「反論」への反論

 

  

 オサムジムの立場に立った高橋信行さんの「反論」には、本望選手たちが当初言っていたこととあまりに食い違いが多かったため、このサイトを見ていただいている多くの皆さんの当惑を呼んでしまったようです。ここでは、再度、本望選手側から聞いた話をもとに、高橋さんの「反論」と本望選手側の主張の食い違う点をよりはっきりさせてみたいと思います。以下の文で、緑の太字が高橋さんの文章からの引用青い文字が本望選手側の再反論です。

 真っ向から言い分が対立していることに関しては、白黒をつけることが難しい部分もあるかもしませんが、ある程度はどちらの言葉により説得力があるかを判断することは可能だと思いますし、それぞれの主張自体の中にある矛盾を追求していくことなどで、部分的にせよ事実に近づくことはできると思います。

  移籍が決まった以上、あらためて「再反論」を行なってコトを荒立てるべきではない、とも思いますが、「嘘つき」と言われたまま3選手がカムバック戦のリングに上がるよりは、最低限の言い分だけははっきりさせておくべきではないか、と考えます。したがって、これらの再反論を「発表」した責任は、あくまでも粂川個人にあります。

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「2000年11月 4日
  トレーナーとの練習の約束時間に本望選手が来なかった。結果的に2000年11月 2日までで本望選手がジムに来なくなったようです。」

 *練習をすっぽかしたように書かれていますが、トレーナーには事前に電話で「行けない」と伝えました。それまでの経過は次の通りです:

 11月3日、アメリカにもう一度行くように言われる。もちろん実費で(最低30万円はかかる)。「お金も無いし、バイトは前回アメリカに行った時無理して休ませてもらったから、そう何回もは休めません」と会長に答える(会長には「バイトをやめろ」と言われた)。そこで、アメリカに行くより、「日本タイトル戦をやりたい」と言うと、ものすごくイヤミを言われた。翌日(4日)の朝練習に行くと、渡辺会長は本望選手のことを完全に無視。これですっかり嫌になった本望選手は、トレーナーに「今日の夕方は行けません」と電話をした。すっぽかしたのではありません。

「2000年11月 5日
  オサムジムの奥さんが本望選手のお母さんに電話連絡をとる。お母さんからは「悩みがあるようだ」と言われたので「悩んだほうが強くなるよ。考えさせたほうが強くなるんじゃない」と奥さんは答えたようです(この時は移籍のことは当然知りませんでした)。」

 *日付が違います。電話があったのは行かなくなってから2週間ぐらいたってからでした。

「2000年11月14日
  本望選手から「木村・ゴメスとの勝者に挑戦状をしてほしい」という手紙が届いた。本人の気持ちだと思い電話で本人をジムに呼んで、挑戦状にサインと印鑑を押してもらいコミッションに提出した。」

 *これも、まず日付が違います。本望選手がオサムジムに自分の気持ちを書いた手紙を出したのは11月の下旬。さらにその一週間ほど後、本望選手は自分から電話をしてオサムジムに行きました。この時挑戦状を書いてくれたのは本当で、本望選手はオサムジムに戻ろうと思ったそうです。けれども、その次の日、練習を終えてジムを出ようとした時、「これ書いてきて」と(あの)誓約書を渡され、やっぱり戻れないと思い、この時から移籍を考え始めたそうです。

2000年11・12月頃
  角海老宝石ジムのマネージャーからオサム会長に電話があり「本望選手達3人がトレーニングに来ていて移籍したいと言っているが…。うちにはフェザー級のランカー選手が2人もいるので要らないんだけど」と言われた。その後、オサムジムから角海老宝石ジムに電話で「選手達を返してほしい」と電話しているが、角海老宝石ジムからは「本人達は帰らない」と言われたので、オサムジムから「ほっといてくれ」と伝えた。この時点では本望選手らからはオサム会長には何も言われていなかった。

 *まったくそういう事実はありません。 11月、12月は角海老ジムには行っていない。北浦和にあるジムに行っていたので、確認しようと思えばすぐに分かります。

2000年12月28日
  本望選手からオサムジムに電話があり「まだ迷っている」ということが言われた。」

 *「迷っている」などとは言っておらず、はっきり「移籍したい」と意志を伝えました。ただし、この時オサムジムの電話に出たのは奥さんでした。

「2001年 1月26日
  本望選手のお母さんがオサムジムを訪れる。本望選手がオサムジムの鍵を預かっていたのでとりあえず返しに来たようです。お母さんからは「悪いことをしているのですぐにはジムには来れないが、ジムには戻します。時間がかかるかもしれませんが待ってて下さい」と言われた。」

 *お母さんはオサムジムに呼び出されて行きました。「鍵を返さないままですみません」とは言ったが、「悪いことをしているので……」とは言っていません。

「2001年 2月18日
  本望選手、金子選手、元吉選手がオサムジムに来て、角海老宝石ジムに移籍したいとの要望を伝える。この時点で初めて本人からオサムジムに正式に意志が伝わった。」

 *この時が初めてではありません。12月28日にすでに言ってあります。

「2001年 4月 7日
  元吉選手からオサムジムに電話があり、「移籍したい」と言われた。奥さんは「やることが違うんじゃない。自分達だけの主張だけじゃ通用しないよ」と言った。」

 *4月7日の少し前に本望選手がオサムジムに電話した際、「お前は1000万で、あとの2人は相場の額でいい。選手はサラリーマンの立場だから、何を言われても仕方ない。移籍するなら、辞めてもらった方がいい」と言われた。そして、7日、元吉選手が電話をすると、「ほかの2人も移籍はさせない」と言われた。この電話の際には、立ち合っていた人もいます。

「2001年 4月25日
  3選手がオサムジムに来て「移籍しますから」と言ってきた。奥さんの感想では「喧嘩を売りに来た感じだった」と言っていました。このとき前記の「殴るなら、殴れ」という会話があったそうです。」

 *「移籍しますから」というような一方的な言い方はしていません。「移籍させてください」と言いました。「殴るなら殴れ」などという発言もしていません。この日の会話は、録音テープもあります。

「注6:[……]  洲鎌選手とのリターンマッチは10月の試合後にリターンマッチをやるという約束を向こうの会長としていて、本望選手にも伝えてあったようです。」

 *このような話は、本望選手はまったく聞かされていませんでした。

「オサム会長は洲鎌選手と試合をしたら本当に移籍料なしで移籍させるつもりでいたようです。」

 *本望選手が「洲鎌と試合をしたら、本当に移籍させてくれるんですか?」と渡辺会長に聞いたところ「それとくれとは話が別だ。ジムに戻ってこい」という返事だったので、断りました。

「本望選手の戦績を確認していただければわかりますが、年に3回〜4回は試合を行っています。間隔が半年くらい開いた時がありましたが、バッティングで目の上を切った時の治療のためのようです。」

 *年に3,4回試合があったのはトーナメントで勝ちあがっていたからで、もし一回戦で負けていたら試合はなかったかもしれない。また、目の治療に半年もかかっていません。実際、半年経つ前にすでにジムではスパーをしていたが、試合の予定はありませんでした。

「また、金子選手の言う「7キロの減量」は事実と違うようです。
  アメリカでマッチメイクを行った堀内氏に確認しましたが、金子選手が言っている「7キロ」は「7ポンド(約3.18kg)」ではないかということです。アメリカの体重計はポンドでキロの体重計はないそうです。そもそも1日で7キロの減量ができるかどうか疑問で、仮にできたとしても金子選手の言う腰痛であったならば7キロの減量をするためには余程の努力が必要になるわけです。
  アメリカでの試合は本人のサインがないと成立しないので金子選手本人がアメリカの堀内氏とともにドクターの許可のもとサインをしているようです。当時、会長の奥さんが金子選手に電話で話した時は「B級トーナメントがあるから試合をするな」と言ったそうですが、本人は「勝つから大丈夫」と言っていたそうです(同じB級の試合が予定されていた朝山選手は試合をしなかった)。腰痛に関しては会長は「あったかもしれないがドクターがついているのでドクターと相談しろ」と指示をしたそうです。ドクターがOKだったので当日の試合も成立したようです。」

 *これはまちがいなく7キロ。金子選手本人が確認しています。計量で使うはかりはポンドですが、金子選手が自分でチェックするために使っていた体重計はキログラムのものでした。金子選手は朝からずっと走り続け、本望選手に「体重落ちました」と報告したときは声がかすれて出なくなってしまっていた。計量には本望選手も立ち合ったが、本望選手も、金子選手も、ドクターと腰の話はしていなかった、と言っています。

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  以上が、本望選手側の話をまとめた「再反論」です。この他、争点としては、高橋さんの「戦績が入っていないのはオサムジムの問題ではなくコミッションの問題です」あるいは「問題とされている5年契約の期間に関しては洋介山選手の件があったのでJBC小島事務局長の進言で5年としたそうです」という記述が事実かどうかは、僕(粂川)が時期をみてコミッションに直接質問してみるつもりです。


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