ジェイク・ラモッタ Jake La Motta

mario kumekawa

 完全無欠のボクサー、シュガー・レイ・ロビンソンの全盛期に土をつけたボクサーはただひとり。それがジェイク・ラモッタである。

 デビュー以来40戦無敗を続けていた“華麗なるシュガー・レイ”に、1943年2月5日、ラモッタは10回判定勝ちをおさめた。誇り高きロビンソンはわずか21日後には同じく10回判定でラモッタに借りを返すと、以後92戦を無敗で通す。つまり、この史上最強のボクサーは132試合戦ってラモッタにしか負けなかったのである。

 世紀の大金星をあげたラモッタは、しかし、およそ見栄えのしないボクサーだった。ずんぐりむっくりの短躯で、スタートからただひたすら手を出し続けるだけの、典型的な「才乏しきブルファイター」だった。その上拳がひどく軟弱で、顔面を何発も打つとすぐ痛んでしまう。必然的に、ボディーパンチャーになる。鮮やかなKO勝ちは少なかった。

 そんなラモッタだが、デビュー当初はヘビー級でさえ戦ったという体のフレームの「太さ」が底知れぬスタミナと信じがたいタフネスを生んだ。ラモッタのラッシュはうなりを上げて対戦相手を襲った。顔面パンチをフェイントに使いながら、ロープにつめての乱打に次ぐ乱打をボディーに。いつしか人はラモッタを「ブロンクスの“レイジング・ブル(怒れる猛牛)”」と呼んだ。

 このあだ名の通り、ニューヨークのスラムでイタリア人の父とユダヤ人の母の元に生まれたラモッタは、立って歩けるようになった時からストリートファイトに明け暮れる毎日を過ごすようになった。2つのマイノリティ民族の血を引く少年にとって、生きることは絶え間のない戦いだった。

 だが、そんな人生にも光明が差した。路上の乱闘で補導されたラモッタを、気の利いたポリスマンが町の「少年クラブ」に連れて行き、そこでボクシングを始めさせたのだ。たちまち頭角を現したラモッタは、19歳でゴールデングローブの覇者となると、食いぶちを求めてプロに転向した。

 ラモッタはなかなかにビジネスセンスのあるボクサーで、自ら興行主となり、映画館を借りきってボクシング・ホールとし、人気ボクサーと自分との対戦をプロモートすることさえあった。シュガー・レイへの金星はそうして生まれた勝利だった。

 だが、そんな「ビジネスセンス」は、かつてスラムで形成された「けして人を信用しない」という性質に支えられたものだった。マネージメントを他人に委ねようとしないラモッタは、ミドル級の有力コンテンダーにまでのし上がったものの、タイトル挑戦のチャンスは遠ざかり続けた。

 20代も後半に入り、焦ったラモッタはとんでもない罠にはまりこんだ。47年11月、レイジング・ブルは悪魔に魂を売る。「近い将来、世界ミドル級タイトルに挑戦させてやるから、ビリー・フォックスにKO負けしろ」という八百長要求を呑んでしまったのだ。賭けで「大穴」を生み出し、一部の人々をぼろ儲けさせるためだった。

 フォックス戦の第4ラウンド、ラモッタは無防備にパンチを浴び続けた。ただ、マットに片ひざさえついたことのなかった不倒の男は、この時でさえ倒れることだけは拒否する。しっかりと立ったままで、レフェリーのストップを待ったのだった。

 とりあえずラモッタの望みはかなった。49年6月16日、世界ミドル級チャンピオンマルセル・セルダンへの挑戦が決定したのだ。

 セルダンは「北アフリカの怪物」と呼ばれる強豪王者だったが、ラモッタはこん身の打ち合いを挑んだ。一進一退の激闘となったが、不運にも肩を痛めたセルダンが10回でリタイア。ついにラモッタは世界ミドル級王者となった。

 ラモッタが2度の防衛を苦戦ながら果たした後、3人目の挑戦者として現れたのが、当時ウェルター級の世界王者として君臨していたシュガー・レイ・ロビンソンである。両雄はこれが6度目の対戦、過去はラモッタの1勝5敗(いずれも判定勝負)だった。

 1950年の2月14日はシカゴ・マフィアによる「バレンタインデーの大虐殺」で知られるが、翌年の同じ日はリング史上もっとも苛烈な戦いによって記憶されることになった。

 ロビンソンは絶好調だった。抜群のリズム感から、あらゆる強打がこれでもかと繰り出される。ラモッタは歯を食いしばって前進し続けるが、シュガー・レイのボクシングはまったく乱れない。

 ほぼワンサイドの展開で迎えた 11回、ラモッタはロビンソンをコーナーに追い込んだ。すでに疲労困憊していたラモッタだが、信じられないほどのスパークを見せ、カバーアップするロビンソンを打ちまくった。

 だが、ロビンソンは堅牢なブロッキングでラモッタの攻勢をしのぐと反撃開始。もう、ラモッタには何も残っていなかった。ただひとつ、不倒のプライド以外には。

 13回、ついにレフェリーが試合を止めたときも、ラモッタはしっかりと両足で立っていた。

 新王者ロビンソンが引き上げた後も、ラモッタは自コーナーのスツールの上に20分間もへたり込んでいた。やがて立ちあがり、リングを去ろうとすると、ずっと待っていた観衆は全員立ちあがり『だってあいつは良いヤツだから』を大合唱して、前チャンピオンを見送ったのだった。

 だが3年後ラモッタが引退してから、フォックス戦の八百長が発覚した。米国上院で疑惑を認めたラモッタはボクシング界から追放され、ファンの前から姿を消した。

●ジェイク・ラモッタ 1922年10月7日ニューヨーク・ブロンクス生まれ。本名ジアコーベ・ラモッタ。41年プロデビュー。43年2月5日レイ・ロビンソンに初黒星をつけて注目される。元ウェルター級王者ジビックとも4勝1敗の星を残した。49年セルダンに10回KO勝ちで世界ミドル級王座獲得。3度目の防衛戦でロビンソンに敗れた後は振るわず、3勝3敗1分の戦績を残して引退。生涯戦績83勝30KO14敗4分。


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