ジャック・ジョンソン Jack Johnson

mario kumekawa

マイルス・デイビスのアルバム『ジャック・ジョンソン』はボクシング映画音楽としては空前絶後の大傑作で、ジャズ史上でも稀有な名演の一つだ。

世界ヘビー級チャンピオンとなった初の黒人ボクサー、ジャック・ジョンソンのドキュメンタリー・フィルム(この映画自体、史上に冠たるボクシング映画だろう)の映像を見ながら、ジョン・マクラフリンの伝説的ギター・カッティング、そして帝王マイルスの気の遠くなるようなトランペットソロを聴いてみてほしい(ビデオにもなっている)。名試合を目撃したときのように、ボクシングというものの凄さ、格好よさ、恐ろしさが塊となって胸に迫るはずだ。

ハードコアなボクシング・マニアでもあったマイルスは『ジャック・ジョンソン』のアルバム・ジャケットに、この偉大なヘビー級王者を紹介する自らの文章を印刷させている。

「ジャック・ジョンソンが1908年に世界ヘビー級の頂点に立ったことは、白人たちの嫉妬が吹き出す合図になった。分かるかい? アメリカで生まれた人間なら、・・・どういうことになるか、誰でも知っていることだ。ジム・フリンとのタイトル防衛戦(1912年)の前日、ジョンソンは1枚のメモを受け取った。『明日はリングに寝るんだ、さもないと、首吊りだぞ−−KKK(クー・クラックス・クラン)』。そういうわけだ! [...]」

ジョンソンはモハメド・アリと並ぶ史上もっともスキャンダラスなボクサーだ。白色人種優越の大いなる根拠のひとつだったヘビー級タイトル(有色人種に1度も挑戦させたことがないのに、なんでそういうことになるのかはわからないが)を手中にしただけでも、マイルスの言う「嫉妬」の集中砲火を浴びた。

だがそれだけではない。ジョンソンは自慢の金歯をニヤニヤと光らせながら、白人たちの神経を逆なでし続けた。どでかいスポーツカーで、公道やレース場をわがもの顔で乗り回した。シカゴで豪勢なクラブを経営し、最高級の葉巻とシャンパンを口にし、7フィートもある自慢のダブルベースで、ぽんぽんとジャズをつまびいた。あげくの果ては、白人女性を次々と愛人とし、妻とした。ジョンソンがひとつなにかしでかすたび、保守的な(というより差別的な)白人たちは憎悪の炎をかき立てられたのである。

ただ、全ての白人が作家ジャック・ロンドンのように「誰かあいつを倒せないか! 」とヒステリックに叫び続けていたわけではない。たとえば、リング誌の名物編集長だったナット・フライシャーはジョンソンの友人であり、生涯にわたってジョンソンを「史上最強のヘビー級王者」として尊敬し続けていた(カシアス・クレイの台頭を見ても、彼の見解は変わらなかった)。

ほんとうに、ジャック・ジョンソンは史上もっとも強いヘビー級王者だったのだろうか? 80年も前のコマ数の少ない映画でジョンソンの力量を推し量るのは難しいが、たとえ今日のような鮮明な映像で見ることができたとしても、やはり問題は解決しないだろう。ジョンソンがその実力の全貌を現した試合自体がないからだ。

ジョンソンが当時としては圧倒的な力量を誇っていたことは間違いない。だが、ず抜けすぎていて、全力を出さないと勝てないような試合はついに訪れなかった。若い頃、サム・マクベイやジョー・ジャネット、サム・ラングフォードといった同じ黒人のライバルたち(その中でも彼は抜群だったのだが)と戦っているうちはまだ試合になっていたのだが、王座についてからの試合はすべてが茶番だった。

シドニーまで王者を追いかけていってついに実現したトミー・バーンズへの挑戦は、ジョンソンの白人社会への憎悪が爆発した。全く一方的にパンチを浴び続けるバーンズがリングに崩れ落ちようとすると、ジョンソンは「まだだ、ベイビー」と抱きかかえる。結局、警察が残酷ショーを止めるまで、ジョンソンはわざと半分の力でバーンズを殴り続けたのである。

ジム・フリンとの防衛戦は、ハナから勝ち目のないフリンが悔し紛れの頭突きを繰り返すうちに反則負けになった。ミドル級の強打王スタンレー・ケッチェルの挑戦を受けたときは、フルラウンド戦って無判定という「花相撲」のはずが、12回に突如牙をむいたケッチェルの右スイングでジョンソンがダウン。「罠か」と怒りの微笑みを浮かべて立ち上がったジョンソンは、3秒後、ケッチェルの前歯を全部へし折って失神させてしまった。

1915年5月、炎天のハバナで、巨人ジェス・ウィラードと戦った45回戦の第26ラウンド(!)、挑戦者の右を受けて倒れたジョンソンは、照り付ける太陽から顔を守るかのように両グローブを顔の前にかざしたまま立てず(立たず?)テンカウントされると、とっととリングを降りてしまった。12年以来、米国追放の身にあったジョンソンは帰国の許可と引き換えに「わざと負けたのだ」と晩年に「告白」しているが、真偽のほどはさだかではない。

王座を失った後のジョンソンは、草試合をしたり、コメディアンとして映画に出たり、ダンスをしたりと、おもしろおかしく過ごしながら老いていった。白人をののしり叩きのめした日々は、どこかに置き忘れてしまったかのようだった。

1946年、68歳のジョンソンはスポーツカーで大木にぶつかって死んでしまった。残されたのは大いなる謎と、底知れぬ憎悪−−。


★ジャック・ジョンソン 1878年3月31日、テキサス州ガルベストン生まれ。本名ジョン・アーサー・ジョンソン。1897年プロとして最初の試合を戦う。プロレスやバトルロイヤルも戦いながら、黒人ヘビー級王座獲得。1908年12月26日、14回ポリスストップでバーンズから世界ヘビー級王座を奪取。12年、米国を追放され、ヨーロッパを放浪しつつ防衛戦をこなす。15年、ジェス・ウィラードに26回KO負けで9度目の防衛失敗。46年、自動車事故で死去。


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