起こらなかったことの記憶
ボクシングがスポーツであるとすれば、それは完璧なスポーツだから、勝利者にこそその精髄が表現される。敗者の方がボクサーとして優れているなどということはけっしてない。 薬師寺保栄よりも辰吉丈一郎のほうが天分の点では豊かなだったかもしれないが、両者が相対した晩のリング上では、たしかに薬師寺のほうが優れたボクサーだった。シュガー・レイ・ロビンソンが最初のミドル級王座防衛に臨んだとき、立ちはだかったランディ・ターピンはミドル級史上最強のファイターのひとりだった。 僕たちは、みんなそれは知っている。だからこそ、どれほど栄光につつまれたチャンピオンでも、次のリングに上がるときは新人のときと同じかそれ以上にプレッシャーを感じなければならないのだろう。その日敗れれば、雪辱するまでは「負けたボクサー」として記憶されなければならないし、自らも敗北の記憶に眠れぬ夜を送らねばならないからだ。 坂本博之は、重要な試合にことごとく敗れた。坂本は敗者として記憶されるだろう。彼の勝った試合で、皆が覚えているのはどの試合だろう? 彼のリック吉村戦を、ジョンストン戦やバサン戦、セラーノ戦、畑山戦、あるいはコッジ戦と同じ強烈さで覚えている人がどれほどいるだろうか。 しかし、バサン戦の坂本がリック戦の坂本よりも輝いていたように感じるのはどういうことだろう? 敗者としてほうが、勝利者としてよりも強い光を放つとは? 日本人特有のセンチメンタリズム、あるいは判官贔屓と言われれば、そうかもしれない。僕たちの多くは、源頼朝より九郎義経のほうが好きだし、大久保利通よりも西郷隆盛のほうが好きだ。けれども、僕たちは、実際に日本を建設したのが誰かということも知らないわけではない。ただ、義経や西郷の存在には、「実際には起こらなかった、より大いなるもの」、あるいは「実現するには大きすぎたもの」を感じるのだ。 もはや往年の勢い失せた坂本の右フックが佐竹政一の目の前を空転していったとき、ボクシングの掟に反して、“非現実”が大いなる記憶となって僕の胸に残ることになった。
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