能 邯鄲 を読む

                    小山 昌宏
                     
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 邯鄲の旅籠屋には不思議な枕がある。
 迷える者がその枕をして寝ると迷いをふっきれるというのである。

  記録によれば、呂公、呂仙翁、あるいは呂洞賓いう仙人が、この旅籠屋に置いていった物だそうだ。仙人はこの旅籠屋が気に入ったみえて、随分の長逗留をしたらしい。その時の宿賃に不思議な枕を置いていったのではないか。
 仙人は茶をすすりながら往来を眺めており、旅人に気軽に声を掛けていたらしい。心に屈託のある者は、聞き上手の仙人につい愚痴をこぼしてしまう。すると仙人は嚢中からやおら両端に穴の開いた青磁の枕を取出し、その枕をしての昼寝を勧めるのだ。
 閉塞感に悩むのは、まあ大抵の場合、青年である。青年の特権といって良いだろう。自分の思い通りにならない世の中。立身出世、富への渇望、恋の悩み。もしかしたら、哲学青年の形而上の悩みもあったかもしれない。仙人の勧めに従い、彼らは午睡をした。絶望の無力感は休息を必要としていたのだ。
 漢朝に富貴を願う者が枕の夢に見たものは、次代楚王の父となるが、太子三歳にして湖水に遊んだおり、国母夫人と太子は諸共に水中に没してしまうというものであった。又、唐朝・玄宗皇帝の御代、科挙に通らず青雲の志むなしい青年は夢に、官吏として累進を重ね、燕國公に封ぜられ、一家繁栄、自身は八十歳寿を全うした時、欠伸して夢果てるのだ。そして、この二人は、自分の人生は、昼飯を炊ぐほんのわずかな間であり、生ききってみればそれは夢に等しいと知り、人が人である道に歩み出して行く。
 邯鄲の枕についての報告は数多くあるが、日本では芥川龍之介や三島由紀夫も記している。芥川の場合は、仙人がまだ邯鄲の旅籠屋に滞在していた時の例であり、三島の報告は、不思議な枕が日本人の所有になってからの話である。能『邯鄲』では、仙人はすでに邯鄲を去り、枕が旅籠屋に残されている時の話となっている。年代でいえば、室町南北朝以前であり、中国では明の洪武帝以前のことと思われる。

 枕をした人の数は多いだろうが、その名前は知られていない。明確なのは三島由起夫が記した次郎だけではないか。ほとんどの場合、客であったりロセイといわれたりしている。ロセイを固有名詞とすれば名前なのだが、字に振れがあるので個人の名前とは思われない。
 戦前と戦後の活字本の謡曲集に顕著なのだが、戦前の明治書院版、中央公論社版によればロセイのロはまだれによる「廬」であり、戦後の岩波、小学館、新潮社ではとらかむりのみの「盧」となっている。謡本では音が一であればよしとしようが、注釈本においてはこれを明確にしないことには手抜きの誹りをまぬがれない。漢字は成立ちからして表意性の強い文字である。
 昨年度のNHK「日本の伝統芸能」のテキストには「蘆」生とあったので編集者に根拠を尋ねたところ、後日、単純な誤記であったとの返答を頂戴した。しかし、この「蘆」によるロセイも捨てたものではない。蘆は音が旅に通じ、蘆の節を泊り泊りの旅と見立てられよう。さらに、今を生きる私達は「蘆生」にパスカルの『パンセ』347「考える葦」の件を起想する。日本古来の享受の伝統に身を委ねるならば、この読みも興を増しこそすれ過ちではない。「悩める青年ロセイ」はまさに一茎の葦であろうから。現代の物語の享受者はこの解をも視野に物語を楽しんでしかるべきだ。

 橋掛りの向う、幕の内から「しらべ」の音が聞える。
 能は「待ちの芸能である」と誰かが言ったが、この「しらべ」の音は舞台から夾雑物を一掃する。舞台は引き締り待ちの空間になる。
 客席も鎮まったその瞬間、笛を先頭に小鼓、大鼓、太鼓の順で囃子方が橋掛りから舞台へと入ってくる。同時に地謡も舞台に現れ、囃子方と共に所定の位置に座をしめ、待ちの姿勢に入る。
 その時、畳一畳の広さであるが故に一畳台と呼ばれる台が橋掛りを通って運び込まれ舞台右端前、常には脇が座を占めて仕手の登場を待つ場所に据えられる。そして、その台の上に揺らめきながら、丁度ジャンプのこうもり傘が開くように、四本の細い柱で支えられた美しい錦の屋根がかけられる。組立てたものを舞台に運び出すことが困難であるとからという理由よりも、観客の目の前で組立てることに演出の積極的なねらいがあるのだ。それまでは何もなかった空間に、建造物らしき物があっという間に現出する。フェリーニのサーカスのテント小屋。生意気にも私は思う、この大道具が据えられた時『邯鄲』の全曲が匂い立って来るならば、この先は演る必要も、観る必要も無いのではないかと。「四ノ柱ノヒラキノ事、一大事也」である。この頼り無げで華麗な「一畳台引立大宮」と呼ばれる装置が今度は待ちの仲間に参加する。

 旅籠屋の女主人が枕を手に登場する。邯鄲の枕の出である。
 女主人の口から状況がそれと知られる。所は唐土・邯鄲の旅籠屋。時は仙人がこの旅籠屋に枕を置いて去った後。枕は旅籠屋の所有するところとなり、旅人が望めばこの奇特な枕で一睡することが出来るのだ。

 演劇の生命は観客の充分に発揮された想像力にあるとシェークスピアも『ヘンリー五世』の口上に述べさせているが、今のように照明や音響の効果によって観客の想像力を補填する方法が無い時代には、観客は自分自身を舞台に投射する事が不可欠であった。能においてもその要件に変わりは無い。否、能はより一層それを希求する。何故なら能は能面を着けることによって役者にとっての最高の武器である表情をあえて隠してしまうからだ。
 能の役者は、登場人物の魂が憑依するために、面を着けている。神降ろしの面影である。しかし、その為に顔の表情による表現が不可能である。今の演技観からすれば、役者が自分の顔を隠すなど思いもよらない。顔の表情による表現が不可欠なものである。
 勿論、能の面も曖昧な表情であることによって、作品の展開に応じようとはしている。しかし、それは謡が観客の心を触発し、その結果として観客の投射によって能面はいかような表情をも見せるようになるのだ。これは観客の作品への積極的な参加があってこそ初めて成就されるものだ。
 能は享受者の想像力にすべてを委ねている。享受者が舞台に積極的に想像力を投射し、駆使しなければ何も見えない。実に冷淡なものである。しかし又いうなれば、観客次第で無制限の世界に遊ぶことが出来る仕組である。
 物語文芸も読者にこのような態度を要求している。『伊勢物語』の素っ気なさには面食らうのだが、いったんその世界へ入り込んでしまえばおそろしくも豊かな世界が開けているのである。能は物語だという指摘は、物語るという伝統に根ざしている事を意味している。
 一畳台引立大宮である。これが何であるかは享受者の想像次第である。帰一しないところに面白みがある。屋根の付いた能舞台そのものを旅籠屋の一室とし、一畳台引立大宮をそこに置かれた天蓋付の寝台と見立てるか。能舞台の屋根は視野に入れず、一畳台引立大宮をまず別棟の建物とみなし、女主人がそこへ歩を進めるに従ってそれは客室となり、さらに寝台となるか。女主人はここでは最終的に寝台となった一畳台引立大宮に件の枕を備える。邯鄲の里の旅籠屋であり、その一室でもあり、旅人の一睡を待つ寝台でもある一畳台引立大宮は、旅人の到来を待つ仕度が出来たのだ。しかし、観客にはこれは先ほど自分たちの眼前で頼り無く建てあげられた装置にすぎないとの意識の向こうにそれを見るのである。
 如何なる者がこの旅籠屋に枕するだろうか。

 廬生が幕を出て、橋掛りを通って本舞台に入る。この10メートル程の距離のなんと長い事か。過去を持ち今生きてある廬生が、何処から何処へとの明確な目的もなく10メートルを歩むのである。しかし、観客にとっては歩むという日常の振舞いのうちに廬生の人となりを観察する好機なのだ。
 廬生は、掛絡という方形の袈裟を身につけ、左手には数珠を握っている。見た目にはすでに世捨人の体である。舞台へ入った彼は述懐をする。

   うき(憂・浮)世の旅に迷い来て
   うき(憂・浮)世の旅に迷い来て
   夢路を何時とさだめん

 廬生の冒頭の言である。廬生は何がつらいのか、なにが苦しいのか。廬生の身に何が起きたというのだ。彼の挫折は何か、富への渇望か、階級社会の階段か。それとも、先の二つの報告にはなかった人事、人との別れ、恋の悩みか、死との直面か。
 廬生の「うきよ」を把握する前に、能『邯鄲』の「うき(憂・浮)世」について理解しておこう。
 私達は二つの意味の層を重ねて「うきよ」を理解している。一は「憂世」であり、つらさ、苦しみ、悲しみの多い、つまり『日葡辞書』によれば「みじめで苦労の多いこの世」の意である。いま一は「浮世」で、音を同じくすることで「憂世」を裏返しにして、享楽的にすごすべきこの世との意味である。しかし、能『邯鄲』は唐土種である。第三の意味として注意すべきは、フセイと読ませる漢語の「浮世」である。夢まぼろしのようにはかなく定めない人生、生命。「浮世如夢」李白である。この無常観こそが、能『邯鄲』の根源とひとまず言っておく。

 能『邯鄲』の廬生は、蜀の国の人である。世を捨てた形はしているものの、それは形に過ぎず迷いの直中にある。彼自身悟りにはほど遠いことを自覚している。楚國の羊飛山に、仏縁を結ぶ事にかけてはこの上ない導き手がおられるとの噂だ。本当か、嘘か。嘘であっても良い。居ても立っても居られないのだから、ともかくその方を訪ね、不安からの安心を得たい。楚國へ彼は無我夢中で旅立つ。一途さのあまり彼の旅には行動があるのみで、計画性は皆無なのだ。ただひたすら迷うことが、今の廬生である。
 蜀から楚へ向った廬生が、ともかくたどり着いたのは邯鄲である。諸注に、蜀から楚へ行く途中に邯鄲に着いたとあるが、邯鄲は蜀から楚への道筋には無いのである。これはなにを意味するのか。
 彼がどのように迷ったかを地図の上に確認しておこう。蜀の國は、四川省・成都ととし、楚の国を湖北省・沙市とするならば、蜀から楚への最短距離は岷江の流れを南に下り、長江を東に下る事だ。途中難所として??の灘があるが、これが最も早い道といえよう。しかるに彼は北へ向う。蜀の桟道をつたい、秦嶺山脈を越え、周・秦・漢・隋・唐の都が置かれた陜西省の西安に出、渭河を東へ、黄河を東へ、そして事もあろうに南へ向わず、北へ道をとり河北省の邯鄲へ思いもかけず着いてしまうのだ。彼の目的地は沙市の辺りである、そこへ彼は向ったにもかかわらず思いもよらぬ邯鄲へ彼は着いてしまう。三角形の二辺の和は他の一辺より大なりである。超常の世界である。苦労を重ねた挙句、藻掻けど足掻けど目的地には着かない廬生なのだ。
 目的地はあれども、それに向って進めども、そこへ到達しないという支離滅裂な悪夢の世界に廬生は居る。この理不尽さを、能『邯鄲』の制作者の地理上の無知に帰結する事は簡単である。しかしそれは自ずと己の無知を露呈する事になる。義満の時代は中国崇拝政策の時代である。渡来僧・朝貢貿易の最中に、権力や宗教の中枢に近侍し得たであろう能の制作者が、制作にあたって題材とした中国本土に関して不案内、勉強不足であったとは思われない。意図された混乱である。その結果地理上の事実関係は、あたかも事実かのように装われながらも雲散霧消してしまうのである。私達は廬生とともに宛所ない旅を続けなければならない。

 廬生は四角形の本舞台左手奥に、右手前には先に女主人によってそれと示され待ちの態勢にある有難い枕をもつ邯鄲の旅籠屋である一畳台引立大宮。対角線上にあることによって緊張をはらむ二者の関係は、一畳台が先に紹介されたが故に、観客にとってはこの方が重い。観客の心は否応なくここへ廬生を引寄せるのである。旅人を待つ旅籠屋と、待たれているなど露知らぬ旅人。しかし、この旅人は如何なる理由があろうとこの宿にたどり着かざるを得ないだろう。

    住み馴れし
    國を雲路の後に見て

     國を雲路の後に見て
    山また山を越え行けば
    其処としもなき旅衣

    野くれ山くれ里くれて
    名にのみ聞きし邯鄲の
    里にも早く着きにけり
    里にも早く着きにけり

 廬生の旅である。三節に分けて考えよう。動作としての歩行の体は示さないが、道中の感慨を廬生自らが謡う事によって出発から邯鄲への到着が表現される。
 求道の旅への期待と決意が勇躍たる出発にみられる。しかし、山を越えまた山を越えて来るうちにここが何処なのか、どの方角が目的地の羊飛山に当るのかさえ不明になってしまった。出発はしてみたものの、出発前の「浮世の旅に迷い来て。夢路を何時と定めん」の心境に立戻ってしまったのだ。野を行き、山に分け入り、数多くの集落を過ぎてもそこが何処との手掛りもなく、日数を重ね、日は暮れて心細くなり疲労はつのる。行きくれて、何の甲斐もない旅に望みを失い後戻りしようとしたその時、かつて趙の都として栄え秦の始皇に滅ぼされてしまった邯鄲へ来たのだ。
 日のある内に旅は稼ぐものだ。雨が降ろうが、槍が降ろうが求道の歩みに休みは無い。それは承知だが、気力が萎えてしまっている今は一足も進めない。雨が催っているを幸い、ここに宿をとろうと廬生が思った旅籠屋こそ、あの仙人がこの宿に残したという枕のある旅籠屋だったのだ。

 案内を乞うた廬生は、宿の主人から枕のいわれを聞き、その枕で寝ることを欲する。廬生と女主人との間で交される会話は感動的である。
 まず女主人が廬生に問い掛ける。何処から来、どこへ行くのか。廬生は答える。蜀の国の人である。世を捨てた形はしているものの、それは形に過ぎず迷いの直中にあり悟りにはほど遠いことを自覚している。楚國の羊飛山に、仏縁を結ぶ事にかけてはこの上ない導き手がおられるとの聞いた。ともかくその方を訪ね、不安からの安心を得たい。その為に楚國へ行くのだと。この言葉は、廬生が初めて観客の前に姿を現し、自分の境涯を述べた言葉とほとんど同じだ。そして、それに応じての女主人の言葉がこれまた不思議な枕について先に述べた文言と同じなのだ。先には各々が単独で述べていた言葉が、ここで一つの到達点を得る、ここで初めて相手を得る。先に述べた独白がほぼそのまま対話として繰返される事は、ちょうど貝あわせの貝がお互いを求めてついにここに邂逅をとげたかの、運命の出会いを感じさせる。
 冗長の感を与えるであろう先と同じ言葉の繰返しは、逆に観客の既視感を利用しての二者の遭遇の不思議さを余すところ無く表現しているのだ。

 舞台に上がり静寂の中に独り枕を見つめる廬生の感慨は深い。

     これは身を知る門出の
    世の試みに夢の告
    天の与ふる事なるべし

     一村雨の雨宿り

 女主人の好意に、くじけまいと張りつめていた廬生の心にやすらぎがもたらされ、余裕が生ずる。自分を振返る一時。かなわぬ恋の辛い想い出。廬生の鬱屈は、権力への志向、財への欲望ではなかった。恋への屈託がここにほのめかされている。

  『古今和歌集』巻第十四 恋歌四 705。『伊勢物語』百七段。

    かずかずに おもひ思わず 問ひがたみ
            身をしる雨は 降りぞまされる

    (思い切って尋ねてみたい、あれこれ問いただしたい、貴方は私のことを憶って    いて下さるのか。躊躇する、悲しい結論は辛いから。自分の身の程を知って流    す悲しみの涙は雨となって一層激しさをますばかりだ)

  歌語の伝統によれば、「身を知る」という言葉は、「雨・村雨」を呼ぶ。廬生の道中ずっと乾ききっていたような空気が、潤いを帯びてくる。雲気が立ちこめ、あたり一面朦朧とする。「雨」は「中宿・かりね」を、「宿」は「かり枕」を、「ひるね」は「夢」、「夢」は「世・はかなき」と連鎖する伝統の修辞。

 廬生は眠たのだろうか、ただ横臥しただけだったのではないか。それともこの世に生を受けて以来ずっと眠り続けていたのではないか。
 何時からそこに居たのか、気付くと、仮寝の寝台の前に楚國の帝の勅使が居る。勅使が廬生を目覚めさせたのは、夢の世界への目覚めか、夢の世界から現実へ目覚めか。「胡蝶の夢」の迷宮。

   「いかに廬生に申すべき事の候」
   「そも如何なる者ぞ」
   「楚國の帝の御位を、廬生に譲り申さんとの、勅使これまで参りたり」
   「思ひよらずや王位には、そも何故にそなはるべき」

 恋の悩みの廬生は恋の行く末の解決をこそ期しており、権力や立身など少しも念頭になかった。ましてや、人の極み、王位につくなどということは。「思ひ寄らずや、王位には」である。しかし、王者の乗物は廬生の心を魅了した。手にしていた水晶の数珠を捨て、夕日に光輝いている露の玉の御輿の人となる。寝台を降りた廬生は邯鄲の旅籠屋を出て、楚の國へ向う。廬生にとっての楚の國は尊い知識のます羊飛山であったのだが、今向う楚の國は王宮であり玉座へである。輿は錦の布で巻かれた華麗な天蓋で表される。この天蓋は廬生を楚の王宮へ送った後、廬生の夢が消え去るその時まで常に舞台の奥にある。
 廬生は一畳台引立大宮を見上げる。輿の人となる前にはそれは旅籠屋であり、その部屋、その寝台であった。今廬生が見上げるそれは楚の城壁であり、宮殿である。宮殿に歩を入れればそこは玉座である。廬生、登極。楚王・廬生の前に、彼の廷臣達が居並ぶ。彼はもう袈裟を身に着けてはいない。

 楚王・廬の宮殿群の光り輝く豪奢が描写される。つづいて、諸侯の絶え間ない朝貢。王者の権力と富。人としての極みである。しかし万民に等しく訪れる死、王とて例外ではない。王者に残された唯一の不如意、不老不死。わずかに王として出来ることは、時の歩みの遅からんを天に祈ること。かつての王者達の長生殿や不老門の構えに倣い、廬生は、白銀の山を東に築かせ其処に不動の黄金の太陽を掲げ、西の黄金の山には不動の白金の月を配した。時の運行を留める願いである。しかし、容赦なく在位五十年の時は過ぎ去り、楚王・廬生は老境に居る。

 在位五十年の祝宴。不老長寿の仙薬に擬した酒を廬生は飲む。飲むほどに酔いはまわり、王者の威儀はものかは、廬生は右肩を脱いでしまう。興に乗じて舞を舞う廬生。大宮殿を狭しと舞う廬生。
 この廬大王の舞う楽の大部分は一畳台引立大宮のなかで舞われる。常は六メートル四方の本舞台で足拍子面白く、大きく伸びやかに舞われるのだが、能『邯鄲』では一畳台(横一メートル縦二メートル)、つまり通常の十八分の一の面積で王者の悠揚迫らざる舞が舞われなければならない。しかも一畳台には屋根を支える四本の柱があり、屋根まで被っているのだ。この狭い空間が逆に無限の広さを表現する。額縁効果。
 舞うほどに酔いはまわり、出来上る廬生。俗に、羽化登仙とは酒に酔って気持の良くなる事を言う。鹿爪らしく言えば仙人となって仙界に登る事である、羽化登仙。仙人の仙は山に住む人を意味しているが、僊が本義で、舞うさま、上昇の意である。廬生は酒によって羽化登仙し、舞うことによって本義の羽化登仙を果す。しかし彼はまだ自分が羽化登仙したことに気付かない。

 最高位の仙人は天仙といわれ、空中を浮遊し、天上界に住むという。浮遊昇天には竜に乗る者、鶴、虎、鳳凰、雲等、瑞兆ある物に乗る例が多い。身体がそのまま宙に浮いて昇天を果す者もいるという。
 廬生の場合はどうか。廬生は彼の宮殿で舞い続けている。

 私のとぼしい経験からすると、能『邯鄲』が出るときは、そのもどき・二の舞として狂言では『雷』が演ぜられる事が多い。落ちた拍子に腰を痛めた雷様が、鍼治療の礼として今後旱魃や水害を起さぬと約束し、地上を祝福する狂言である。この雷様は落ちてやろうと落雷したのではない。雲から足を踏外して地上へ落ちてしまったのだ。能より先にこの狂言がでると意味がとりにくいのだが、能の後で演られると明解である。雷様は足を踏外して落ちてしまったが、柱にしがみつき危うく落下をまぬがれたのは廬生である。
 楽の途中に「空下り」といわれる型がある。
 舞の最中に廬生はよろめき、足を踏外してしまう。何故か。廬生の宮殿が揺らいだのだ。そして廬生は気がつく。宮殿が宙に浮き、それに乗って自分も空を飛んでいる事に。権力も財力も自家薬籠中のものとした廬生が人として果し得なかった夢、不老不死をとうとう手に入れたのだ。彼は遷化し、人を超した者、仙人となったのである。宮殿は彼を乗せて、仙界に飛昇するだろう。
 「空下り」の解説に、夢を見ていて一瞬ハッとするとか、一瞬目覚めかけるとか、眠りが一時的に浅くなるとか、レム睡眠を表しているなどとあるが、廬生の眠りの生理を説明したことになっても、それはこの作品における「空下り」の必然を、廬生の夢の必然を説明したことにはならない。廬生の宮殿が宙に浮く瞬間の衝撃か。空中楼閣たる廬生の宮殿が一陣の風に煽られて傾いたのか。廬生は足を踏外してしまう。その時彼は自身が羽化登仙した事実に気付くのだ。
 夢の地上世界に取残された廷臣達の時は止ってしまったのか、廬王の喪に服しているのか、葬儀式に列して居るのか、今の廬生の眼には彼らは存在しない。

 廬生は仙界という異次元世界の住人となる。仙界は物理現象を否定した世界である。重力を否定し、時を否定する。空間も歪んでしまい、そこは万華鏡の世界。

     喜びの歌を謡う夜もすがら
    謡う夜もすがら
    日は又出て明きらけくなり
    夜かと思えば昼になり
    昼かと思えば月またさやけし
    春の花咲けば紅葉も色濃く
    夏かと思えば雪も降りて
    四季折々は目の前にて
    春夏秋冬万木千草も一日に花咲けり
    面白や不思議やな

 仙界に降り立ったばかりの廬生の第一声は「何時までぞ」との危惧と不安の念であった。しかし直ちに彼はそれを否定する。「栄華の春も常磐にて、なほ幾久し有明の月」と。そして彼は喜びの歌を謡い、「四季折々は目の前にて、春夏秋冬万木千草も一日に花咲けり」の世界を楽しむのである。

 しかし、廬生の危惧と不安は当たった。超高速にせよ、超微速にせよ、時は動いていたのだ。酒の酔いは醒める時がくる。夢は、眠りは覚まされる時がくる。廬生の一睡は、粟飯の炊けるまで、粟飯一炊の間なのだ。寝につく前、旅籠屋の女主人は廬生の為に粟の飯を炊くと言った。それが炊き上がったのだ。女達の立ち騒ぐ気配がする。熱々を供そうと女主人が足早にやって来る。登極から空下りまでは寝台を離れることのなかった廬生は、空下りを契機に、今、寝台の外に居る。
 この件までくると私はとても不安になる。廬生の肉体は寝台にあって、魂は浮遊している。魂が自己の肉体に帰る前に女主人に起こされてしまったなら、魂はどうなるだろうか。帰る所を失い、永遠に中有をさまよい続けなければならないだろう。夢を追い、夢の中にありたい廬生と、足早にやってくる女主人と。何故か私はここがとても怖い。
 目覚め、夢の世界から自己を取り戻すまでのたゆたいの時間は寂しい。賑々しく鳴り響いていた太鼓の音は消えてしまった。廷臣達も消え、女主人も行ってしまった。あれほど事の多かった舞台には、今は廬生がただ独り、つくねんと褥の上に居る。邯鄲の枕での一睡の夢は、粟飯の一炊の間に過ぎない。五十年の最高の権力と財力とても生きてみれば、それは一場の夢に過ぎない。その儚きものに執着する無意味さ。如何なる生にあろうと、この世は夢であると開き直った時点で得られる安心。迷いの境地を離れるのに、たとえそれが羊飛山の尊い僧であろうと、人に頼ろうとした自分の愚かさ。夢という今一つの現実の世界に入ったとき、現実という今一つの夢に目覚めたのだ。その機縁となったこの邯鄲の枕は有り難いと、廬生はこの世に甦るのだ。

 王位にあった五十年の夢の記憶は廬生には定かである。しかし、仙界での記憶が彼の脳裏から失われてしまっているのは何故か。能の舞台面で廬生が華々しく生きるのは仙界においてだけである。王位にある時は、宮殿、あるいは玉座と目される旅籠屋の寝台から出ることはなかったのである。仙薬に擬した酒に酔った時、仙界に彼が居たとき、彼は寝台から下りたのだ。そして思いのまま動いたのだ。その時の記憶が欠落している。しかし、観客である私達は、その時彼が活き活きとしていたのを知っている。私達だけの心に残り、当の本人からは失われてしまっている。このはかなさは切ない。
 酒好きの友人に尋ねたことがある。夢のなかで酒を飲んで夢のなかで酔っぱらってしまったことがあるかと。彼は笑って答えなかったのだが、夢という酔いに、酒の酔いを重ねるのだから、これはさぞ強烈であろう。泥酔して梯子をして、幾駅も乗り継いで無事御帰館の酒飲みがいる。何処をどうたどって、どの様にして今ここに居るのか。彼に分かるのは、現にここにこうして居るという事だけである。彼と行を共にした友人が居るならば、その友人は、彼の極楽での生き様の証人足りうるだろう。彼の日常との落差。彼の生の時間から消えてしまっている、彼の本当に生きた時間。これが廬生の仙界体験である。

    『金剛般若経』
     一切有為法   如夢幻泡影   如露亦如電   応作如是閑

  (人が生きてある事は、不変の絶対的存在ではない。夢、幻、泡、光の如く、露の如く、電光の如きもの。その様なものと心得よ)

 邯鄲の旅籠屋で炊かれたものは黍や黄粱であった。「黄粱一炊夢」である。黄粱とは、おおあわ、上等の粟である。能『邯鄲』では、「こうりょう」ではなく、たんに「あわ」と言う。旅籠屋の女主人は明確に「あわのおだい(粟の御台)」と何度か言うのだ。宿へ案内を乞うたとき廬生は自分のことを「りょじん(旅人)」音でいい、訓の「たひびと」とも「たびのもの」とも言わないのだが、これは唐物を意識しての発音である。この配慮があるのに、女主人は「粟」と言い、「黄粱」と言わない。これは漢語の使い手を貴とし、和語のそれを庶としようとの演出があろうが、それだけではない。上に掲げた『金剛般若経』のはかないもの泡(あわ)に呼応しての粟(あわ)なのである。
 淡いもの。儚いもの。
 「浮き世。夢路。人間。雲路。旅衣。野くれ、山くれ、里くれて。旅人。一睡。夢の告げ。一村雨。雨宿り。中宿。仮寝の夢。夕露。光輝く玉。白雲。光も満ち。光を飾る。寂光の都。喜見城(蜃気楼・空中楼閣)。らい(礼・籟・雷)の声。雲の羽袖。松風の音。仮の宿。粟飯。一炊。夢の世」。
 確たるものもなく、足が地につかない。
 「浮き世。迷う。夢路。何時。茫然。まことや。羊飛山。其処としもない。野くれ、山くれ、里くれて。名にのみ聞く。旅宿。一夜の宿を借りる。一睡。夢の告げ。一村雨。雨宿り。中宿。仮寝の夢。天にも上がる。夢とはしら(知・白)雲。雲の上人。雲の上。何時までぞ。雲の羽袖。栄華も尽きて。皆消え消えと。眠り。夢は覚め」。

 不安で不確かであるのが、この世である。それが浮世(ふせい)であると、廬生は安心する。村雨は松風を呼び、雨上がりの松籟の中を、羊飛山を頼む必要のなくなった廬生は故郷への帰路に就く。またもし迷いが生じても、今度は決然と歩み続けるだろう。酒宴での乱れた姿と見えた右肩脱ぎも、今は求法者の証の右肩脱ぎである。廬生の姿は橋掛りの幕の向こうへ去って行く。

 仙界の宮殿・玉座であり、楚王の宮殿・玉座であり、邯鄲の旅籠屋の寝台であった一畳台引立て大宮がそれを見送って居る。囃子方、地謡方もまだ座を立たない。引立て大宮が元のように一畳台の上に畳まれ、橋掛りを静かに去って行く。この一畳台への懐かしさはどうしたことだ。
 笛が立ち、橋掛りへと歩む。小鼓、大鼓、太鼓と去って行く。地謡もここを去るだろう。何もなくなってしまった舞台が空虚に残される。

 廬生の旅を舞台の経過に従って見てきたが、いまいちど地名の問題を顧みよう。蜀・楚・邯鄲はそれなりに場所を比定する事が出来、その結果を受けて迷走とも言えるこの大三角形は廬生の迷いの表現と意味づけはなされた。しかし、羊飛山とは楚國のどこにあるのだろうか。ほとんどの注釈は所在不明としているが、『謡曲拾葉抄』と、それを引用する『謡曲大観』は?州府にあるとしている。
 『謡曲拾葉抄』が引くのは『大明一統志・七十巻』である。「四川?州府羊飛山在萬縣西南五十里」と。?州府の東方には白帝城、北方に臥龍山とは知られた事だが、『大明一統志・七十巻』によれば羊飛山は西南にあるという。所在を地図上に確認する時を有さないのは残念である。しかしとりあえず四川?州府付近にあるとせば、成都からは岷江を長江との合流点まで下り、今度は長江を下ればよい。重慶と巴東との中間、沙市よりも、巴東よりもずっと手前である。私は先に、地理上の不可解を廬生の昏迷振りを示すものとして述べて置いた。羊飛山についても同じ事が言えよう。
 『列仙伝』によれば、葛由という仙人は羊で飛行したらしい。又、「雙飛常羊」とは逍遙の事であり、羊を供に屈託無く散策を楽しみ自適する意である。仙界、桃源郷である。荘子は『逍遙遊扁』を巻頭として始まることに留意しておこう。このように地名は事実であるという呪縛から解放してみると、他にも見えてくる事がある。もっともらしく、具体的で事実めかした地名の意味は何か。空虚な舞台を前にしたとき気付くのだが、廬生の目指した旅は「色・しょく」の國から、自力による「蘇・そ」の國へということになる。
 即ち、「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」の安心である。
 即ち、「一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 応作如是閑」の悟りである。

 能『邯鄲』でロセイを私が演るならば、私はまだれの廬の廬生を演るだろう。道に迷える魂は一時人の肉体を仮りの宿りとしている。仮住いの人との意の廬生こそ、さまよい続ける人そのものであるからだ。人生即旅なのである。肉体という仮の宿りにやどる魂が、邯鄲の旅舎・仮の宿にやどるのである。その意味でロセイは個人の名前ではなく、求道の人々を一般的に指すものと私は理解する。暗い、光明を得ていない意の盧生よりも、能『邯鄲』の 内的必然性から私はロセイを廬生と理解するのだ。
 そして、密林を彷徨い続け、疲れ果て、退きて帰らんとした求道者の眼前に、忽然として現れた幻の城を描写するのは『妙法蓮華経化城喩品第七』。廬生にとっての邯鄲の仮の宿りはまさにこれであり、廬生自身も仮廬(かりいほ)の人なのである。

     道遠み 中空にてや 帰らまし
             思へば仮の 宿ぞうれしき

                        『後拾遺集』釈教
                                 康資王母