●ボクシングの色

「色」のないスポーツは無い。古代オリンピック以来の種目でも、今年初お目見え のものでも、発祥地、伝来の歴史、継承の物語、その他もろもろの要素がその競技 の「色」となって染みついている。 例えば、日本の野球の持つ色のひとつは、「 少年たちによる平和の儀式」だろう。半世紀前、戦場に若い命を散らせた若人たち を追悼しながら、今日の球児たちは野球を楽しめる平和に感謝し、それを見守る大 人たちも、いつまでも甲子園の祝典を守りたいと願うのである。したがって、球児 は「僧形」でなくてはならないし、試合を中断して戦没者に黙祷を捧げることも重 要なのだ。  野球の「平和」という色の裏側には、もちろん、圧倒的な力で日本に「現代」を もたらした「アメリカ」への憧れも貼りついている。陽気で逞しく、カラっと明る くハードワークする長島茂雄は、その胸毛と片言の日本語もあいまって、ほとんど 和製アメリカ人そのものである。ゆえに、ウルトラ東洋的な王貞治よりも人気があ るのだ。 その点、サッカーは複雑だ。英国発祥の球技だが、日本人にとりサッカ ーは明らかにラテンのスポーツだ。少年たちの大多数が憧れるのはブラジルやイタ リアのサッカーで、イギリスやドイツではない。KAZUは完全に正しいのである 。太平洋戦争の追憶やアメリカへの追従に疲れた日本人にとり、「非アメリカ」と して一番とっつきやすいのは、ケセラセラで、ちょっぴり危険な「ラテン」だ。J リーグ・サッカーの「色」は、「戦後=野球からの脱出」だろう。  かくして、ボクシングの「色」とは? よく「ハングリースポーツ」と言うが、 月謝は安くないし、日本王者でも食えない日本のリングに経済的な夢はほとんどな い。「あしたのジョー」に「あした」なんてこなかった。その代わり、矢吹丈は「 真っ白な灰」に燃えつきたんだっけ。  純然たる自己破壊。ボクシング記者がこんなこと書くのも変だけど、およそプロ ボクサーになることほど常軌を逸した行為はない。、けれども、飢えた時代も、変 に豊かな時代も、それぞれの仕方でボクシングを欲した。英国生まれ、米国育ちの この格闘技は不思議に透明である。