●ヒルベルト・セラーノ対坂本博之

 (WBA世界ライト級タイトルマッチ:3月9日・両国国技館)

ヒルベルト・セラーノ

30歳

18勝16KO4敗2分

坂本 博之

30歳

35勝25KO3敗

 

「みてごらん! この人はチャンピオンなんだよ! この顔、この雰囲気、このボクサーは世界チャンピオンになる男なんだ! 」
  今年2月、ビデオの画面に映し出されたインタビューを受ける坂本の姿を目にして、そう叫んだのは、他ならぬ具志堅用高氏であった。
  日本人として空前絶後の13連続世界防衛という記録を打ち立てた、チャンピオンの中のチャンピオンのひとり、具志堅氏が、過去2度世界挑戦に失敗し、すでに30歳となった坂本の姿を見るや、そう叫んだのである。

  僕は、『ワールドボクシング』誌で具志堅氏の連載を担当して、もう10年以上になる。だから、口上手とは言えないこの人がつまらぬ過大評価を口にする人ではないこと、そして天才的な直感の持ち主であることを知っている。具志堅氏は、僕が知る限り、他のどんなボクサーに対しても、こんな言い方をしたことはなかった。

  日本ボクシング全盛時代の最後の大きな華だった具志堅氏は、プロボクシングの世界チャンピオンというものを、単なる「最優秀選手」とは見ていないのだろう。そうだ、坂本博之はベルトを巻くだけの力がある「ボクサー」なのではなく、世界王者になるべき「人間」なのだ。それは、ボクサーとしての力量が抜群であるとか、稀有な才能の持ち主であるとか、そういうことでは必ずしもない。坂本が世界チャンピオンに「なるべき」なのは、ひとえに彼の「男」としての存在感そのものにかかわることなのだ。

  坂本はKO率はそこそこ高いが、世界レベルで言えば“キラー”と呼べるほどのパンチャーではない(浜田剛史や藤猛のほうがハードヒッターだろう)。スピードもけしてあるほうではない。テクニックが足りないことは、過去2試合の世界戦の敗退で見た通りだ。しかし、坂本は強い。それはもはや近代スポーツとしての「ボクシング」にはおさまりきれないほどに、ボクシングの本質に根ざした強さなのだ。

  たとえて言うなら、今世紀初頭のライト級なら、つまり当時のルールなら、坂本は超一流世界王者として「伝説」の存在となっていただろう。1910年代、ライト級はバトリング・ネルソン、アド・ウォルガスト、オーウェン・モランらの「石器人タイプ」の猛烈ファイターたちがしばしば20ラウンドを超える死闘を戦った。40ラウンド目でKO決着がついた試合も何度もあった。

それまでに、どちらが優勢であったかなど、どうでも良かったのだ。ライト級はヘビー級ではない。とりわけ今世紀初頭には、KOすることが限りなく不可能に近いボクサーが存在し得た。諸条件が許す限り試合を続け、最後に立っているファイターこそが「チャンピオン」だった。

  坂本博之もまた、どれほど打ちのめされようとも、「最後に立っているファイター」なのだ。しかし、安全と客観的な採点を旨とした現代ボクシングは、もはや坂本を“現代のウォルガスト”にしてくれなかった。12ラウンドで試合は打ち切られ、坂本の体をたくさん「触った」スティーブ・ジョンストンの手が上がった。

  ジョンストンにも、セサール・バサンにも、マルティン・コッジにも、坂本は負けてはいない。いや、無論近代スポーツの試合としては敗れた。だが、坂本にはかけらほども敗北感はなかったではないか。むしろ、ぐいぐいと追い上げ、タイトルホルダーたちのボディがネを上げ始めた時に試合終了のゴングがなってしまったため、坂本は「不可解な中断」に首をひねりながらリングを降りざるをえなかったのだ。

……こんなことは、坂本の試合を見たときにしか感じないことだ。僕は、現代ボクシングのルールを尊重する気持ちはある。しかし、坂本のファイトは、近代人の大脳皮質をえぐり、ボクシング草創期の古層からエンドレス・ウォリアーたちの霊魂を蘇らせるのである。

  坂本は小学生のとき、テレビでボクシングの世界チャンピオン(それが誰だったのかは、はっきり覚えていないらしい)を見て、「こんなにまばゆいほど光り輝く世界があるのか」と思ったと言う。それ以来、ボクサーになるという希望を胸に熱く抱きつづけていた。しかし、施設での暮らしをともにした実弟が高校を出るまでは、アルバイトに専念し、19歳でようやく拳にグローブを着けたのである。

  それまでの数年間、坂本はテレビであってもボクシングを見たことはない。「やれないのに、見たって苦しいだけですから」(坂本)。ボクシングに焦がれる思いを抱きつつも、それゆえにボクシングを拒絶する10代の年月が、坂本のボクサーとしての存在に比類なき「コトの重大さ」を付与したのだろう。この灼熱する沈黙の時代が、彼の肉体と魂にボクシングの本質を沈殿させたに違いない。

  坂本はある意味、浦島太郎だ。ボクシングを封印していた数年間の間に、彼の「中」のボクシングと、実際に行なわれているプロボクシングとの間に、奇妙なずれが生じていた。坂本少年が「これ以上ない」と思ったリングの輝きは、単なる「勝利」という形式を突き抜けて、本来あるべき「アルティメット・グローリー(究極の栄光)」としての「世界チャンピオン」という像に結晶してしまった。
  坂本はラウンドを10−9で取るなどということには、まったく関心を持てない人間であるはずだ。「打たれても倒れない」、「当たれば必ずぶっ倒れるパンチ」。それが、坂本にとって「チャンピオン」の持つべき属性だった。だから、100年前の拳豪たちの幻を呼び起こすのだ。

  ヒルベルト・セラーノは、好ボクサーだ。スピードも、パンチも、テクニックも、坂本よりはある。しかし、崔龍洙戦で後半スタミナ切れし、逆転KO負けを喫した彼が、たとえ「わずか」12ラウンドであろうとも、坂本の魂の風圧を耐え切れるだろうか。

  具志堅氏が言った通り、坂本は本質的な意味において、「チャンピオン」である。願わくば、彼の力が、現代ボクシングの形式にも多少なりとも一致してくれることを。
「WBA世界ライト級チャンピオン、坂本博之」。このコールを一度でも聞くことが、日本中のボクシング狂の共通の願いであるはずだ。

 


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