トニー・ゼール

Tony Zale

 

   トニー・ゼールは“鋼の男(マン・オブ・スティール)”と呼ばれた。生まれ故郷のインディアナ州ゲイリーにいた頃、製鉄所で働いていたからだが、これほどゼールの真価を言い表した言葉はないだろう。

 鋼の耐久力はしなやかな強さだ。どれほど曲げられても、それをはねかえすような力で元に戻ろうとする。「焼き」が入ると、なお一層強くなる。ゼールもまた、そんなファイターだった。打ちのめされることもあった。敗れたことも。しかし、そのたびに立ち上がり、より一層の強さを見せつけたのである。

 ゼールがボクシングを始めたのは、1920年代の終わり、シカゴの小さなクラブでだった。アマチュアと言っても、ようするにどさ回りの見世物だ。観客の求めるものは、豪快なパンチをくり出すことと、相手のパンチに耐えることだ。ゼールはその両方ができた。95勝50KO8敗という好レコードを作り、地元のプロモーターに注目されたゼールは、21歳の誕生日の前日、4回判定勝ちでプロデビューを飾った。

 デビュー以来無敗の9連勝と、快調に見えたゼールのプロキャリアだが、突然壁に突き当たった。続く17試合だけで9敗を喫してしまう。もうけを焦ったプロモーターたちがゼールを1年に23回もリングに上げたのもその理由のひとつだろうが、やはり、「殴られたら殴り返す」式の田舎拳闘では、上等なボクサーたちにはなかなか勝てなかったのだ。

 デビューの翌年にも3連敗を喫したゼールは、リングに上がるのが嫌になってしまった。その後2年間で試合をしたのはわずかに一度(引き分け)だけ。鉄は原石のまま埋もれようとしていた……。

 そんなゼールに声をかけたのが、マネジャーのサム・パイアンとトレーナーのアート・ウィンチのコンビ。バーニー・ロスを世界の頂点に導いたペアに見込まれて、ゼールは「俺にもまだ何かができるかもしれない」とその気になったという。

 パイアンの適切なトレーニングとウィンチのマッチメークによって、“鋼鉄”は次第に鍛え上げられていった。カムバックして2年半後の40年、ゼールは世界ミドル級タイトルマッチのリングに立っていた。王者は豪打者アル・ホスタックだったが、すでに一度ノンタイトル戦で勝っているゼールは自身満々。今度は13回ノックアウトにしとめた。

 ついに世界王座についたゼールだったが、時はまさに第二次世界大戦の真っ只中。3度目の防衛戦を最後に、ゼールはリングから本物の戦場へと赴いていった。世界ミドル級タイトルは“凍結”された――。

 終戦の翌年にリング復帰を果たしたとき、ゼールはすでに32歳になっていた。ゼール不在のうちに、移り気なファンの関心は、若きダイナマイト・パンチャー、ロッキー・グラジアノに移ってしまっていた。凍結された王座を“解凍”するためには、ゼールはこの炎のファイターと戦う必要があったのである。

 46年9月ヤンキースタジアムで行なわれたゼール‐グラジアノ戦は、ファンの熱い期待をさらに超える歴史的な名勝負になった。試合は序盤から猛烈な打撃戦。初回にグラジアノ、3回にゼールがそれぞれ痛烈なダウンを喫したが、ともに立ち上がりなおも打ち合いを続けた。レフェリーの指示などお構いなしにひたすら殴り合った2人だが、やがてグラジアノが6回にマットに沈んだ。

 これほどの名勝負を演じたふたりをファンは放っておくはずがない。結局両雄は都合3度戦った。2度目はグラジアノが緒戦と同じ6回でゼールをキャンバスに崩壊させたが、ラバーマッチでは“鋼鉄”が3回KOで王座奪回を果たしている。

 9歳年下の天才パンチャーと45ラウンド戦った35歳のゼールには、もう力が残っていなかった。3度目の決戦の3ヶ月後、フランスの怪物マルセル・セルダンにKOされたゼールは、惜しげもなくリングを去っている。

●トニー・ゼール 1913年5月29日、インディアナ州ゲイリー生まれ、本名アンソニー・フロリアン・ゼールスキー。両親はポーランド系だった。34年ゴールデングローブで準優勝してプロ転向。41年、ホスタックに13回KO勝ちで世界ミドル級王座獲得。42年から46年まで兵役のためノンタイトル一試合のみ。46年のリング復帰後、48年までグラジアノと伝説的な3試合を戦った(2勝1敗)。戦績67勝44KO18敗2分。

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