【安倍晴明(921〜1005)】 「はるあきら」とも。平安中期の陰陽家(おんみょうか)。父は益材(ますき)。土御門(つちみかど)家の祖。賀茂忠行・保憲父子に陰陽・推算の術を学び、天文博士などを歴任。式神(精霊)を使い、天文を解して事変を予見したという。卓越した卜占(ぼくせん)の技術をもっていたと伝えられ、逸話が説話などにみえる。著書『占事略決』。 ――角川書店『日本史辞典』より
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『今昔物語集』……1120年以降〜12世紀前半成立の説話集。 『宇治拾遺物語』…鎌倉前期の説話集。※鎌倉幕府(1192〜1333) 『源平盛衰記』……鎌倉後期ごろに成立(?)した軍記物語。 |
『御堂関白記』…藤原道長の日記。998〜1021の期間が実存。※藤原道長(966〜1027) 『小右記』………藤原実資(さねすけ)の日記の総称。977〜1040の期間が実存。※藤原実資(957〜1046) |
@『小右記』寛和元年四月十九日条
十九日、癸巳、朝雨、以(安倍)晴明為女房令解除、産期漸過可在去今月、而無其気色
A『小右記』永延元年三月廿一日条
廿一日、癸未、早朝罷出、申時渡二條、以(安倍)晴明朝臣令反閇
B『小右記』正暦四年二月三日条
『晴明依御祈験加階事』
三日、辛酉、(安倍)晴明朝臣来、觸加級之由、令問案内、答云、主上(一条天皇)俄有御悩、依仰奉仕御禊、忽有其験、仍加一階正五位上、者
C『御堂関白記』長保二年二月十六日条
十六日、甲子、金收
可有院行幸由仰官外記、晴明日時勧申来月十四日
D『御堂関白記』寛弘元年七月十四日条
十四日、丙申、終日陰、時々微雨下、入夜有大雨、右頭中将(實成)仰云、(安倍)晴明朝臣奉仕五龍祭、有感、賜被物云々、早可賜也、雷聲小也
この5つの条文をみると、次のことがらが明らかになりました。
@ 寛和元(985)年4月19日 朝方は雨だった。実資に呼ばれた晴明は彼の女房(女性側用人)のために「解除」(何物かの効力を消滅させる儀式)を行った。女房の出産時期がきているのに、一向にその気色がないためである。 A 永延元(987)年3月21日 早朝に宮中を退出する。午後4時ころに二条の邸宅に行った。そこで、晴明に反閉の術(邪気を反覆閉塞して正気をむかえ、幸を開くこと)を行わせた。 B 正暦4(993)年2月3日 実資の屋敷に晴明が来た。位が昇進したことがらに触れ、その説明を晴明に求めた。晴明が言うのには、「一条天皇がにわかにご病気になられて、宮中からのご指示によって身を清め、一条天皇のご病気が治まるように奉仕しておりました。すると、すぐにその効果があらわれた(一条天皇のご病気が治まった)ので、一つ位階を上げていただきました(正五位上になった)」とのことであった。 C 長保2(1000)年2月16日 法興院が行幸しますというお達しがあり、晴明がその日時を占ったところ、来月の14日がよい日であると申し上げた。 D 寛弘元(1004)年7月14日 一日中曇りであり、時々小雨が降った。夜になると大雨になった。右近衛中将兼蔵人頭の藤原実成(藤原公季一子)が言うのには、「晴明が五龍を敬う祭りに奉仕した。すると、反応があり、「お供え物を供えなさい、しかも早くすべきだ」と晴明は言った。(その通り行うと、)雷鳴は小さくなった」とのことであった。 |
……やっぱり『陰陽師』のドラマや映画でやっていたことが、大なり小なり行われていたのであります(笑)。
ただ歴史書には、見ていただいたとおり、「ああしたこうした」だけで、詳しい事柄は記されていません。おそらく、BやDに見えること(成功談)に次第に尾ひれ背ひれがついていき、まず「晴明は凄い奴だ」となり、次に「晴明は凄い奴だから」ということで、最初に国語で紹介されたようないろいろな想像力豊かな逸話が誕生してきたのだと思われます。
と、このように、あることがらに対して史料(歴史的文献・遺物)を調べて、明らかにする学問、それが歴史学です。
「暗記する歴史」ではなく「明らかにしていく歴史」。このようなことが授業で出来るようになれればイイナとこのプリントをつくりながら思っているワタクシなのでありました。