「辰吉丈一郎 vs ウィラポン・ナコンルワンプロモーション」

by taka mimuro

 

 

 

初回の辰吉は見事だった。僕は僅差でウィラポンにポイントを付けたが、あの回の辰吉はあれでよかったのだと思う。

これまで、負ける試合の辰吉は決まって初回に素晴らしいボクシングをする。しかし素晴らしいというのはかなりの語弊であって、ポイントこそ奪っているものの、それは力でもぎ取ったものではなく相手にボクシングをさせない派手なスタイルで相手を圧倒しているものだ。失礼を承知で言えば、初回にだけ通用する戦法だ。

デビューから世界の頂点に立つ8戦目まで、辰吉は相手を圧倒するボクシングをみせてきた。いわゆる格の差をみせつけて勝ってきた。世界戦こそ手こずったもののデビュー8戦目の世界タイトル奪取は、充分に天才の証である。今でこそ聞かなくなったが、あの当時「天才」という言葉は辰吉丈一郎の枕詞だった。彼が自らのボクシングを作品と呼んだのもそれ故だろう。

前回のアヤラ戦でも辰吉は初回、天才的なボクシングを見せた。まるで格下の相手にスパーをするような、これから辰吉のKOショーが始まるとも言わんばかりだった。あの時の辰吉はここ何年間で最高の仕上がりだった。しかしそれは仇だ。初回、スピードあふれる辰吉は相手のボクシングを見極めることなく相手を撹乱した。そして当たり前だがアヤラはしたたかだった。辰吉のボクシングを耐え、分析し、徐々にコンビネーションにもスピードを乗せてきた。あの試合は辰吉の勝ちだが、負傷で終わらずに7回以降も続いていたら、辰吉の言うように7,8回あたりで彼はアヤラを圧倒出来ただろうか。

辰吉はコンディションを作るのが実に上手くなった。今回も前回同様のコンディションを作って臨むだろうと思われた。しかし調子の良い辰吉は、また1R開始ゴング直後から左のガードを下げ、目の覚める様なフリッカー・ジャブをヒットさせ、アリシャッフルを見せ、相手を格下扱いにするのか。これが怖かった。撹乱するボクシングで相手の戦力なぞ分析出来るはずがない。

 

 

しかしこの試合の初回は違っていた。辰吉はガードを上げ、早い左ジャブのみを突き続けた。プレッシャーをかけ、遠い距離から速いステップインでジャブを突いた。相手のジャブの距離を計りながら左へ回った。慎重にジャブを突いたおかげで、ウィラポンのストレートばりの威力の左ジャブの脅威も分析出来た。いきなり入ってくる右はさらに要注意なこともだ。

そして、スピードでは分が悪くともあくまで正攻法で(つまり左の制し合いから活路を見いだす)ウィラポンは、確かに速いリードブローを持っているが、リーチの長さ、そして踏み込み速さの差の分だけ辰吉が有利だということも確信出来たはずだ。

もし辰吉が、薬師寺戦で相手にそうされたように距離を保ち、両足と左手のスピードだけに焦点を絞り切れば充分勝機がある、そう思われた。戦前「同じ射程距離を持つ同士の戦い」と言われていたが、紙一重であっても拳一つだけ射程距離に差がある。相手より背が高く、身長よりもリーチが10センチも長いボクサーの申し子のような辰吉の体型が、この時とばかりに神からの贈り物になる。もしかしたら辰吉自らが「作品」と呼べる試合になりえるかも知れない、そう期待したのだが。

 

 

辰吉はウィラポンをどう分析したのだろう。2回に入ると、最初から強引に距離を詰め、力を込めたコンビネーションを打ちこみ出した。相手のパンチはガード出来るとふんだのか。それとも相手のパンチは貰っても大したことがないと読んだのか。それとも早くもKOを狙いに行ったのだろうか。

いずれにせよ、序盤でここまで強引にインに入って行く辰吉を観たことが無い。相手を見切ったというより、早いうちに一か八かの勝負に出る理由でもあったのか。

この回から辰吉は、攻めない時にも相手の距離に留まった。2回は辰吉がポイントを奪ったラウンドだが、攻めない時に射程距離内にいる辰吉は、優秀なジャバーにとって容易な標的に過ぎないという事実がこのラウンドの後半に早くも露呈してしまっている。

 

 

3回、ウィラポンはすでに見切ったようなパンチを当て始めた。渾身の力を込めずにバランスをとりながら多彩なコンビを放つ。辰吉が2回を強引に勝ち取った貯金はすぐに失われてしまった。

そして1分半過ぎ、綺麗な左ジャブを顔面に受けると、辰吉は「へっちゃら」とでも言わんばかりに両ガードを下げて顔を突きだした。戦慄の瞬間である。さすがに両腕ともすぐに上げたが、これはその20秒程後に食らう強烈な右ストレートの、そしてこの試合の結末の伏線となった。

 

 

それにしてもウィラポンは凄いボクサーだ。鍛え抜かれた肉体もさることながら、もっと鍛え抜かれていたのは精神だった。

初防衛戦は油断をしてポカを犯したと聞いていたが、それこそタイ人ボクサーにありがちな気の甘さだと思っていた。ムエタイからの転向では、あのセンサク・ムアンスリン以来のあっと驚くスピード出世だろうが、当時とは別、ここまで王座の乱立する現在だ。そこまで怪物ではあるまい、とタカをくくっていたのだ。しかも、30歳にして生まれて初めて経験する海外での試合だって相当の負担なはず。それも、辰吉ファンがもっとも気合いの入る本拠地、関西での試合なのだ。いくらラフな観客に馴れているとはいえ。

入場の花道でモミクチャにされながらも、本人から荒ぶった表情は全く読めない。リング下での長いクーリング・ダウンは確かに奇妙だったが、その時のウィラポンの表情からから何らかの感情を読みとることは不可能だった。怒りをコントロールする術に長けているのか。レジスタントの天才なのか。

しかし「あの儀式はむしろスタッフの怒りを鎮めるためだった」と試合中に知り仰天させられる。こんなタフなボクサーは聞いたことがない。辰吉は、大変な挑戦者を迎えてしまったものだ。

立ち上がりからの動きからウィラポンのコンディションの善し悪しは判断つかなかったが、スッタモンダのあった直後の初回において忍耐のボクシングに平気の平座で徹したことは、いよいよ精神的にタフな選手だということを明らかにした。

 

 

残念なのは、4回以降の辰吉の打つ手が無かったこと。余裕のウィラポンに対し、あくまで逆転KOを狙う辰吉。むろん彼は奇跡を起こす可能性を今でも持っているボクサーだが、力む辰吉のパンチは単発でウィラポンはますます多彩なコンビネーションを披露してゆく。パンチの強弱も見事で、空振りの後のフォローの素晴らしさは一連の史上グレートのそれすら連想させる。

しかし、あの時点でジャッジへの見場を落とさずにアウト・ボクシングに切り替えるテクニックを、辰吉丈一郎は持っていたはずではなかったか。脚を使い相手を戸惑わせ仕切り直しをすることは、可能ではなかったのか。おそらく辰吉はそれを試みた。そしてもはや、ボックス・アウトの脚を使うにはダメージを負いすぎていた。

 

 

世界王座に返り咲く前の辰吉には「ますます袋小路に陥る前に、そして壊れる前に、本人が諦めきれるような完全な敗戦を経験すること」がむしろ必要なのではないかと、自虐的に思っていた。誰かに引導を渡されることを辰吉自身が期待しているのでは、とすら思った。しかしその後の僕は、辰吉丈一郎の本当の凄まじさに圧倒されることになる。シリモンコンとの試合である。そして今回、「諦めきれる完敗」を喫した辰吉に、「これで良かった。これで壊れる前に引退出来る」などという想いは、なぜか沸いてこない。

試合後、タイ国から来た新チャンピオンは「観衆には問題があったが、辰吉自身は反則の無い立派なファイターだった」と称えた。辰吉丈一郎の頭の中に、劣勢においてクリンチを繰り返す自分の姿はありえまい。

ほんの5日前に、相手の肩をはずしローを打ち続け挙げ句には肘まで狙いながら結果的に飯田に完勝したヘスス・ロハスのようなボクサーは、辰吉丈一郎にはどう映ったのだろうか。


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