アーチー・ムーア Archie Moore

mario kumekawa

アーチー・ムーアがいなければ、ジョージ・フォアマンの奇跡もなかっただろう。

1952年、ジョーイ・マキシムを判定に下して世界L・ヘビー級王者になった時、ムーアはすでに39歳。しかも、その後10年間にわたってこのタイトルを保持した。48歳2ヶ月まで世界王座に君臨したのは今なお史上最高齢記録だ。

50歳で引退したムーアは、ジョージ・フォアマンが若い時からセコンドをつとめていた。とりわけフォアマンが39歳でリング復帰してからは、最も重要な参謀役をつとめて続けている。両腕を胸の前で交差させる“アルマジロ・スタイル”でじわじわとフェイントをかけながら前進、少ない手数で強打を爆発させる戦術は、まさにフォアマンがムーアから継承したものにほかならない。

パンチの数を犠牲にしても固いガードでスピードの不足を補い、高齢でも衰えの少ないパワー、そして頭脳による駆け引きに勝負を賭ける。超晩成型ボクサーのファイト・スタイルのひとつの完成形がそこにある。

もっとも、ムーアの「最高齢記録」には、いささかあやふやな点がある。ムーアの誕生日はどうやら12月13日であるらしいのだが、それが1913年であったのか、1916年であったのか、ムーア本人と母親とで証言が食い違うのだ。「どういうことなのか、ずっと考えてたんだが、やっと分かった。ワシは生まれたとき3歳だったんだ」(ムーア)

ムーアやジャーシー・ジョー・ウォルコットのような「大器晩成」ボクサーをフィルム等で見ると、当時を知らない人は不思議に思うかもしれない。「こんなブリリアントでパワフルなファイターが、40歳近くなるまでどこで何をしていたのだろう? 」と。

もちろん、ムーアやウォルコットは人生も半ばを過ぎてから突然狂い咲きのように強くなったわけではない。ただ、当時は今よりもボクサーの数が多く、しかもタイトルの数は少なかった。加えて人種差別は今よりも激しかった。多くの黒人ファイターたちは白人たちの単なる負け役として使い捨てられていたのだ。ムーア自身、キャリア初期には白人ボクサー相手に何度も「判定イコール負け」の憂き目を味わっている。

110人をマットに沈めた時、ようやく世界L・ヘビー級王者マキシムが対戦を受諾した。試合報酬はマキシムの10万ドルに対し、ムーアは驚くなかれわずか800ドル。しかもムーアが勝った場合、マキシムのマネジャーであるジャック・カーンズと契約をするというオプションつきである。

マキシムは半年前にはミドル級王者シュガー・レイ・ロビンソンの挑戦を受け、一方的にやられながらも、挑戦者が真夏のリング上の酷暑に耐え切れなくなったため棄権勝ちしたというタフネスと強運の持ち主だった。

ロビンソンより8歳年上のムーアも巨漢マキシムに意外に手を焼いたが、さいわい試合は真冬に行なわれたため(?)、無事判定勝ち。タイトルと辣腕マネジャーを手に入れた。

だがいずれにせよ、「高齢チャンプ」はムーアの偉大さの証明の一端に過ぎない。ムーアが記録した141個のKO勝ちこそ、この怪物の本質を物語る数字だ。レイ・ロビンソンの116、サンディ・サドラーの103、あるいは草試合等でやたらとKO数をかせいだB級強豪たちをも抑えて堂々の史上最多KO記録である。ジョー・ルイスの世界王座25度防衛と並んで、アンタッチャブル(不可侵)の記録と言えるだろう。

英国のボクシング史家ギルバート・オッドは、その大著「エンサイクロペディア・オブ・ボクシング」でムーアの圧倒的な攻撃力を評し、「ジョー・ルイスのジャブ、ジャック・デンプシーのフック、ジャック・ジョンソンのアッパー」という表現をした。その通り、恐ろしく重いジャブはそれだけで相手をグロッギーにしたし、絶妙の間合いで放たれるフックとアッパーはしばしば鮮やかなワンパンチ・フィニッシュを生んだものだ。

これらのブローをムーアが得意としたのも偶然ではない。この3種のパンチこそが、パワーパンチャーの真価を示す攻撃手段と言って良いだろう。ジャブとショートフックは、最も速く相手に届くパンチであり、アッパーは最もタイミングを読みにくいパンチだ。ムーアはこれを、ベストのタイミングで強く打ち込む方法を熟知していた。

20歳も若い世界のトップボクサーたちが、ムーアのワンパンチにことごとく沈められたシーンは、まさしく老獪なマングースの小さな牙が巨大な毒蛇をいとも簡単にしとめてしまう様に似ていた。

そんなムーアのL・ヘビー級王座防衛戦として最も有名なのは1958年のイボン・デュレル戦だ。下馬評では有利と見られていたムーアだが、初回にいきなりデュレルの出会い頭の右を受けて痛烈なダウン。ダメージは大きく、立て続けに3度のダウンを奪われた。

だが、ムーアは徹底的にガードを固め、耐えに耐え、7回の倒し合いにも生き残ると形勢逆転。11回、とうとうデュレルをマットに沈めてしまった。

破格の男ムーアはL・ヘビー級王座を保持したままヘビー級の世界王座にも挑んでいる。55年9月ロッキー・マルシアノに挑んだムーアは2回、右アッパーを決めて無敗の王者をマットに這わせた。ここで倒し切れなかったのが命取りになり、結局9回逆転KO負けを喫したが、この試合もまたムーアの怪物性を証明するものとしての価値の方が大きいだろう。

●アーチー・ムーア 1913年12月13日ミシシッピ州ベノイト生まれ。貧しい黒人家庭に育ち、感化院でボクシングを覚える。30年代中頃にプロボクサーとして戦い始める。KO勝ちの山を築くもタイトル戦の機会には恵まれなかった。プロデビュー17年目の1952年12月17日、ジョーイ・マキシムに15回判定勝ちで世界L・ヘビー級王座獲得。10年後に剥奪されるまでこれを守り、並行してヘビー級でも活躍した。98年12月9日、サンディエゴで心臓病のため死去。199勝145KO26敗8分1無効試合。


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