相手を変えるか、自分が変わるか

1997.11.28 文責:別所

ディベートの大会に、参加者、審査員、運営側と、ここのところ関わりが多い、そこで少し感じた審査員と参加者の関係を取り上げてみたい。

こんなことはないだろうか、ディベーターとして参加して、自分としてはパーフェクトな議論をすることが出来たが、審査員の好評はボロボロであった。あるいは相手側の議論は貧弱で取るに足りないものとして扱ったが、審査員は重要と捉えていた。こんなコメントを聞いたときは、「(審査員は)一体何を聞いているんだ」とか、ましてやそれが理由で勝負に負けたと聞けば、「あれで取れないようでは審査員失格ではないのか」など。

確かに審査員も人の子、勘違いもあれば、判断ミスもあるだろう。それ故複数名での審査や事前の審査員事前会議を行い、最大限ミスの努力をしている。ではミスや勘違いではなく意見が対立したときにどうするのだろうか、大会運営委員会に文句を付けるのであろうか。それとも友人やチームメイトで愚痴をいいあうのであろうか。

私が申し上げたいのは、まず聞くことである。なぜそのように審査員は取ったのか?自分たちの議論のどこの部分は受け取られて、どこの部分は受け入れられなかったのか。一つひとつを論理的に確認していくことが、一番重要であろう。

この議論は受け入れられないと聞くと、人は感情的になるものである。議論は自分自身の延長であるのだ。これを心理学用語で「拡張自我」という。拡張自我は、何も特別なものではない。そのひとの、「服装」「髪型」「筆記具」「本」「車」「出身校」など所有権のあるもの、あるいはゆかりの深いものも含まれる。

例えば、貸した本をポンと投げて返されたら、自分が粗末に扱われた用に感じるし、ましてや気に入っている内容なのに、「くだらないないようだった」などとつけ加え、投げ返されたならば、外見平静でも、はらわたは煮えくり返って2度と本など貸すか、という気分になる。

これが、ディベートの試合でも起こるのである。自分たちの議論が受け入れられなかったときは、同じように感情的になるのである。もちろんディベートの試合では、自分たちの議論が全て受け入れられるわけではない。それ故、ある程度の感情の起伏はあるにしても、ぐっとこらえて、論理性を持って一つひとつ内容にあたって欲しい。

ディベーターには、判定の理由を聞く権利があるし、もちろん審判は説明の義務がある。時としてディベーターが判定の理由を聞く時に、自分たちの議論を認めさせようとする質問が目に付く。自分の考えを押しつけようとする傾向が多い。この手の形式は、試合中の反対尋問にお願いするとして、審判に理由を聞くときは、「違い」と「合意点」をまず確認して欲しい。そして「どうすれば審判は納得するのか」という観点で質問をして欲しい。

どうしても納得がいかないと、自分の感情を吐露し続けたのでは、よりよいコミュニケーションを目指すどころか、相手に自分のロジックや価値観を押しつけようとしているにすぎない。ましてや、チームメイトや顧問の先生に「あのジャッジはおかしい」といっているようでは、一向に進歩しない。原則として質問は、「その場で」、「直接」、「具体的に」することが望ましい。

蛇足だが、試合に負けると、どこか別のところで「自分を認めて欲しい」という心理状態になる。チームメイトや顧問の先生に「あのジャッジはおかしい」といい、「そのとおり」という言葉を期待している。その場で認められれば、心理的に満たされるが、認められなかったら、別の人に同じことをする。これを心理学用語で「補償行為」という。こんなことはないだろうか。アドラーの理論を借りれば、人間の心理段階は次の5つの段間がある。

所属欲求と行動の変化(アドラー心理学より)
 1 賞賛を求める行動(補償を求める)
 2 注目を引く行動
 3 権力闘争
 4 復讐を試みる
 5 無気力となる(アパシー)

2の注目を引く行動とは、「大声を上げる」「会場のドアをばたんと大きなお音を立ててしめる」などがある。
3権力闘争とは、あいつの言うことは、何をいっても絶対聞かない。はいといってやらない。
4復習を試みるとは、相手のマイナスになる行動をすることである。
5アパシーとは何もする気にならないと言う末期症状である。

自分の心理状態をセルフモニターしてみたらいかがであろうか?

 

まとめ

少々話が脱線してしまったが、ディベートの試合では、自分の感情はひとまず棚上げして、何でも学ぼうというスタンスで望むことが良いのではないだろうか?自分のことだけを考えたり、論理を押しつけることなく、相手も気持ちも考えて行動しないと、せっかくの学ぶ機会を損なってしまうだろう。