ジェス・ウィラード

Jess Willard

 

   ルイス対グラントのような巨人同士の戦いを目の当たりにすると、タイソンやホリフィールドらの小兵は、なんだか気の毒に思えてくる。だが、ヘビー級はご承知の通り体重無制限。リミットなしに強いボクサーを決めるのがヘビーウェイトの特別な価値なのだ。“キング・オブ・キングス”と呼ばれたければ、どんな大男でも打ち倒さなければならない。

 レノックス・ルイスでさえ史上最巨漢王者ではない。ルイスよりもなお大きい、198センチと史上最長身のヘビー級王者が、今世紀初頭に活躍したジェス・ウィラードだ。このウィラード、単に大きいだけでなく、ボクシングの歴史の中でも重要な役割を演じたチャンピオンだった。

 王座防衛は1回だけだったが、初の黒人王者として大スキャンダルを巻き起こしたジャック・ジョンソンからヘビー級タイトルを奪い、ボクシング初の全米規模のスーパースターとなったジャック・デンプシーに王座を奪取されている。まさに歴史の巨大な門のような存在だった。

 1915年、当時の有力プロモーターのひとりだったジャック・カーレーが、当時33歳のウィラードに白羽の矢を立てた。すでに7年もの間、黒人ジョンソンがヘビー級王座に居座っていた。元名王者のジェフリーズも、ミドル級の帝王ケッチェルも、まるで歯が立たない。“グレート・ホワイトホープ”を求める白人たちの声はほとんどヒステリックなまでに高まっていた。

 試合がないときは牧場でカウボーイをしているウィラードは、朴訥でのんびりした男だったが、日々の労働で作り上げた体は見事なものがあった。「ジョンソンといえど人間、しかももう37歳だ。ジェスが体を生かしたファイトをすれば、チャンスはある」。カーレーは打倒ジョンソンのビジョンを描いた。

 ウィラードのスタイルはシンプルだが強力なものだった。2メートルのリーチは容易には相手の接近を許さず、逆に巨体から打ち下ろされる右ストレートは当たれば必倒の力があった。性格的にもあえてKOを狙いにいくタイプではなかったが、過去21勝のうち19度までもがノックアウト勝ちだ。

 運命のジョンソン戦はキューバのハバナで行われた。4月とはいえ、炎天下の屋外リングは大変な猛暑。しかしこれはウィラード陣営の狙い通りだった。この試合は、当時としても珍しい45ラウンドの契約で行われたのである。

 無論ジョンソンは序盤(45回戦の「序盤」が何回までかはともかく)のKOを狙って立ち上がりから積極的に攻めた。しかし、ウィラードは長い腕でジョンソンの攻撃を抑え込み、致命打を許さない。

 いつしか、試合は26ラウンドに入った。ジョンソンは足をもつれさせながらも必死にしかけるが、披露困憊だ。王者の集中力が一瞬途切れたのをウィラードは見逃さなかった。巨体をダイブさせるような豪快な右ストレートがジョンソンのアゴにきまる。たまらず崩れ落ちたジョンソンは、テンカウントを聞いた。

 のちにジョンソンは、「国外追放から解かれたくて、わざと倒れた」という衝撃的発言をして物議をかもしたが、フィルムを見ると、ウィラードの豪快な一撃が見事にヒットしており、とても八百長とは思えない。

 ついに打倒ジョンソンを果たしたウィラードは、待望の白人王者として時代の寵児となった。だが、サーカスの興行にゲスト出演するなどで高額の報酬がもらえたので、真剣試合からはとんと遠ざかってしまう。

 防衛戦はタイトル獲得後1年目にようやくフランク・モランと1度だけやったきり。17年、18年とまったく試合はしなかった。モラン戦でさえ、もともとKO以外は無判定の10回戦。内容的には押されっぱなしだったという。

 それでも、当時のファンが求めていたのは「ジョンソンをぶちのめした男」ウィラードその人であって、アクティブな世界チャンピオンではなかった。実際、大巨人に挑戦しようというボクサーもほとんどいなかった。

 だが、とうとう「打倒ウィラード」を公言する若者が現れた。マナッサ出身の元炭坑夫(その前はホームレスだった)、ジャック・デンプシーである。相棒のジャック・カーンズ・マネジャーも、当時は無名の若者であり、野望だけをぎらつかせていた。

 1919年7月、オハイオ州トレドでゴングは鳴った。巨象ウィラードに対し、デンプシーは185センチしかなかったが、勢いはまるで違った。なにしろ、デンプシーはこのとき全財産の27500ドルをすべて自分の「1ラウンドKO勝ち」に賭けていたのである。

 初回に全人生を賭けたデンプシーは、最初の左フックでウィラードのアゴを骨折させたのを手始めに、まさに「殺戮」と呼ぶべきパフォーマンスを見せ付けた。のちに歴史に残ることになる必殺左フックを受け、巨人は何度もマットに這った。7度目のダウンを喫したとき、ゴングが鳴った。デンプシーは狂喜してリングを降り、花道を引き上げようとした。

 だが、試合は終了したのではなく、ウィラードはゴングに救われたのだった。じつに惜しいところで全財産のかかった賭けに敗れたデンプシーも可哀相だったが、もっと気の毒なのは、その絶望的な怒りを全身で受け止めねばならなかったウィラードだ。試合は3回まで続き(やはりウィラードはタフなのだ)、前歯と肋骨が折れたウィラードをみかねたセコンドがタオルを2枚投げ込んだ。

●ジェス・ウィラード 1881年12月29日カンザス州ポタワトミー・カントリー生まれ。1911年デビュー。15年、ジョンソンに26回KO勝ちで世界ヘビー級王座獲得。1度防衛後、19年デンプシーに3回KO負けで王座転落。23年にカムバックを試みたが、ルイス・フィルポにKO負けで引退。24勝21KO6敗1分4無効試合。1968年12月15日ロザンゼルスで死去。

 

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