ジャーシー・ジョー・ウォルコット Jersey Joe Walcot

mario kumekawa

  ジョージ・フォアマンがマイケル・モーラーをKOする奇跡を起こすまでは、最年長での世界王座獲得はジャーシー・ジョー・ウォルコットの37歳6ヶ月だった。

 今でこそ30代後半の世界王者もめずらしくなくなったが、それにしてもウォルコットの下積みは長かった。世界初挑戦がデビュー後じつに17年後のこと、王座を奪取したのは21年目だった。

 ウォルコットの才能の開花は、けして遅くはなかった。元ライト級名選手で伝説的トレーナーのジャック・ブラックバーンは、まだ10代でウェルター級だったウォルコット(アーノルド・クリーム少年は、父親が大ファンだった世界ウェルター級王者の名前に故郷の“ジャージー”をかぶせてリングネームとしていた)の輝かしい才能を認めた。

 ブラックバーンのマンツーマンの指導のもと、たちまちのうちに当時の最高水準のテクニックを身につけたウォルコットだったが、デビュー直後の 30年代はとんでもない暗黒時代となった。おりしも成人男子の4人に1人が失業という大不況がアメリカを襲った。試合数は激減、しかもウォルコットは練習中に腕を骨折し、まったく稼げなくなる。31年から34年までで出場したのはわずか4試合。ウォルコットは家族を食べさせるために「どんな仕事でもした」。

 45年、第二次大戦が終わると、ウォルコットはようやく精力的に試合をこなせるようになり、しかもそのほとんどに勝った。すでに30歳を超えていたウォルコットだが、世界ランクもぐんぐん上昇し始めた。

 47年12月、ウォルコットが帝王ジョー・ルイスにはじめて挑戦した試合は、当初エキジビションとして組まれていた。後にL・ヘビー級の世界王者になる実力者ジョーイ・マキシムに勝ち越すなど存在をアピールしていたものの、もう33歳、一説にはそれ以上とも言われるウォルコットに何かを期待するファンや関係者はほとんどいなかったのである(ウォルコットの生年月日が定かではなかったため、各記者によって「33歳から45歳の間」、「50歳以下であることはたしか」などと好き勝手なことが言われていた)。

 プロモーターのマイク・ジェイコブスは、ルイス―ウォルコット戦では商売にならないと考え、エキジビションとして興行しようとしたのだが、ニューヨーク州コミッションは過去数年間好調を維持していたウォルコットの実績を認め、この試合を「世界戦」として挙行するよう強制したのである。

 結果としてはウォルコットは判定負けでタイトル奪取に失敗するのだが、このルイス戦がウォルコットの出世試合となった。

 じつに24度目の防衛戦となる王者の中の王者ルイスは、ウォルコットと同じ(?)33歳になってはいたが、一時のジョージ・フォアマンやマイク・タイソンと同様、不可侵のオーラに包まれており、 ルイスが破れる姿は誰にも想像できなかった。

 ところが、この額の禿げ上がったいかにも苦労人風の男は、そのめくるめくようなフットワークでルイスを手玉に取った。巧妙なスイッチ、バスケットボールのピボットのような体勢の入れ替えをめまぐるしく行ない、ルイス必殺の右ストレートが炸裂するタイミングを許さない。困惑したルイスの動きに隙ができると、毒針のように鋭い左フックが差し込んできた(のちにマルシアノをもマットに這わせたパンチだ)。

 初回、いきなりその左フックがルイスのアゴを叩き、史上最強の王者があっけなくマットに転がった。何かの間違いでは、とあっけにとられる観衆の前で、第4ラウンドにも同じ光景が再現された。

 1万8千人の大観衆は、自分たちが歴史的な場面に遭遇していることを自覚しはじめた。神様ジョー・ルイスを破るのは、驚異的な新人ボクサーではなく、ルイスと同年代の、顔に皺が刻み込まれたボクサーなのかもしれない……。  試合終盤、勝利を意識したウォルコットはアウトボクシングに徹した。必死に追うルイスをあざ笑うかのように軽快なステップを踏みながら、ウォルコットは試合終了ゴングを聞いた。

 ルイスはうつむいたまま、判定のアナウンスを待たずに、リングを降りていった。歴史的瞬間をかたずを飲んで待つ観衆――。しかし、オフィシャルの採点はスプリットながらルイスの防衛を支持していた。おそらく、ボクシングをよく知った(?)ジャッジたちは自分たちの目の前で起こっていたことが信じられなかったのだ。

 不運にも王座奪取はならなかったが、ウォルコットは「ルイス神話を打ち砕いた男」として、一躍トップボクサーとして踊り出た。

 だがそれでも、頂点はまだまだ 遠かった。半年後に行なわれたルイスとの再戦では、またも王者を苦しめたものの、11回KOで敗退した。気合を入れ直したルイスが一瞬の隙を突いた集中打でウォルコットを沈めたのだ。

 限界を悟ったルイスはこの試合の後(最初の)引退を発表した。ウォルコットは空位となった王座をエザード・チャールズと2度争ったが、これまた歴史的技巧戦の果てにともに判定で敗れた。

 もはやウォルコットの時代はない、と誰もが思った。しかし51年7月、3度目のチャールズ戦の第7ラウンド、ウォルコットの左フックがついに爆発した。ウォルコット生涯最高のパンチで、業師チャールズが深々とキャンバスに沈んだのだ。

 リング中央にひざまづき、神に感謝の祈りを捧げるウォルコット。21年目の奇跡の夜だった。

●ジャーシー・ジョー・ウォルコット 1914年1月31日米国ニュージャージー州生まれ。本名アーノルド・レイモンド・クリーム。1930年デビュー。]3度の長いブランクを経て、47年ルイスの世界ヘビー級王者に挑戦するが判定で惜敗。51年、チャールズへの3度目の挑戦で7回KO勝ちで世界ヘビー級王者に。1度防衛後、マルシアノにKO負けで王座を追われた。72戦53勝33KO18敗1分。


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