったように、女王が言う。
「失敬、アイネルゲ嬢」
 いいえ、とアイネルゲは答えた。
「いいえ」
 と、ただ繰り返す。
「アイネルゲ嬢、その部屋着を貸せ。ガウンだけで良い」
 アイネルゲは戸惑いながらも、マントの前を開けてかじかんだ手で、前の紐を解いた。その指を、女王がいきなり掴み上げる。
「怪我をしているではないか。後で手当てせねば」
 石の床に立てていた指を見て、女王は顔を顰める。アイネルゲがガウンを差し出すと、女王は自分の上衣を脱いでアイネルゲに寄越した。
「それを着ていろ」
アイネルゲが受け取った上着は、厚みと、人肌の温もりとで、それまで羽織っていた部屋着よりも、格段に暖かかったけれど、それと交換した女王は、格段に寒い筈。マントもアイネルゲに着せられたままだ。
 身を切るような空気の中、女王は眉一つ動かさずに、アイネルゲの着けていた薄物を羽織る。
 やはり、あの衣はこの方の為に縫われたもの。アイネルゲには余っていた袖と裾の丈がぴったりと決まる。
 袖を通し終わると、女王は項に手を入れ、背に入った髪を引き出した。一気に引き出すにはあまりに長い髪。
 一旦衣に挟まれ、滑り出て来た髪は、さっきよりずっと滑らかに広がった。後に僅かに残る揺らめきは、結い上げていた名残か、生まれついたものか。滝の奔流と、水に煌めき跳ねる、その雫のように。
 そして女王は、徐に、アイネルゲが立っていた胸壁に上がる。尤も、女王の方が身のこなしが遥かにさまになっていたけれど。
「陛下?」
 女王はそれに答えず、吹き上げる風に身を晒す。髪が、風を孕み、大きく弧を描いて舞い上がる。先に行くにつれ、ほんの少しの、余程注意しなければ分からない色合いの移り変わりが、一緒に過ごした年月を表している。毛先の柔らかな色も、紛れも無いこの女王の一部。その輪郭が、朝の光を透かして、神々しい。雨に洗われて、殊更に清々しい空気の中で。
 殊更に不適な顔などして見せずとも、ただそこに在るだけで。
 自分とは、何と言う違い。
 アイネルゲは、自分の毛先を見た。
「ここに立つのも、久しぶりだ」
 女王は、一瞬だけ少女のような顔をして目を細めると、身軽にそこから飛び下りた。
「これで、アイネルゲ嬢を見た者は、私だと思うだろう」
 既に支配者の眼に戻った彼女はこの塔より低い、見張りの塔に目をやる。
 そこまでの配慮に、アイネルゲは感服するより他に無い。
「さて、いつまでも部屋着でいる訳にもいかぬ」
 彼女は、大して暖かさの足しにはなっていないとは言え、この寒さの中で、迷いなくガウンを脱ぎ捨てた。アイネルゲは手を出してそれを受け取った。代わりにマントを脱ごうとすると、女王はそれを留める。
「中へ入ろう、アイネルゲ嬢」
 アイネルゲを誘って、塔の中へ入る扉へ向かいかけて、女王は足を止める。
「約束の一月だ、アイネルゲ嬢。そなたを父君の元へ返す」 
 分かっていたとはいえ、アイネルゲは、どこか落胆を禁じ得なかった。
 やはり、残れと言われる程、気に入られはしなかった。尤も、言われたところで、素直に受けられるのかどうか分からないけれど。
「帰りはレプラチェメン伯爵家の馬車で遅らせる。ドレスも何着か用意させた。エーヴフェクトの見立てだ。楽しみにしているが良い。
 そういうものも好きだろう」
 見抜かれていた。少々気恥ずかしかったが、どうごまかしても無駄だ。武具や甲冑に半端な憧れはあっても、華やかなものに惹かれる気持ちは否定できない。赤くなった頬を引き締め、アイネルゲは自分の髪先を握り締めた。
 気ままに、思うがままに髪を放ってきたからこその、傷み。好きにしていなかったから、自分を縛ることをしたからこその、荒れ。その時々に、したい髪型にすることだけは、押し通して来たけれど。
「少し毛先を落とせば大分良くなるだろう」
 女王は、見逃さない。
 アイネルゲは、思いきって顔を、上げる。
「陛下。私の髪を、削いで頂けるでしょうか」
「造作も無い」
 女王はその場で、あっさりと短刀を出す。
 女王は余程気になっていたらしい。櫛も通さずに、アイネルゲは驚いたが、今度は安心して髪を預けられた。落とされた髪が塵となって散って行くのを、アイネルゲは見るともなく、目で追う。
「アイネルゲ嬢」
 アイネルゲが顔を上げると、見返すのは畏れ多くも女王の眼差し。
「私はいつも、自分に言う。強くなるのは、自分自身だと」
 アイネルゲは唇を引き結ぶ。
「私は、弱いのです……」
「弱いなら、弱く無く、ならねば──今弱いなら、弱さに居直る強さだけは持ってはならない。それは弱いのではなく、醜いのだ。醜くだけは、なってはならぬ。
 ──これは私が、私自身に命じる言葉だ。そして」
 女王はそこで一旦、言葉を切った。
「アイネルゲ嬢が自分に何を言うかは、アイネルゲ嬢自身が決める事だ」
 アイネルゲは嗚咽を抑える。ほんの爪くらいの長さを落とされただけで、無愛想な程に直線になった毛先を、アイネルゲは指で確かめた。
「気が向いたならば、次の役替えの時にでも、仕官せよ」
 決めるのは、アイネルゲ自身だ、と。彼女は誰よりも優しいけれど、代わりにそれをしてくれる程甘くはない。
「私にできるのは、そうであることを、祈るだけだ」
 目の前が、霞む。誰かの涙が、この人の胸を一番痛めるのだと、どこかで分かっているのに。
 いつか、自分も──自分の中の何かを抑えて、鍛えて。このような輝きを身に付けることがあるのだろうか。
 晴れ渡った空の前に、不似合いなまでに鮮やかな存在を前にして。アイネルゲは、顔を歪めて涙を堪える。風は、アイネルゲの髪を、そして、女王の髪をも攫って、煌めきを陽の光に晒した。


背景画像:Pearl Box

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