バーニー・ロス Barney Ross

mario kumekawa

「戦士」と呼ばれるのが最も似合うボクサーだった。

ウェルター級にしてはやや小柄な体格(170センチ)を好戦的に前傾させ、右と言わず左と言わず、間断なく叩きつけるスタイル。旺盛な闘志とスタミナに、トニー・カンゾネリ、ジミー・マクラーニン、セフェリノ・ガルシアといった30年代中量級のスーパースターたちが軍門に降った。バーニー・ロスはまさに戦う王者だった。

一打必倒のパンチャーではなかったが、とにかく鍛え上げられていた。嵐の連打だけでなく、柔らかな体を駆使したアウトボクシングもできた。硬軟の切り替えの絶妙さもロスの強みの一端だった。

伝説的トレーナー、レイ・アーセルも「ボクシングという学校の最高の生徒」と賞賛している。ロスの深みのある戦術は、ライバルたちを含む当時の多くのボクサーの注目を浴び、「ボクサーに人気のあるボクサー」でもあった。

10年間のプロキャリア、81戦のほとんどが真っ向から打ち合う激闘だったが、KO負けはおろかマットに片ひざたりとも触れたことはない。つねに強敵を求め、ライト、J・ウェルター(S・ライト)、ウェルターの3階級で世界王座についた。すべて統一王座、階級も9つしかなかった時代の3階級制覇である。その偉業の大きさにははかりしれないものがある。

本名はバーネット・デビッド・ロソフスキー、ニューヨークのゲットー生まれのロシア系ユダヤ人だ。両親は「ベリル」というユダヤ名も息子に与えていた。

ロスがまだ幼い頃、一家はシカゴの同じくゲットー(ユダヤ人街)に移り住み、肉屋を始めた。だが、ある日悲劇が襲う。2人組の強盗がこの肉屋に乱入し、「金を出せ!」と脅したのだ。ベーコン切りナイフに手を伸ばそうとした父親は射殺されてしまった。

長男だったバーネットは、父親のいない兄弟たちを養うためにはなんでもやった。アル・カポネの賭場の使い走りなどさえしていたことがあるという。だが19歳の時、「聖バレンタインデーの虐殺」と呼ばれる事件で、博徒たちがギャングに皆殺しにされるのを見て、「こんな街からは家族をつれ出さなくては」と決意した。

幸い、バーネットは優れたアマチュア・ボクサーだった。16歳で始めたボクシングはめきめき力を上げ、シカゴおよび都市対抗のゴールデングローブ大会でともに優勝に輝いたばかりだった。いつしか少年は、プロのリングで大金をかせぐことを夢想するようになっていた。

「うちの息子がプロボクサーだなんて……」としぶる母親を、バーネットは「普通の仕事よりもうんと良い稼ぎになるんだ。それに、もし、こてんぱんにやられるようなことがあったら、すぐに引退するからさ」と説得する。プライズファイター、バーニー・ロスの誕生だった。

ロスは母との約束を実行する必要はなかった。足かけ5年間でこなした50戦(!)で、敗れた試合はわずかに2つ。それも僅差の判定負けだった。

33年、世界ライト級とJ・ウェルター級2つの王座を同時に保持するトニー・カンゾネリに挑んだロスは、この大豪に判定で快勝。2つのベルトをいっぺんに手に入れた。ベニー・レナード以来ひさびさのユダヤ人スーパースターの出現だった。

ロスはライト級の防衛戦は行なわず、もっぱらJ・ウェルター級王者として活動した。4度の防衛に成功した後、ロスはさらに1階級上のウェルター級王者ジミー・マクラーニンへの挑戦を発表した。

これには当初「無謀」という声も強かった。ロスは元来ライト級の体格であるのに対し、マクラーニンはウェルター級屈指のスラッガーだ。パワーの差がありすぎる。

だが、ロスはパワーの不足を動きで激しい動きでおぎない、見事な試合を展開した。打ち合いつつアウトボックスする、持ち前の頭脳的なファイトでマクラーニン必殺の左フックを抑え込み、三階級制覇の偉業を達成したのだ。

ロスとマクラーニンはさらに2度戦い、2度目はマクラーニンが判定で王座奪回。そして3度目はJ・ウェルター級王座を返上した背水のロスが、もう一度タイトルを獲得している。いずれも判定にもつれこむ激闘で、両者にとってベストファイトだったろう。

宿敵とのラバーマッチに生き残ったロスはさらに2度防衛、ウェルター級にも確たる地位を築いたかに見えたが、思わぬ大敵があらわれた。フェザー級の世界王者ヘンリー・アームストロングが、ライト級を飛び越えてウェルター級王者のロスに挑んできたのである。

38年3月、アームストロングの挑戦を受けたロスは、最初の2ラウンドこそ挑戦者を打ち込んだが、次第に防波堤を食い破られる。アームストロングの伝説的なラッシュに、ロスは嵐の中の枯れ葉のように打たれ続けた。

すでに29歳のロスの体には“ハリケーン・ハンク”を押し返す力はなかった。やがて勝負は誰の目にも明らかになった。セコンドはインターバルごとに棄権を勧めた。だが、ロスは言い切った。「絶対、スポンジは投げないでくれ。最後までやりたいんだ。俺はリングの中でチャンピオンベルトを取った。なくすのもリングの中だ」

ロスがガードを固め、防御につとめると、さしもの怪物アームストロングもKOブローを打ち込むことはできなかった。

バーニー・ロスは判定負けを喫したが、不倒の男のプライドは守った。そして、母親との約束通りリングを去り、2度と戻ってこなかった。

●バーニー・ロス 1909年12月23日生まれ。本名バーネット(ベリル)・デビッド・ロソフスキー。アマ戦績150戦149勝1敗。29年プロデビュー。33年トニー・カンゾネリに判定勝ちで世界ライト級およびJ・ウェルター級王座を同時獲得。34年ジミー・マクラーニンに判定勝ちで世界ウェルター級王座獲得。4ヶ月後にマクラーニンに奪回されるが、さらに1年後マクラーニンから判定で王座再獲得。引退後は米海軍兵としてガダルカナルで日本軍と戦った。1967年1月17日、ガンのため死去。

 


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