世阿弥『至花道』より意訳
        体用について

 能の表現は「体用の理」に基盤がある。
 譬えるならば、体は花、用はその花の匂い。又は、月と月影だ。
 作品の中に、その作の生命である体をしっかり見極めさえすれば、用は自ずとそこにあるものだ。

 演技者の立場で能を見るとき、「体用の理」を知る者は心で見、知らぬ者は目で見る。心だ見るとは体を見るのであり、目で見るとは用を見ることである。
 意識程度の低い者は目に見えた表面的なもの用を真似て、それが演技だと自負してしまう。「体用の理」を知らないからだが、用を似せることが不可なるは、「体用の理」からして明白である。「用は似すべからず」なのだ。おなじ真似るでも、表現というものを理解している者は心で見るから体を学ぶ。体を似すれば用は自ずと発現する。
 これを知らぬ者は表現とは用のことだと思い、用を真似る。本来体が占める場所に誤って用を置いてしまうことにより、理に捻れが生ずる。その結果体も用も無くなり演技とは言えないものになってしまう。彼の舞台は場当りで支離滅裂のものとなってしまう。

 便宜上、体・用と二分して話をすすめてきたが、体が無ければ用は存在しない。用そのものには体はないのだから、似せようがない。用は体にあり、別にはないのだから、体とは無関係に用そのものを似せることは無意味である。この経緯をわきまえている者こそ、表現のなんたるかを知る者である。
 「用をば似すべき理のなければ似すべからず。体を似するこそすなはち用を似するにて」と、この言葉を肝に銘じておくべきだ。

 くどいようだが、体用を倒錯してはいけない。真似るなら体用をはっきりと識別したうえでの事だ。
 「似せたきは上手」の体、「似すまじきは上手」の用と言われている。表面を真似たまがいものになるか、心を真似た本物になるか。「似するは用、似たるは体」である。