サンディ・サドラー Sundy Sadler 

mario kumekawa

 1955年7月8日、サンディ・サドラーはその漆黒の痩身を東京・後楽園球場に現わした。

 リングの対角線上には金子繁治がいた。日本はおろか、東洋無敵のラッシャー&スラッガー。白井義男に続き、世界の頂点を極めるボクサーはこの金子をおいて他にはあるまい、と思われていた。  だが試合開始のゴングが鳴ると、つめかけた観衆は衝撃的な光景を見せつけられることになる。

 黒蠍のような肉体を持つ世界フェザー級王者は、金子の突進を平然と受け止めると、凶悪なカーブを描く左右アッパーで日本人のアゴをえぐった。圧倒的な破壊力!金子持ち前の闘志とタフネスは、試合をより凄惨なものにする材料にしかならなかった。

 ノックアウトが宣せられる第6ラウンドまで金子は血しぶきを上げながら食い下がったが、まったく及ばなかった。球場を埋め尽くしたファンには、世界フェザー級チャンピオンの強さは万丈の高峰のように聳えたっているように見えたはずだ。

 だが、やがてあるニュースが伝わり、日本のボクシングファンは二重のショックを受けることになる。金子を血祭りに上げたわずか12日後(!)フィリピンはマニラに立ち寄ったサドラーが、当地の新鋭フラッシュ・エロルデに10回判定負けを喫したというのである。

 エロルデといえば、金子の好敵手ではないか。日本のリングにも上がり、ファンには馴染みの選手だ。金子をあれほど子供扱いしたサドラーが、エロルデには敗れるとは……。

 たしかに、剛直なファイター金子はサドラーの毒牙にもっともかかりやすいスタイルであっただろうし、比国伝統の柔軟なサウスポースタイルで戦うエロルデには、より番狂わせの可能性が与えられていただろう。

 しかしじつを言えば、サドラーは金子と対戦する直前には西海岸サクラメントで世界的には無名のジョー・ロペスと対戦し、これまた10回判定負けを喫していた。すでに5年間世界王座に君臨し続けていたサドラーだが、ノンタイトル戦での取りこぼしのない年はなかったのである。

 ただ、当時世界チャンピオンがノンタイトル戦で敗れるということは今ほど珍しいことではなかった。無名の新人が無冠戦でチャンピオンにひと泡吹かせ、それが認められて正式のタイトルマッチ挑戦、というようなストーリーがしばしば見られた時代だ。

 サドラーはノンタイトル戦を練習試合のように見なしていたのかもしれない。事実、エロルデを正式なチャレンジャーとして迎え撃った56年の防衛戦では、巧技の比国人を本来のパワーで圧倒、第13ラウンドで大の字に沈めている。  サドラーは驚異的なパンチングパワーと、それを急所にヒットさせる勘に優れていた。そして、デビュー2戦目を例外とすれば、12年間に162戦をたたかってKO負けがないという驚異的なタフネスをもっていた。

 べらぼうにパンチが強く、しかもそのヒット率が高く、かつ無類のタフネス。それだけで超一流ボクサーといって良いはずだ。だが、サドラーは当時正当には評価されなかったし、現在もその偉大さと強さが正しく認められているとはいえない。

 サドラーの「不遇」を如実に物語るのが、最大のライバル、ウィリー・ペップとの評価の違いである。「鬼火」と呼ばれた脅威のフットワーカー・ペップと、いずれも世界タイトルを賭けて4度戦い、サドラーは1勝3敗と勝ち越している。にもかかわらず、米国のボクシング史家たちは「相性、対戦時期の問題もある。総合的にはサドラーよりもペップが上」と評価することが多いのだ。

 ペップとサドラーはあらゆる意味で対照的だった。非力だがめくるめくフットワークを駆使する白人ペップに対し、肘打ち、頭突きなど反則技もおりまぜる乱戦に強く、一発で試合を終わらせることのできる黒人サドラー。また、ペップが63連勝、74連勝を記録するなどとにかく負けなかったのに対し、サドラーは先述のようにしばしば取りこぼしがあった。

 多くの無理解な人々の目には、サドラーは「ただパンチが強いだけ」の選手に見えた。洗練のきわみにあったペップのボクシングが荒っぽいサドラーに破壊されたことは、「ボクシングの衰退」にさえ思われたのだ。

 しかも、サドラー−ペップ戦は4試合とも(とりわけ第4戦は)歴史に悪名高いダーティファイトとなった。サドラーの手強さに舌を巻いたペップが、肘打ち、レスリング行為など、サドラーばりの反則技を導入してでも勝とうとしたのである。ペップのしかけにサドラーが応じ、試合は乱れに乱れてしまった。試合自体の評価が低ければ、その勝者の評価もおのずと知れてくる。

 また、サドラーは現役世界王者でありながら、52、53年の2年間を兵役のため棒に振っている。2度目の王座の初防衛戦も行うことなく、テディ・デービスを暫定王者に立てられてしまったのだ(55年にデービスに判定勝ちで王座吸収)。世界チャンピオンとして実績を積む時期を、兵役に奪われたこともサドラーの不運だった。

 だが、サドラーの不運はさらに続いた。56年、自動車事故で片目の視力がほとんど奪われた。結局サドラーは世界王者のまま引退を余儀なくされたのである。

 だが、サンディ・サドラーほど、ボクシングの本質を抽出して見せたファイターはいない。「拳で相手を打ち倒した者が強い」という、この単純至極な真理を。

  ●サンディ・サドラー 1926年6月23日マサチューセッツ州ボストン生まれ。本名ジョゼフ・サドラー。44年プロデビュー。48年10月、ウィリー・ペップに4回KO勝ちで世界フェザー級王座獲得。翌年、ペップに判定で雪辱を許したが、50年にはライバルを8回KOで王座を奪回。さらに4度目の対戦にも勝った。戦績144勝16敗2分。103KOはリング史上3位の大記録だ。


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