能を読む
     
『体用事 (たいゆうのこと)  覚書き
                     小山 昌宏
                   tea@mti.biglobe.ne.jp

 世阿弥の『至花道』に「体用事」という段がある。
 単に演技の技術と云うだけではなく、表現ということの根幹を記した段として気になっていた。しかし論述に矛盾があり、気にはなりながら、その為に正面から対峙する事を敬遠していた。
 世阿弥は演劇の現場の人である。それは彼の作品の持つ論理牲の厳密さや、伝書の端々の向うに具体例が見えてくることから明らかである。それなのにこのような矛盾が「体用事」に存在すること自体が不思議であった。ところがこの不思議さは、『至花道』の末尾に「問人の器量の分力によりて、相対ての秘伝なるべし」と書かれている事に気付いたとき氷解した。世阿弥の伝書はすべて秘伝であり肝心なところは口伝だったのだ。
 今の私達は文書に対したとき、そこには筆者の伝えるべきすべてが記載されていると信じて疑わない。又筆者もそれを意図して書いているだろうとの暗黙の了解が成立っている。ところが、世阿弥の文書はそうではない。世阿弥自身述べているではないか、相対しての秘伝であると。文言が全てではない。文言を仲立ちにして、そこに師弟の対話があり、しかもその対話の内容は弟子の理解能力の水準次第なのだ。だから私達はここにディアロクティケの場を見、師弟の息づかいを感じなければならない。時には笑い声すら聴かれるだろう。そのように読まなければ、これを読んだとはいえない。

   能に体用の事を知るべし。

  『至花道』の「体用事」の冒頭である。必要や義務を断定的に表す助動詞「べし」で閉じる明解な一文。
 ここでの能とは、今の能よりも広い意味を持つ語と解すべきである。庭上で実際の騎馬戦が行われるのも当時の能であるから、物語と物まねによって人を感動させる催事、演劇と云うべきであろう。芝居・映画・テレビドラマ・野外劇もこれである。後年自己同定化が進んだ結果現在の能があるのだが、中世に於いて能とは演劇を意味している。
 そして、演劇という形式での表現は体用からなっているというのである。
 体用と相関的に使用されたときは、タイ・ユウと読み、本来は禅宗の術語であったろうが、中世には連歌の付け合いの語句の適否を説明したり、心象の展開を論ずる言葉として使用されるようになった。そして、世阿弥の時代は連歌の時代である。ここで使われている体用は、連歌作法の言葉の援用と考えておく。
 「体用事」に於いては、体用を説明し明確にすることが目的であるのだから、体は体、用は用としておくべきである。阿と吽、AとZでもよいのである。これをこの時点で翻訳的、解説的に置換えてしまうと、同義反復の循環思考から抜出せなくなる虞があるあるだろう。

   体は花、用は匂いのごとし。
   又は月と影のごとし。
   体をよくよく心得たらば、用もおのづからあるべし。

 花あっての花の香であり、月あっての月下の光景である。ここに体用の具体的内容が明示され、この逆はありえないことが主張される。花の作用の結果としての香りをきき、月の作用としての月下の風景を見る時、そこには主体である花があり、月があるのだ。私達は想像と五感を充分に働かせて、それぞれの花見をし、月見の渦中にわが身を置かなければならない。
 そして、花にたとえ月にたとえたこの具体的例を、演劇の現場に当てはめて考えることが、以下の論である。

   そもそも能を見ること、知る者は心にて見、知らざるは目にて見るなり。
   心にて見るところは体なり。
   目にて見るところは用なり。

 能を見ることとあるのだが、能を見るのは誰か。役者が見るのである。一観客としてではない。見る立場の人間ではなく、見られる立場の人間が能を見るのである。世阿弥の伝書は、見る人のために書かれたのではない。演出者のための、演技者のための論である。見られる人のために書かれたのである。
 そもそもではじまる重みはここにある。
 能は心にて見るものである。心で見れば体が見えてこよう。表現は体と用からなりたっている事を知らなければ、心眼は開かないのだ。表現するとはなにかを知らぬ演者は、表現された結果をしか見ることが出来ない。香に心奪われても花の存在を知らない。月光に映え鎮まる光景に感銘しても、そのよってきたったところを知らない。よってきたった根源を見ること。この見方こそ演者に要求される見方なのだ。これが能を見るということである。
 さて、花や月は体であるとの主張であるが、これ等は具体的に目に見えるものだ。「目にて見るところは用なり」を敷衍するならば、花や月は用たらざるを得ないではないか。又逆に、香りや月影は目には見えないもので、五感で感ずる、つまり心にて見る物ではないのか。ここでの論旨からすれば、香りや月影こそ体であると主張さるべきではなかろうか。この論理のねじれはどう理解すべきか。
 これは世阿弥の提示する拈華微笑である。被伝授者をしてあえて混乱せしめようとの世阿弥の魂胆である。これを公案として保ち続ければ、ある日豁然として体用の理が身にしみて分るよう仕組んであるのだ。劇作家としての世阿弥の面目躍如である。この矛盾をどう解くか、さあ解けと世阿弥は迫るのである。「分るやつは言わなくても分る。分らぬやつは言っても分らない」との認識は芸の世界の常識である。だから世阿弥は分るやつになれと迫るのである。

   さる程に、初心の人は用を見て似するなり。
   これ、用の理を知らで似するなり。
   用は似すべからざる理あり。

 ここでの初心とは程度の低い者の謂である。「初心不可忘」でいう初心の前段階の程度の者である。発初心の初心である。まあ、養成所の生徒、劇団の研究生程度の者のことである。
 こいつが名人上手の舞台をこれ見よがしに真似るのだ、それが演ずることだと思って。鼻持ちならないのだが、この程度のやつはそれで得意なのだ。表現するとはどういうことか、つまり「体用の理」を心得ていないから無理もないか。体用の理からすれば、「用は似すべからず」である。

   能を知る者は心にて見る故に、体を似するなり。
   体をよく似する内に用はあり。
   知らざる人は用を為風と心得て似するほどに、
   似すれば用が体になることを知らず。
   真の体にあらざれば、
   ついには体もなく用もなくなりて、曲風断絶せり。
   かようなるを道もなく筋もなき能といえり。

 ここでまた能を知る者と知らぬ人との対比がなされるが、似せるということに焦点がある。似せるとは、真似るである、学ぶ(まねぶ)である。
 能を知る者、それは、表現には体と用があることを認識している人のことである。他人の舞台から学ぶとき、匂いの向うにある花わ知り、月光の基に月を見るから、彼は先ず花になり月になる。その結果、自ずと匂いがたち、光が満ちるのだ。体をよく似する内に用はありである。
 程度の低い人は、匂いや光は用にすぎず、体である花や月あってのものと知らないから、匂いを真似し、光になろうとする。似せる目的に用を据えてしまえば、「似すべきは体」との原理からすれば、知らぬ事とはいえ、用を体と見なしてしまうことになる。こうなると体の位置に置かれた用は真の体ではあり得ないし、その用は体もどきになってしまうので、体も用もなくなってしまう。彼の演技は支離滅裂で場当り的なものとなってしまう。それは演技ではない。でたらめに過ぎない。

   体用というときは、二つあり。
   体なきときは用もあるべからず。
   さるほどに用はなきものにて、似すべきあてがいもなきものを、
   あるものにして似するところは、体にならずや。
   これを知るといっぱ、
   用は体にあり、別になきものと心得て、似すべき理のなきを知ること、
   すなわち能を知る者なり。
   しかれば用をば似すべき理のなければ、似すべからず。
   体を似するこそ、すなわち、用を似するにてありけれと心得べし。

 用を体と見なしてしまう体もどきを今一度戒め、体用の関係を一言で締める、「用は体にあり」と。
 ここでこれまでの論述の構造を整理しておこう。

     真似ぶべきはAである。
     ZはAから生ずるが、ZはAではない。
     故に、Zを真似てはいけない

     真似ぶべきは花である。
     匂いは花から生ずるが、匂いは花ではない。
     故に、匂いを真似てはいけない。

     真似ぶべきは月である。
     月影は月から生ずるが、月影は月ではない。
     故に、月影を真似てはいけない。

 表現とは、中にあるものを別の形で外に出して見えるようにすることである。表現とは、内面的・主観的なものを、暗黙知である表情や身振り・音声等の外面的・感性的な形式によって人に伝達する事である。世阿弥自身の言葉によれば、「一切の事は、謂れを道にしてこそ、よろずの風情にはなるべき理なり」である。表現の流れに遡航しての表現はあり得ないし、もしその様な事があれば、それは表現とはいえないのだ。
 心にて見るとは、分る者にはその存在が確としてあることである。目にて見るとは、単に視覚だけではなく五感に感ずることである。ここで説く花や月はどのようなものか。現にそこに存在しているにもかかわらず、目には見えない花とは、見えない月とは。この疑問を持続けること。「分るやつは言わなくても分る。分らぬやつは言っても分らない」と突放されてしまう非情さ。ある日、あぁと分るかもしれない。分らないかもしれない。しかしその様にして分ったことは、生涯彼の身についたものとなるだろう。意地悪をしているかのような、しかし、真の教育。知識として頭で分っても、そんなものは芸能の世界では通用しないのだから。
 表現の全ては、台本なり登場人物がして欲しがっていることから出発する。一括りに怒り悲しみといっても、作品により人物により千差万別であり、又台本の読手の数だけあるといってよい。活き活きと血の通った、内的必然性ある人間像を読みとることが出来るか、つまり体を読みとる能力が、表現に携る者の水準である。他人の舞台を見るときもかくの如き視点に立てと世阿弥は言うのである。作品の、あるいは登場人物の怒り、悲しみ、これが体である。怒りの身振り、悲しみの声音、これが用である。
 さてここで、先に疑問を呈しておいた「心にて見るところは体なり。目にて見るところは用なり」の文言である。前文で例として提示されている花と月とが、ここで概念の捻りを生じてしまうことである。これをどう読むべきか。
 古人の非論理性か。これは無い。絶対にない。世阿弥の諸作品の持つ論理性から推して、これは無い。
 えてして演劇関係者は、表面上は非論理的だが、その内面における論理整合性を問題にする。これは内的必然といって、この糸をどこまで手繰れるかが、役者なり演出の読みの能力として評価の対象になる。詰めが甘いとか、詰んでいるとかの評がこれだ。又、意図して、あえてこのようなことをして、享受者を挑発する事により、ここが味噌であることを覚らしめる。劇作家、演出家のよく使う手だ。すくなくとも、ここが変だ、不思議だなと思うくらいの水準にいないと、『至花道』を授る資格はもとより、披見する資格もないだろう。
 ここで発せられた疑問に応えて師が口を開く。口伝である。ディアロクティケの開始である。残念ながら不立文字であるから、その内容は書面で残されていない。実際の稽古場での駄目だしをとうして、見聞の事例研究をとうして、論の中味が具体的に示され、具体化されるのである。何等秘密めかす必要は無いのだが、駄目だしというものはその場限りのもので、その場の空気を共有した者同士に限られるものであるし、禅機めいたものでもあるので、文書にはならないのだ。又、文書化しても上記の理由により、意味が無いのである。
 まずは、現にそこに存在しているにもかかわらず、目には見えない花。

     春の夜の 闇はあやなし 梅の花
         色こそ身えね 香やはかくるる
                             凡河内 躬恒

 目には見えない月。

     月照平沙夏夜月  (月 平沙を照らせば 夏の夜の霜)
                            白居易

 欲張って、花も月も見えない詠。躬恒。

     月夜には それとも見えず 梅の花
         香をたづねてぞ 知るべかりける

   返す返す、
   用を似すれば体になる理を安得せば、
   体・用の分け目をよく心得たる為手なるべし。
   ある人曰く、
   「似せたきは上手、似すまじきは上手なり」といえり。
   しからば、似するは用、似たるは体なるべきやらん。

 似せたきは上手の体、似すまじきは上手の用。
 あの名人にそっくりだと言われるのは役者としては不名誉なことだ。それは用を似せた結果だから。孔雀の羽を拾いわが身に挿した鴉の寓話を思い起す。羽ばたきをしたらどうなる事やら。
 あの上手同様、生命感あふるる舞台を展開し得るのは上手の舞台の向うにある洞察を我がものにし得たればこそだろう。技術的にはさておき、観客の感動の源は、役者の体から発現した用によるのである。演技者が演りたいことを演りたいように演るのではない。作品なり人物が演って欲しがっていることを演ること。これが舞台人の最初にして最後の使命だ。役者はこれを知らなければならないと世阿弥は言う。
 表現とは、中にあるものを別の形で外に出して見えるようにすることである。
 表現とは、内面的・主観的なものを、表情や身振り・音声等の外面的・感性的な形式によって人に伝達する事である。
 「一切の事は、謂れを道にしてこそ、よろずの風情にはなるべき理なり」であり、「万能綰一心事」である。
 そして、今一度、「能に体用の事を知るべし」。