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『菊慈童』 覚書き

  小山 昌宏
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     一
 『菊慈童』は霊水譚である。
 魏の文帝の命により霊水の源を訪ぬべく勅使の一行がレッケン山に入った。一行は菊の咲く山中に七百歳の少年を見いだし、少年が周の穆王より授かった二句の偈を記した菊の葉から滴った水こそが霊水の淵源であることを知る。少年は自分が授かった仙郷の神秘を文帝に捧げる。この霊水こそ、菊水、長寿の効ある菊の酒である。

 

     二
 「菊の節句」は九月九日であり、五節句の一である。
 奇数は割り切れないことにより陽数であり目出度く、その陽の極まりである九が重なるこの日を、「重陽」、「重九」といい中国では祝った。それは「長久」でもある。
 『続齋諧記』にこの日の起源伝説が記されているように、小高い所に登り菊花酒を飲み、茱萸(イタチハジカミ)の薬玉を身につけることによって、邪気を払い、悪鬼を寄せ付けない日とされていた。
 魏の文帝は記す、「歳往月来忽複九月九日、九為陽数而日月並応、俗嘉其名以為宣於長久、故以享宴高会」。又、王維、王勃、白居易の詩にもこの日は詠まれている。
 中国の文化圏にある日本でもこの日の行事は執り行われており、『枕草子』、『紫式部日記』や『古今集』にでその様子を偲ぶことが出来る。

     ぬれてほす 山路の菊の つゆのまに
           いつかか千歳を 我は経にけむ
                             素性法師

 

      三
 何故、菊なのか。
 現在の私たちにとって菊は観賞を主とするものだが、本来、菊は薬草としてその効を期待されるものであった。
 梁の陶広景(452-536)の編纂といわれる中国最古の薬草書『神農本草経』には、上薬としてあげられ、邪気を払い、血気を盛んにし身を軽く老いに耐え不老長寿の効あるものとされた。古くから人はその薬効を知っていたのだろう。菊の本来は薬なのである。
 鑑賞菊も含めてキク科の植物は数多いのだが、日本には「菊」は自生していなかったとされる。なぜなら、菊は中国より渡来したもので、それも薬としての舶載であるが故に、中国の音そのままにキクとして日本に定着したからである。
 菊とは、甘菊。薬用、食用のものであり、延寿の効あるものとして信仰の対象となりうるものであった。
 又、菊は百花中もっとも寿命の永い花である。この長寿にあやかり、優り草、齢草、翁草とも言われる。さらに白菊は寒さによって次第に紅に変色する、この赤変は飲酒の結果なのか。ともあれ、菊は時の移ろいによるその色調の変化をも楽しめる長生の花なのである。
  『古今集』から引くならば、

     色かはる 秋の菊をば 一年に
           再びにほふ 花とこそ見れ
                              読人不知

 

     四
 菊の節句の日、菊の「きせ綿」も大事である。
 九月九日、前夜から菊花に被せ菊の露の染み込ませた綿で体を拭き、老いを拭い去るのである。江戸以前には、今と違って綿は貴重品である。国産化出来なかったのだ。その貴重な綿を使うのであるから、祈りの重さも知れよう。
 きせ綿の実際には二様あって、重陽に飾る菊に綿を被せる方法と、綿で菊の花のさまを造る方法とである。このどちらにもせよ、菊に宿る露に延寿を祈ったのである。『猩々』にある「きせ綿を暖めて・・・」もこれをふまえたものである。
 余談ではあるが、次の凡河内躬恒の歌は、単に初霜の実景ではなく、九月九日の朝の詠とみることによって一層輝きを増すのではないか。重陽の佳き日の見事なきせ綿を初霜と見立てることにより、やがて来るであろう降霜の予兆を詠み、霜の後の菊花の紅化への時の移ろいをも凝縮させた大きな歌なのである。

     心あてに 折らばや折らむ 初霜の
            おきまどはせる 白菊の花
                               凡河内躬恒

 

     五
 延寿の効ある菊水は何処で求められるのか。
 中国中南区河南省南陽府内郷県の東北の地との理解である。『荊州記』によれば、「レッケン北八里有菊水」であり、『読史方国興紀要』に、「菊潭在レッケン北、源出縣北之石潤山」である。ここへ、魏の文帝の勅使一行はレッケン山に赴いたのである。
  『菊慈童』によれば、何処も王土とはいえども「人倫通わぬ所」、「狐狼野干の住処」であれば、王土とも言い難い辺境で、此岸と彼岸との深い谷を結ぶものは三途の橋に例えられる橋が一本架かるのみである。人外魔境であり、もしや、そこは仙郷か桃源郷か。菊水の源はこの地にあるのである。後に彭祖ともよばれる菊慈童は罪をえてこの地に流罪されたのである。ここは仙郷でも桃源郷でもなかった。流刑地だったのだ。

 

     六
 菊慈童の説話は『太平記』巻十三 龍馬進奏事にある。
 他に、天台の即位灌頂関係に菊慈童の説話を見ることが出来るが、これは『太平記』に引かれるものと文言においても全くと言ってよいほど同一である。『太平記』の作者に天台関係者が擬せられる由縁でもある。
 『太平記』龍馬進奏事をすこしく整理しておこう。
 後醍醐天皇のもとに龍とも形容さるべき駿馬が進上された。この馬の扱いに関して二つの見解が披瀝される。 洞院公賢(1291-1360)は龍馬の出現を吉瑞とし、万里小路藤房(1295-?)はこれを凶兆とする。周の穆王が八駿の駒を御することによって霊鷲山の釈迦の説法の席に連なり得たことを吉とし、かたや、穆王が八駿の駒にかまけて政を疎かにした故に凶とするのである。
 この周の穆王の説話に入子となって、菊慈童の説話がある。

 

     七
 穆王は周の第五代の王である。八駿の駒を御し霊鷲山の釈迦の説法の席に連なった穆王は、釈迦から四海領掌の偈(帝王の偈)を授かる。『法華経』四要品からの八句である。

     十方仏土中  唯有一乗法    (方便品)
     観一切法    空如実相     (安楽行品)
     仏語実不虚  如医善方便    (寿量品)
     慈限視衆生  福聚海無量    (普門品)

 「穆王震旦ニ帰テ後深心底ニ秘シテ世ニ不被傳」とある如く、四海領掌は王者の権であり、そのための偈は王者穆王のみが知るべきものであるからだ。

 穆王は慈童という若者を寵愛していた。この童子が罪を犯したのである。「或時慈童君ノ空位ヲ過ケルガ、誤テ帝ノ御枕ノ上ヲゾ越ケル」と、これが問題になったのである。その結果、群議は「死一等ヲ宥テ遠流」と結し、「此山ヘ入人ノ、生テ帰ルト云事ナシ」というレッケン山へ配流されたのである。
 「穆王猶慈童ヲ哀ミ思召ケレバ」、釈尊から直に授けられ、故に尊く、誰にも伝えることの無かった四海領掌の八偈の内の普門品の二句を密かに慈童に授けた。「毎朝ニ十方ヲ一礼シテ、此文ヲ可唱」との天子の言葉を胸に慈童は刑に服した。
 慈童はこの二偈を菊の下葉に書き付け、そして、「其ヨリ此菊ノ葉ニオケル下露、僅ニ落テ流ルゝ谷ノ水ニ滴リケルガ、其水皆天ノ霊薬ト成ル」。
 この水を飲んだ慈童は、老いることなくその若さを八百年保ち(『菊慈童』では七百年、実際には千年以上)、魏の文帝の使者の前に姿を現す。
 使者の口より彼は穆王の死を聞き、己一人八百年を老いることなく生き延びてきたことを知る。彼が穆王より授かり、今は彼のみが知れる尊い二句の偈を文帝に捧げる。そして「此文我朝ニ傳ハリ代々ノ聖主御即位ノ日必ズ是ヲ受持シ給フ」。

 これが重陽の節句に不可欠な菊の酒の起こりであり、又、法華経の霊験の称揚である。そして、これがこの説話の主眼なのだが、仏教による 天皇の聖化と正統性の保証であり、又、天皇制の根源に関わることによる仏教の国家的権威の主張なのだ。

   

     
 「聖主御即位ノ日必ズ是ヲ受持シ給フ」は何時始まったのか。
 平安後期の宇多上皇、鎌倉後期の伏見天皇にみられるが、恒例化するのは南北朝あたりであろうと言われている。南北朝合一直前の後小松天皇の即位は『後小松院御記 御即位日神秘事』に記され、これを先例として以後引き継がれたらしいことは『近衛家文書』に遺されている。
 南北朝の動乱は、後醍醐と光明の天皇としての正統性の主張の争いに始まった。その両統の争いに終止符を打ったのが後小松であるから、後小松即位の正統性こそが保証、認知されなければならない。
 その正統性の保証、認知の一つが 天台による即位灌頂であり、その有り難い由来は広く知らしめる必要があった筈だ。その方法として、『太平記』の一挿話ともなり、いくつかの能の作品として人々の目にふれたのではないか。その能の一つが、刈り込まれ整理されて現在の『菊慈童』になったのではないか。

 

     九
 「或時慈童君ノ空位ヲ過ケルガ、誤テ帝ノ御枕ノ上ヲゾ越ケル」という咎で慈童は流罪に処せられるのだが、この枕とはどういうものだろうか。
 魂倉(たまくら)が語源ともいわれ、枕は古来それをする人の霊魂が宿る大事なものであった。貘は悪夢を食べるが故に、貘の枕は悪夢から人の霊魂を守るものであったし、邯鄲の枕は枕の霊魂そのもので、黄粟一炊の夢の悟りであった。
 宮廷で、後宮で寵を競う人々が隙あらばと虎視眈々と見張っている最中、過ちとはいえ、穆王の魂である枕を跨いでしまったことは、慈童にとって取り返しのつかぬことであった。
 さらに不幸なことは、その場に穆王が居合わさなかった、つまり空位であった故に、騒ぎは広まってしまったことだ。最愛の寵童のためにではあっても、絶対者は彼の作り上げた絶対者としての体制を乱すわけにはゆかない。「死一等ヲ宥テ遠流」との群臣の議を認めざるを得なかったのだ。
 堂本正樹は「失寵の果てと見るのが妥当」との見解を示しているが、能では「忝なくも帝の御枕に。二句の偈を書き添へ賜りたり」とあり、この設定は重い。慈童に与えられた法華経のこの二句の偈は、穆王と慈童との二人のみが知る二人の愛の証なのだ。玄宗皇帝と楊貴妃との「在天願作比翼鳥 在地願為連理枝」に等しい。
 その枕に籠められた穆王の心が、人外魔境を仙郷に換え、別れの時の若者の面影を永遠に凍結したのだ。シェイクスピアの『十四行詩』第一八番の世界。

 

     
 慈童と勅使との間には、『菊慈童』の設定では、七百年の時間の落差がある。この七百年をお互いに理解する事は不可能な事だ。ましてや、人間界と仙界との出会いである。異界に於ける時の流れの例は、『往生要集』の伝えるところ「人間の五十年を以て四天王天の一日一夜」、「人間の一百歳を以てトウリテンの一日夜」なのである。
 さらに、時の流れの認識は全く個々人の問題である。穆王との日々こそ慈童にとっての時の流れであり、配所での月日は死と等しく時は流れることは無いのだ。穆王との別れは「昨日や今日」なのである。それを七百年と言われてどう理解できようか。
 又、この世の人間である勅使にとって、七百歳の少年など理解の外である。もし彼が少しでも理解できるとすれば、仙人らしい仙人、白鬚をたくわえた老人であろう。勅使の目には、七百年を「今まで生ける者あらじ。化生の者」としか映らないのだ。
 二人の論は共通の前提を欠いたまま、平行線をたどらざるを得ない。そこで、慈童が証拠にと持ち出したのが、「二句の偈を書き添へ賜」った帝の御枕だ。書き添えられた偈「具一切功徳 慈眼視衆生。福聚海無量 是故応頂礼」を二人が唱和した時、枕の霊が声を発した。

      此の妙文を 菊の葉に
      置く滴りや 露の身の
      不老不死の薬となって
      七百歳を送りぬる
      汲む人も 汲まざるも
      延ぶるや千歳なるらん。

 この時二人は悟ったのだ、この世に在り得ないことが穆王の形見の枕によって出来していた事を。慈童は、穆王の死を知った。

 

     十一
 現行以外の諸本では、楽の前に定型のクリ、サシ、クセがあり、穆王の霊鷲山での挿話を語るので、物語としては分かり易くなっている。しかし、この挿話は話者(慈童)の体験ではない。話者の視点が第三者のものとならざるを得ないので、冷静な叙述に終始する。これは物事の起源、縁起を語る最適な方法である。つまり、本来の『菊慈童』物は霊水譚の叙事に主題があったのだ。
 しかし、慈童の湧き起こる恋慕と哀惜の情を舞台で生きるのが役者である。演劇人の自覚が、叙事の枠を突き破り、叙情を選び取ったのだ。その結果が現行の『菊慈童』である。
 先行作品にはあった前場を切り捨てたのも、この一連の結果といえよう。
 流刑地への連行の有様と嘆きは、観客の憐憫の情をそそるだろう。しかし、反面、権力機構の持つ冷酷さを、言い換えるなら、穆王権への反感を観客の心に惹起してしまう。慈童にとっての穆王は、その名のとうり、和やかで和らいだ美しい皇帝であらなければならない。そのような帝であればこそ、観客は恋慕の情を慈童と共有出来るのだ。

 

     十二
 愛する者を喪った深い悲しみは言葉にはならない。又、涙も湧かない。何か大いなる者に身を委ね、呆然自失の状態が暫く続くだろう。言葉や涙は、我に返ったとき、自分を取り戻したとき出てくるものである。慈童は恋うて止まない穆王の死を、それも何百年の後に知ったのである。喪失の悲しみは切実である。
 人は言葉には出せないものがある時、合目的性もなく憑かれたように行動をする。動かずにはいられないのだ。慈童は楽を舞う。穆王の面影に今一度まみえさせたまえと、天に祈る。この楽は穆王の御前で度々舞ったものか。興のあまりに連舞になったこともあるのか。帝から直に伝授された秘曲なのか。慈童は亡き穆王の面影を求めて舞う。亡き帝へのレクイエム。
 鎮魂とは死者の魂を呼び出すことである。遊離している魂をここに収束させ、静止している魂を振り起こす事である。つかの間の甦りを図ることである。楽を舞う慈童に穆王の霊は憑くだろうか。
 文帝の勅使が、観客が目にしているのは、亡き穆王の寵童の舞う楽である。舞いに時々乱れが生じ、その都度気を取り直して舞が続けられるのは慈童の心がここにあらぬためか。否、素人役者の未熟のせいか。
 やがて、舞っている慈童の背後に穆王の姿が顕れ、慈童の舞か、帝の舞か。物理的には約十分間程度の舞だが、劇場内の観客の内的時間は永遠となる。穆王の面影は去り、慈童は我に返る。後は想い出。

 

     十三
 長山藍子によれば、『ボレロ』を聞いている内に胸が詰まり涙が出て止まらず、ロビーに逃げたことがあるそうだ。
 単調なリズム、メロディーの繰り返しは、人の心をせつなくさせる。この効果を上手く使ったのが『菊慈童』のキリの大乗地だ。他のリズム系を交えることなしに、ひたすら大乗地で、舞後の最後十分間をおしてゆく。
 形見として帝が下された枕の霊力は、菊の里を仙界とし、不老の霊水を湧出せしめた。滾々たる泉。豊かに辺りを潤し、絶えることなき菊水の流れ。この有り難さ。

      即ちこの文 菊の葉に

      即ちこの文 菊の葉に
      尽く顕る さればにや
      雫も芳しく 滴りも匂い
      淵ともなるや 谷陰の水の
      所はレッケンの 山の滴り 菊水の流れ
      泉はもとより酒なれば
      汲みては勧め 掬いては施し
      わが身も飲むなり 飲むなりや

 九月九日の月は帝を西の国へいざなう船。残されたのは、あの時の若さをとどめた自分と、御枕。断袖の想い出。

       月は宵の間
      その身も酔いに 引かれてよろよろ
      よろよろと ただよい寄りて
      枕を取り上げ 戴き奉り
      げにも有り難き君の聖徳と
      岩(言)根の菊を 手折り伏せ
      手折り伏せ 織妙の袖枕
      花を筵に臥したりけり

 不老不死への願いと、死ぬことの無い永遠に続く時間の地獄。帝亡き後の慈童の矛盾。菊水の神秘を文帝に捧げた慈童は、「菊かき分けて山路の仙家に。そのまま慈童は。入」る他ないのだ。
 想い出の枕は、どうなるのだろう。抱いて幕に入るか、勅使に奉ずるか、舞台に残したままにするか。さあ、演ってみなければ分からない。

 

     十四
 菊の縁に連なる能は多い。『猩々』、『松虫』、『邯鄲』等あるが、菊水を劇的に使用した曲は『俊寛』である。
 藤原成経、平康頼、法勝寺の執行俊寛は平家打倒の陰謀に失敗し、鬼界が島へ流される。赦免の船の到着の十日程前、九月九日、俊寛の音頭取りで重陽の酒が酌み交わされる。酒のあろう筈はないから、水を酒に見立て浮かれるのである。結末を知る私たちは、水杯を交わす俊寛の姿に哀れをもよおす。

      頃は長月
      時は重陽
      所は山路 谷水の
      彭祖が七百歳を経しも
      心を汲みえし深谷の水

      飲むからに げにも薬と菊水の

      飲むからに げにも薬と菊水の
      心の底も白衣の 濡れて干す
      山路の菊の露の間に
      われも千歳を 経る心地する。

  やぶれかぶれにここまで盛り上がった酒宴は、他人事であった慈童が、配流の地に於ける我が身の上であると気付いたとき、一瞬に潰えてしまう。

      配所はさてもいつまでぞ。

 不老不死への願いと、死ぬことの無い地獄、死ぬことの無い極楽。長生不死の仙界の仙人の答えは如何に。