ジーン・タニー Gene Tunney

mario kumekawa

ニューヨーク・グリニッジビレッジの裕福な家庭に生まれたジェームズ・ジョゼフ・タニーは、11歳のときに「世界ヘビー級チャンピオンになろう」と決心し、両親にボクシング用品一式を買ってもらった。両親はどうせ子供の遊びと思っていたが、やがてジェームズは家族の猛反対を押し切って18歳でプロボクサーになってしまう。ジーン・タニーの誕生だった。

そんなタニーのボクシングは、不良少年のストリ−トファイトの延長線上にはけしてないものだった。彼はつねに知的な研究、勉強によって成長し続けるボクサーだったのだ。

184センチの身体にはがっしりとした筋肉が築き上げられてはいたが、飛びぬけたパワーや目の眩むような運動神経を見せつけるわけではなかった。ただ、優れた先輩ボクサーたちからリングの科学を学び取るどん欲さは、タニーを他から際立たせていた。ボクシング・スタイルの基本は、ミドル級の貴公子と呼ばれたマイク・ギボンスを見て習得した。ヘビー級にアウトボクシングを導入したとされるジェームズ・J・コーベットの伝記映画制作の際には、コーベットのスパーリングパートナー役を買って出て、当時の技術の精髄を体験した。

L・ヘビー級でキャリアをスタートさせたタニーは、その完全主義的なボクシングで快勝に次ぐ快勝。一気にトップボクサーへと上りつめていった。 だが、デビュー3年目、キャリアは思わぬ中断に見舞われる。無敗の13連勝をマークしたところだったタニーだが、米国海軍に徴兵されフランスの戦線へと送り込まれたのだ。1917年、第一次世界大戦が徐々に終局に向かおう、という時期だった。

タニーのレコードには、10ヶ月間の空白が出来ることになった。だが、実はタニーはこの間もボクシングを続けている。アマチュアとしてリングに上がったタニーは、在外米軍L・ヘビー級王者となり、特別試合では同ヘビー級王者をも打ち破り、米海軍最強の男として名を馳せたのである。いつしか人は彼のことをファイテング・マリーン≠ニ呼んでいた。

18年、戦争終結とともにプロのリングに戻ったタニーは、一段と精力的に戦いはじめる。最初の2年間でこなした試合がなんと23試合。ひとつだけ引き分けであとは全勝17KOという凄まじさだった。

勢いに乗るタニーは、22年1月にはベテラン、バトリング・レビンスキーに12回判定勝ちで全米L・ヘビー級王座も獲得している。

しかし、突如難敵が現れた。全米王座の初防衛戦の挑戦者として、ハリー・グレブが名乗りを上げたのだ。のちにミドル級世界王者となり、文豪ヘミングウェイに「最も偉大なアメリカ人」と称えられることになる伝説的強豪である。

22年5月23日、ニューヨークで両雄は初めてあいまみえた。自信を持って迎え撃ったタニーだが、グレブのケンカ殺法が挫折を知らない若者を打ち砕いた。

グレブの戦いぶりは、正規のものも反則もおりまぜてリングのテクニックの博物館だった。試合が始まるなり、グレブは狡猾にバッティング。タニーの鼻の骨を砕いた。激しく流れ落ちる鼻血に苦しむタニーを、グレブのダーティテクニックが襲う。頭を押さえつけての打撃、ホールディング、バッティング……。反則だけではない。タニーの集中力が途切れると、嵐のような連打が降り注いできた。

経験したことのない苦しい12ラウンドを耐え抜いたが、タニーは判定で敗れた。だが、これが後にも先にも立った一つの敗戦だった。グレブ戦でいたるところ負傷したタニーは、1週間の入院を余儀なくされたが、回復するとすぐに復讐のためのトレーニングに入った。

「グレブが自分よりも優れたファイターだとは思わない。勝つ方法は必ずあると思った」。そう言うタニーは、当時最もハイレベルのボクシング戦術家と言われた世界ライト級王者ベニー・レナードに教えを請うた。「グレブはありとあらゆる角度からパンチを出すために、ヒジが開くことが多い。そこを打ち込むといい。心臓めがけてな」(レナード)

「心臓ブロー」を練習し抜いたタニーは、再戦ではグレブの動きを抑えることに成功して王座奪回を果たす。結局タニーとグレブは5度戦い、タニーの2勝1敗1引き分けだった。25年5月に判定負けした後、グレブは「もう、タニーとやるのはヤメだ。奴の顔は見たくもないぜ」と言った。無双の豪傑グレブが、タニーを当代最高のボクサーと認めた瞬間だった。

翌年、タニーは7年間にわたって君臨してきたヘビー級王者ジャック・デンプシーを攻略した。天才的パワーヒッターデンプシーのブルファイトをタニーは見事にアウトボックスした。グレブとの試練で磨かれた技巧が、ユナニマスの判定勝ちをおさめたのである。

だがこの試合の1ヶ月後、グレブは目の手術の失敗でこの世を去った。世界ヘビー級王者となったタニーは、葬列の先頭でグレブの棺をかついでいる。

丸1年後、タニーはデンプシーとの再戦にも判定勝ちした。10回に痛烈なダウンを喫するピンチがあったが、興奮したデンプシーがニュートラルコーナーにさがらず、ロングカウントで命拾いする幸運もあった。

さらにもう一度だけ防衛戦をこなすと、タニーにはもはや思い残すことはなく、実業界に転じ、ビジネスマンとしても大きな成功を収めた。シェークスピアを愛読し、作家バーナード・ショーらとの交際を深めるタニーを「元ボクサー」とは信じられない人もいたという。

●ジーン・タニー 1897年5月25日ニューヨーク生まれ。本名ジェームズ・ジョゼフ・タニー。1915年デビュー。26年デンプシーに判定勝ちで世界ヘビー級王座獲得。1年後のリターンマッチでも判定勝ちした試合は「ロングカウント事件」としても有名。78年7月11日死去。65勝43KO1敗1分1無効試合8無判定。


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