ランぶる・イン・ざ・ジャンぐる……

「ワールドボクシング」2003年11月号より

再び判定問題を考える

 プロボクシングの危機
 最近のボクシングファンの「判定不信」は、異様な次元にまで達してしまっている。最近のビッグマッチでも小松則幸−トラッシュ中沼戦、ウィラポン−西岡利晃第3戦などは、ファンの間に大きな議論を巻き起こした。
 もちろん、審判にはその主観のままに試合を裁く権限が与えられているのだし、ルールに従ってレフェリングや採点を行う限り、判定に対する批判はあくまでも「外部」からの声であるにとどまる。また、ファンの「批判」には、未整理な感情がぶちまけられただけのものも多いのも事実だ。「素人の意見にいちいち付き合ってはいられない」と主張もできないことはないだろう。
 しかし、納得のいかない判定が続けば、プロスポーツとしてのボクシングは最終的には滅亡するに違いない。専門家だけがその値打ちを「鑑定」できる、骨董品のようなものにボクシングが成り果てていいわけはない。
 アンフェアな審判というのはたしかに存在する。9月に行われた辰吉丈一郎−フリオ・セサール・アビラ戦は、判定自体も論議を呼んだが、よりスキャンダラスだったのはレフェリングだった。原田武雄レフェリーは、アビラのさほど問題とはいえないパンチを「オープンブロー」として執拗に警告を発し、2度にわたって減点したのみならず、試合後半、辰吉が劣勢になるにつれ、アビラの攻撃をたびたび「オープンブロー」の注意で中断した。それでも8回、辰吉がグロッギーに陥ると、出血してもいないアビラの左目上の傷口をリングサイド・ドクターに見せ、辰吉のピンチを救った。
 このレフェリングは、多くのファンに、レフェリーが「公正中立」をかなぐり捨てることがある、ということを暴露してしまった。辰吉−アビラ戦を見た人は、納得のいかないレフェリングやジャッジに出くわすたび、「買収されているのか? 」と思うことだろう。

 なぜ起きる? 問題判定
 なぜこういった「問題判定」が起こるのだろうか。ファンからはよく、「大手ジムやテレビ局からなんらかのプレッシャーがかかっているのではないか」という疑問が投げかけられる。
 後楽園ホールに通う常連ファンの間では、「一部大手ジムの選手が判定で優遇される」という憶測のもとに「○○デシジョン」などという言葉が囁かれることがある。実際に、大手ジムによる「プレッシャー」が存在するのだろうか。
「そんなことは、ありえません」と断言するのは、ヨネクラジム・マネジャーの林隆治氏だ。「少なくとも、うち(ヨネクラジム)がジャッジを買収したり、プレッシャーをかけているようなことはけっしてないし、私の知る限り、他のジムもそんなことはしていないはずです。万が一、買収を試みるジムがあったとしても、東京のジャッジはそういうものは受け付けない空気はしっかりできあがっている。逆に“内部告発”されて大変なことになるはずです」
 そう語る林氏だが、一方で「地元判定」の存在は否定しない。「地元の選手や、興行主のジムの選手に有利な判定が出ることは、はっきり言ってあると思います。ただ、それはプレッシャーや買収の結果ではない。地元の選手は応援団の声が大きかったり、セコンドの声がよく聞こえたりして、それが審判の心理にも影響しているのではないでしょうか」(林氏)
 明白な差がないラウンドの場合、たしかに応援の力は否定できないだろう。しかも、現在のようにできるだけ差をつける(アメリカほどではないにしろ)ことをよしとする風潮の中では、こういう微妙な要素が大きい。10−9のラウンドがひとつ逆に採点されただけで、ポイントとしては「2点」の違いになる。2つのラウンドで4点、3つで6点だ。解説者の浜田剛氏はつねづね「微差を取るなら、12回戦で6点までは許容範囲じゃないですか」と語っている。判定批判をするなら、その是非も含めて「微差を取る採点方法」の功罪を意識しなくてはならないのかもしれない。

 生観戦とテレビの差
 また最近、特に問題として浮かび上がってきているのが、「生観戦とテレビ観戦の印象の差」だ。論議を呼んだ小松則幸−トラッシュ中沼戦では、テレビで見た人々のほうに明らかに多く「中沼支持」が存在した。また、ウィラポン−西岡第3戦でも、会場で見た人々の多くは「ワンサイドでウィラポン」の印象だったようだが、テレビ観戦組の中には「ドローもうなずける接戦」、「西岡の勝ちでもいい」という意見も(多数派とは言えないが)あるようだ。
 こういう差が生まれる要因のひとつは、言うまでもなく「実況」だろう。自局の番組に多く登場するスター選手であれば、放送席で「贔屓」されるのが通例になっている。また、どちらかに加担するつもりがなくとも、たまたま見方が偏ってしまうこともあるだろう。すべてのパンチについて有効打かどうかを判断するのが難しい以上、実況で「ヒットした」と言われる影響が小さいはずはない。
 だが、現場とテレビの違いは実況だけではない。「距離感」の違いというのも無視できない要素だ。マラソンの実況中継などで、ほとんど並んで走っていたように見えた2人の選手の間が、カメラの角度が変わると突然距離が開いたかのように見えることがある。2次元と3次元の視覚の違いといってもいい。
 ボクシングの試合展開を理解する上でも、距離感という要素はきわめて重要だ。パンチがヒットしているかどうかが最重要チェックポイントであることは間違いないが、パンチの効果を判断する基準は、「どれだけ顔面が動いたか」であったり、「どれだけ身体が後退したか」であることが多いからだ。これらも、いわば「距離」なのだが、生観戦とテレビでは随分見え方が違う。
 たとえば、ウィラポンの右リードをヒットされた西岡の顔面は、会場で見ていた人には、相当に弾き飛ばされているように見えたはずだ。しかし、テレビでは西岡の頭部の動きはかなり少なく見えた。
また、直接パンチのヒット数とは関係なく、「自分の距離で戦っている選手」はそれだけで優勢に見えるし、事実そうなのだが、これもテレビでは判断がつきにくい。ある選手が、自分のジャブが当たる距離で戦っているかどうかをテレビ放映で100パーセント見極めるのは至難の業だ。そういう不明な点が増えるほど、実況に左右される度合いが強まってくることにもなるだろう。

 判定問題は、審判の問題、観客の問題、マスコミの問題、さまざまな要素が複雑にからみあっている。ただちに万人が納得する判定ばかりが出るようにはならないだろう。
 ただ、審判が「公正にやろうとしているか」を見つめ続けることは必要でもあり、結局は唯一の「方策」かもしれない。ある関係者は、「やはり、“外部”の目がないところでは、異常な判定が出やすいのではないか。単独のジムの興行で、相手が全員外国人ボクサーなどという場合、“とりあえず、日本人を勝たせとけ”という雰囲気になることは考えられる」という。買収行為はないにしても、「地元」や「興行主」のムードに流されやすい“体質”の審判はいるかもしれない。ボクシング界の正常化は、ひとりひとりの地道な努力から始まると信じたい。
 

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