わけの分からない主張

 

以下はある新聞に掲載された投書です。これを読んでどう感じるでしょうか?

「ルーズソックスを履いている君たちに、個性はあるのか」というある先生の言葉を耳にした。それでは、その個性を私たち生徒に失わせたのは、いったい、誰なのかと問いたい。

「くだらない漫画など読むな」「テレビを見る時間があったら勉強しなさい」としかる。こんな「右向け右」の教育を押しつけてきたのは、あなたたち一部の教師ではないのか。

茶髪でピアスをした人間が作るこれからの社会に不安を感じるという。けれど、机にかじりつき、レベルの高い学校を目指して、ひたすら勉強してきた人間の作る社会が立派だと、果たして言えるだろうか。日本の社会の現状を見る限り、そうとは言い切れないだろう。

そもそも、小さいころから忙しすぎるのだ。塾や習い事でしばられ、時間的ゆとりが削りとられた日常生活から得られるものとは何なのか。

部活動の時間に、野外トレーニングで腹筋運動をしていた時、ふと空を見上げた。澄んだ青い空に真っ白な雲が流れていた。雲の流れをゆっくりと眺めたのは、何年ぶりのことだろう。

何となく同意できる人も多いかもしれません。この投書が現在の高校生の一部の意見を代表していると、見なしたから編集部はこの投書を掲載したのでしょうから。しかし、残念ながら、自己の意見を論理的に主張するすべを身につけていないので、わかりずらく、穴だらけの主張になってしまっています。(ここでは主張の正当性ではなく、論理性を問題としており、筆者は投書者の意見に反対しているわけではありません)

まず最大の問題は、この短い投書の中に投書者は3つも意見を述べていることです。

このため、話が分散してしまい、投書者が何をいわんとしているのか良くわからなくなってしまっています。

さらに、「だからなんなのか」が書かれていないため、読者のほうで勝手に投書者の真意を推測せざる得ず、主張がわかりにくくなっています。(自己の意見を明確に主張しないのは日本人の悪い癖です)。

一部の教師の「右向け右」の教育が高校生から個性を失わせた。だから、

ひたすら勉強してきた人間の作る社会が、茶髪でピアスをした人間が作るこれからの社会より立派とはいえない。だから、

塾や習い事で小さいときから忙しすぎる。だから、

また、3つの主張に共通する考えが無く、3つがばらばらになっています。このため、3つ合わせて何がいいたいのかわからず、散漫な文章となっています。ただ、文句を羅列しているのに等しいといえます。

さらに、最後の白い雲の話は、何を言いたいのでしょう。流れる雲をゆっくり見たことが無いほど暇が無いと言いたいのでしょうか?だとしたら、やはりだから何だという疑問がわきます。意見文には文学的な表現を入れる必要はありません。ただ論理的に意見を述べればよいのです。

論理的に考え、その考えを論理的に伝える方法を学ばなければ、このように何がいいたいのかさっぱりわからない文章となってしまいます。しかし、現在の中学高校の国語教育(もちろん大学以降の教育においても)では、論理的に考え、論理的に伝える方法を学ぶことはほとんどありません。ディベートを学ぶことにより、この方法を学び実践することができるのです。

なお、先の投書は、投書者が何をいいたいのかわからないので、論理的に書き替えることもできません。