ジョー・ウォルコット

Joe Walcot

 

  50年代のヘビー級王者ジャーシー・ジョーウォルコットの本名はアーノルド・クリーム、今世紀初頭に活躍した偉大なウェルター級王者ジョー・ウォルコットに憧れ、その名を拝借したのだった。「私の父がウォルコットの大ファンだったんだ。彼は、これまでに存在した最も偉大なファイターだ。私はウォルコットの十分の一ほどの力でも身につけられればと思っていたよ」と、二代目ウォルコットは語ったものだ。

「ジャーシー」の方は、スタイリッシュなテクニシャンだが、カリブ海に浮かぶバルバドス島生まれのオリジナル・ジョー・ウォルコットは、超破格のパワーファイターだった。試合開始ゴングとともに相手に向かって突進、およそ可能なあらゆるパンチを叩きつけるケンカ・ファイトだった。ウォルコットのファイトを生で目撃したオールド・エキスパートたちは、彼のファイトをヘンリー・アームストロングに近いスタイルだったと形容する。

 本誌でもおなじみのジョー小泉氏は、かつてマイク・タイソンのことを、「たしかに小型だが、超大型のヘビーウェイトを圧縮したような身体だ」と評した。この秀逸な表現は、そのままオリジナル・ウォルコットにも当てはまる。

 全盛期のウェイトが138ポンドというから、今ならS・ライト級でも軽い方だ。身長は約157センチと、こちらは最軽量級並だ(レオ・ガメスとほぼ同じ! )。しかし、ウォルコットの全身にはタイソン以上といっていいほどの強くてしなやかな筋肉が山脈のように波打っていた。しかも、リーチは180センチと、当時としては完全にヘビー級並み。その腕も、ただ長いだけではなくて、当時のヘビー級ボクサーの誰よりもぶっとい腕をしていた。

 ウォルコットは身長が異様に低いためにウェルターもしくはライト級のウェイトにとどまっていたが、攻撃力は完全にヘビー級だったのである。これではウォルコットと試合をさせられる中量級ボクサーはたまらなかっただろう。

 中量級はもちろん、ミドル、L・ヘビー、そしてヘビー級にいたるまで、あらゆるクラスのボクサーとウォルコットは戦い、そのほとんどに勝った。ウォルコットは記録上24敗しているが、これは政治的な「負け」も多い。ウォルコットと契約していたマネジャー、トム・オルークはけして実力者とはいえなかった。しばしばウォルコットは敵地でひどく不利な条件のもので戦い、理不尽な判定を受け入れねばならなかったのだ。

 世界ライト級王者キッド・レービンと戦ったときは、無理な減量を強いられた上、「KO以外は負け」という条件さえ飲まされた。「命が危ないほど」の減量で、ふらふらの状態でリングに上がったウォルコットだったが、徐々に体が温まると次第にレービンを圧倒。後半はライト級王者を打ちまくった。しかし、レービンもタフで、試合は最終ゴングを聞き、結局ウォルコットは密約通り「負け」にされたのだった。

 そんな不利な環境にもめげず、ウォルコットはリングに上がり続け、ジョー・ガンス、ジョージ・ガードナー、ミステリアス・ビリー・スミス、サム・ラングフォード,フィラデルフィア.ジャック・オブライエン、ヤング・ピーター・ジャクソンといった、ライトからヘビーまでの第一人者たちと戦った。

 ウォルコットの絶頂期とされる1899年から1900年にかけては、ヘビー級王者ジェフリーズとも引き分けた強豪ジョー・チョインスキーをKOしてしまう。これを見た当時のヘビー級トップたち、すなわちジェフリーズ、ジム・コーベット、ボブ・フィッツシモンズらは“バルバドス島の悪魔”との対戦を拒否するようになってしまった。

 190センチの巨漢ジェフリーズがもう少しだけ勇気を出していたら、レオ・ガメスと同じ身長のヘビー級王者が誕生していた可能性はあったかもしれないのだ!?

●ジョー・ウォルコット 1873年3月13日西インド諸島バルバドス島生まれ。1890年プロデビュー。デビュー当時はプロレスと掛け持ちだった。1900年9月ジム・ファーンズにKO勝ちで世界ウェルター級王者。2度防衛後、デキシー・キッドに20回反則負けで王座転。戦績は81勝34KO24敗。1930年、自動車事故で急死した。

 


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