ランぶる・イン・ざ・ジャンぐる……


  偉大なる梶原一騎

 1月18日、偉大な漫画原作者・梶原一騎氏の十七回忌に参加させていただいた。護国寺での法要のあと夕方から開かれた宴会では、各界から有名無名多くの人々が集まった。ホテルの大宴会場を埋め尽くしたその人数が故人の仕事の大きさを表わしていた。
 本誌の読者の方なら、初めてちばてつや氏をナマでお見かけした僕の感無量をお分かりいただけるだろう。「あしたのジョー」こそは、日本における“ボクシング”のイメージの美しき結晶だ。「ジョー」という作品には、1960年代から70年代、すなわち日本ボクシングの成長期と黄金期に、人々の脳裏に刻まれた決定的なイメージがことごとく流れ込んでいる。
 門田新一の孤独な生い立ち、斉藤清作のノーガード戦法、ジョー・メデルの“ロープ際の魔術”とクロス・カウンター、ファイティング原田の過酷な減量、カシアス・クレイの予告KO、デビー・ムーアのリング禍など、人々に強烈なインパクトを与えた現実のエピソードや実在の人物像がたくみにコラージュされて、「ジョー」の物語に編みこまれているのだ。
 一方、「泪橋」も「玉姫公園」も、東京下町の足立区や台東区に実在する。当時この地域には、山谷を中心として肉体以外になんら「財」をもたない人々のコミュニティーがかなりの密度で存在していた。「ジョー」の中には、こうした無産階級の「風景」もまた精密に描きこまれ、かえって神話的なイメージさえ生み出している。
 フィクションはたしかに「作り話」ではあるが、時に現実を照らし出す「光源」となることがある。僕たちは、高橋ナオトの一発逆転カウンターに、辰吉丈一郎の防御無視戦法や“バンタム”へのこだわりに「ジョー」を見ていたのではなかったか。「現実」をコラージュして作りあげられた「非現実」が、究極の神話となって「現実」に意味づけを行っているのだ。
 ボクシングだけではない。「巨人の星」、「タイガーマスク」、「空手バカ一代」、「赤き血のイレブン」といった梶原(=高森)氏の傑作は、それぞれのスポーツにおける日本人にとっての根源的イメージを決定的に作りあげた。あらゆる芸術領域を見わたしても、こんな作家はそうはいるまい。

 

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