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安倍晴明を歴史学的に見てみると……

(陰陽師・安倍晴明の「事実」)


【安倍晴明(921〜1005)】
 「はるあきら」とも。平安中期の陰陽家
(おんみょうか)。父は益材(ますき)。土御門(つちみかど)家の祖。賀茂忠行・保憲父子に陰陽・推算の術を学び、天文博士などを歴任。式神(精霊)を使い、天文を解して事変を予見したという。卓越した卜占(ぼくせん)の技術をもっていたと伝えられ、逸話が説話などにみえる。著書『占事略決』。
――角川書店『日本史辞典』より

 先ほどの先生の紹介では、晴明は超人であり、人智を超えた存在のようですが、れっきとした実在の人物です。

 先ほどの古典の話で紹介された出典はいつのものでしょうか?
 『今昔物語集』……1120年以降〜12世紀前半成立の説話集。
 『宇治拾遺物語』…鎌倉前期の説話集。
※鎌倉幕府(1192〜1333)
 『源平盛衰記』……鎌倉後期ごろに成立(?)した軍記物語。

 注目すべきは、
@ 晴明の生きた時代からかけ離れていること。
  →約100年の差があります。これでは書かれていることが事実であるとはいえません。
A 「説話集」・「物語」であること。
  →他人に読ませることでの「効果」を狙ったものです。やはり事実が正確に書かれているとはいえません。

 では、事実かどうかわからないのに、なぜ晴明は実在の人物であるといえるのでしょうか?

 それは、晴明の生きた同時代に書かれた歴史史料があるからです。
 今回紹介するのは、『御堂関白記』
(みどうかんぱくき)・『小右記』(しょうゆうき)の2点です。
 『御堂関白記』…藤原道長の日記。998〜1021の期間が実存。※藤原道長(966〜1027)
 『小右記』………藤原実資
(さねすけ)の日記の総称。977〜1040の期間が実存。※藤原実資(957〜1046)

 先ほどの注目点と見比べてください。
@´ 晴明の生きた時代との関係
→晴明のほうが約30年道長・実資より先に生まれていますが、同じ時間を生きていることがわかります。ちなみに、全くの同時代となると藤原兼家
(かねいえ、929〜990。道長の父)となります。このことからもドラマなどで見られる兼家と晴明の関係(兼家がオジサンくさいのに対して、晴明は若く美男子)は脚色といえるでしょう。
A´ 「日記」というもの
私的な記録であり、他人に読ませることをあまり意識しません。ただ、この2つの日記は、私的な日記であると同時に、宮廷で行われた(自分の執り行った)儀式を記録することを目的とし、日記の継承を通じて儀式の作法を子孫に伝えるという側面もありました。ちなみに『御堂関白記』は陰陽寮(晴明も所属していました)が発行した具注歴
(ぐちゅうれき)に書かれています。具注歴とは今でいうと、今日の運勢つきビジネス手帳のようなものです。

 つまりは、道長なり実資なりが、実際に晴明を呼んで(または見かけて)行った儀式・事柄が(ほぼ)正確に記されているといえるわけです。『御堂関白記』には11回、『小右記』には16回、「晴明」ということばが出てきています。
(この回数、あんまり多くありません。彼ら2人にとって晴明は日常的に接する人物ではなかったわけですね)

 では、『御堂関白記』・『小右記』に晴明はどのように描かれているのでしょうか?

@『小右記』寛和元年四月十九日条
 十九日、癸巳、朝雨、以(安倍)晴明為女房令解除、産期漸過可在去今月、而無其気色
A『小右記』永延元年三月廿一日条
 廿一日、癸未、早朝罷出、申時渡二條、以(安倍)晴明朝臣令反閇
B『小右記』正暦四年二月三日条
 『晴明依御祈験加階事』
 三日、辛酉、(安倍)晴明朝臣来、觸加級之由、令問案内、答云、主上(一条天皇)俄有御悩、依仰奉仕御禊、忽有其験、仍加一階
正五位上、者
C『御堂関白記』長保二年二月十六日条
 十六日、甲子、金收
 可有院行幸由仰官外記、晴明日時勧申来月十四日
D『御堂関白記』寛弘元年七月十四日条
 十四日、丙申、終日陰、時々微雨下、入夜有大雨、右頭中将(實成)仰云、(安倍)晴明朝臣奉仕五龍祭、有感、賜被物云々、早可賜也、雷聲小也

 この5つの条文をみると、次のことがらが明らかになりました。
@ 寛和元(985)年4月19日
 朝方は雨だった。実資に呼ばれた晴明は彼の女房(女性側用人)のために「解除」(何物かの効力を消滅させる儀式)を行った。女房の出産時期がきているのに、一向にその気色がないためである。
A 永延元(987)年3月21日
 早朝に宮中を退出する。午後4時ころに二条の邸宅に行った。そこで、晴明に反閉の術(邪気を反覆閉塞して正気をむかえ、幸を開くこと)を行わせた。
B 正暦4(993)年2月3日
 実資の屋敷に晴明が来た。位が昇進したことがらに触れ、その説明を晴明に求めた。晴明が言うのには、「一条天皇がにわかにご病気になられて、宮中からのご指示によって身を清め、一条天皇のご病気が治まるように奉仕しておりました。すると、すぐにその効果があらわれた(一条天皇のご病気が治まった)ので、一つ位階を上げていただきました(正五位上になった)」とのことであった。
C 長保2(1000)年2月16日
 法興院が行幸しますというお達しがあり、晴明がその日時を占ったところ、来月の14日がよい日であると申し上げた。
D 寛弘元(1004)年7月14日
 一日中曇りであり、時々小雨が降った。夜になると大雨になった。右近衛中将兼蔵人頭の藤原実成(藤原公季一子)が言うのには、「晴明が五龍を敬う祭りに奉仕した。すると、反応があり、「お供え物を供えなさい、しかも早くすべきだ」と晴明は言った。(その通り行うと、)雷鳴は小さくなった」とのことであった。


 ……やっぱり『陰陽師』のドラマや映画でやっていたことが、大なり小なり行われていたのであります(笑)。  ただ歴史書には、見ていただいたとおり、「ああしたこうした」だけで、詳しい事柄は記されていません。おそらく、BやDに見えること(成功談)に次第に尾ひれ背ひれがついていき、まず「晴明は凄い奴だ」となり、次に「晴明は凄い奴だから」ということで、最初に国語で紹介されたようないろいろな想像力豊かな逸話が誕生してきたのだと思われます。

 と、このように、あることがらに対して史料(歴史的文献・遺物)を調べて、明らかにする学問、それが歴史学です。

 「暗記する歴史」ではなく「明らかにしていく歴史」。このようなことが授業で出来るようになれればイイナとこのプリントをつくりながら思っているワタクシなのでありました。

おしまい。