ディベートを学ぶと感情的なもつれが生じるか

1998.3.7 文責:倉島

ディベートや議論の仕方を学ぼうとしたり、学ばせようとすると、『勝ち負けにこだわる結果、ディベーターどうしで感情的なしこりが残る』と言って、反対する人がいます。しかし、ディベートで議論を戦わせても、スポーツやゲームをするときと同じように、指導者が配慮すれば『感情的なしこりが残る』ことはありません。

なぜなら、ディベートはルールに基づいており、負けても納得がいくからです。これは、ゲームやスポーツと同じと言えるでしょう。ゲームやスポーツをする場合、指導者が適切な指導をすれば、感情的なしこりが残ることはありません。これと同じように、ゲームやスポーツをやるときと同じような配慮をすれば、ディベートでも感情的なしこりが残ることはないのです。それでも、感情的しこりを危惧するなら、すべてのゲームやスポーツを禁止しなくてはならなくなってしまいます。

それでは、スポーツやゲームと同じく、指導者がすべき適切な指導とは何でしょう?それには以下の3つが考えられます。

このうち1と2は、ディベータが大人であれば問題ありません。また、ディベーターが中学、高校の学生で、指導者が教師(もしくはそれに準ずるもの)なら、指導者もこの手の指導はお手のものであり、何の心配もいらないでしょう。ディベーターが中学、高校の学生で、指導者が上述の指導ができない者ということは、基本的には考えにくいです。したがって、1と2はほとんど問題とはならないでしょう。

3のケースでは、その不満はジャッジに向けられます。したがって、ディベーターどうしでの感情的なしこりとはなりません。これは、ちょうど、フィギュアスケートやボクシングでの採点に不満がある場合に似ています。不満の対象はジャッジであり、競い合った他の選手ではありません。

3のケースでの感情的しこり(ジャッジに対する不満)を防ぐには、ジャッジがディベートに習熟しており、誰もが納得のいく根拠をもって判定を下す必要があります。スポーツの判定と同様に、納得いく根拠があれば、負けても感情的なもつれは生じません。(負けて悔しいという気持ちは残るでしょうが、これはスポーツも同じです)

このように、ディベートとスポーツは極めて似ているのに、なぜディベートだけ、感情的なもつれを心配する声が上がるのでしょうか? それは、スポーツでは通常、専門家が指導するのに対して、ディベートでは、本を数冊読んだだけの全くの素人が指導することがあるからです。もちろん納得のいく根拠をもって、判定を下せるはずもありません。したがって、感情的なしこり(この場合はジャッジに対して)が残り、ディベートによい印象をもたなくなる者もでてくるでしょう。

ディベートは、ディベートを何試合も経験した人でなければ指導できません。本を読んだだけで泳いだことがない人が水泳を指導できないのと同じです。安易な指導をすれば間違った効果を生みますので、指導者は十分注意してもらいたいものです。