ヤング・グリフォー

Young Griffo

 

  100年前、シカゴの安酒場で一枚のハンカチがふわりと床に落ちた。ひとりの男がその上に軽やかに飛び乗ると、豪州なまりの英語で叫んだ。「さーてお立会い! 私はボクシングの奥義を極めたヤング・グリフォーと申す者。今宵はご来店のみなさま方にプロボクシングの技術の奥深さをご披露いたしたいと存じまする。私はこのちっぽけなハンケチの上からは一歩たりとも踏み出しませぬ。さて、その私をどなたか殴ることがおできになりますかな? 一発でも私にパンチをヒットすることのできた方には、私が賞金を差し上げましょう、ただし、できなければ、私が一杯おごっていただきますが……」

 何を馬鹿な、ハンケチに乗ったまま両手の攻撃をかわすことなどできるものかと、力自慢腕自慢たちが次々とグリフォーに襲いかかった。しかし、このずんぐりした白人は、まさに拳闘の奥義を会得していた。どれだけしつこく手を出し続けても、酔客たちの拳はグリフォーの体に触れることはできなかったのである。

 ただ酒をしこたま飲んですっかりご機嫌になったグリフォーは、「それでは、アンコールにお応えして……」と言うと、ふたたび立ち上がり、今度は「ぴっ」と右ストレートを一発中空に放った。にやりと笑みをうかべたグリフォーがその手を客たちの方に差し出すと、人々はまたも仰天した。グリフォーの指先には、一匹のハエが、しかも羽根の部分をつままれてじたばたしていたのである。

 ヤング・グリフォーは、まぎれもなく天才だった。めくるめくスピード、自在なタイミング、一瞬ごとに動きの方向を変えるひらめきはまさに超人的だった。ボクシング史家ナット・フライシャーは「クイーンズベリー・ルールが制定されて以来、おそらくはもっとも速く、もっともクレバーなボクサー」とグリフォーを絶賛した。それでいて、この男はいつも女とじゃれているか、酒を飲んでいるかで、とにかく誰もグリフォーがトレーニングしている姿を見たものはいなかった。

 1893年に24歳のグリフォーはオーストラリアから米国に「最強を証明するために」渡ってきた。すでにシドニーやメルボルンで百戦以上を闘って無敗のグリフォーは、本場アメリカの強豪をもことごとく翻弄した。偉大なる世界フェザー級王者ジョージ・ディクソンや同じくライト級の伝説的王者ジョージ・キッド・レービンとは引き分けたに終わったが、内容はグリフォー有利だった。あまりに変幻自在なグリフォーのボクシングを、ジャッジがどう評価してよいかわからなかったのだとも伝えられる。

 グリフォーの運命的なファイトは、のちの世界ライト級王者にして“リングのナポレオン”ジャック・マコーリフェと戦った全米ライト級戦だ。10ラウンドにわたって、グリフォーはマコーリフェを小突きまわした。ジャブ、フック、アッパー、およそボクシングの知るあらゆるパンチが、王者の顔面、ボディーを襲った。しかし、試合終了後、マコーリフェの親友でもあったレフェリーのマキシー・ムーアは王者の手を上げるとさっさと帰ってしまったのである。

「レフェリーには勝てないからな」。試合後、無念をかみ殺して語ったグリフォーだったが、生涯初の「黒星」は、彼の心をいたく傷つけた。もともと「酒と女がいれば人生に満足できるタチ」だったグリフォーは、なかなか正当に評価してくれないアメリカのリングに嫌気がさしてしまい、ますます酒におぼれていった。試合当日まで飲んでいて、酒場から無理やり試合場に連れてこられたものの、初回でグローブを投げ捨てて帰ってしまったことさえある。

 ジーン・タニーに「死神にしか彼を殴れない」とまで言わせたグリフォーは、結局メジャー王座に手をかけることはなかった。1927年、偉大なるグリフォーはニューヨークの地下室で死んだ。葬儀は、大プロモーター、テックス・リカードからの匿名寄付で盛大に行われたという。

●ヤング・グリフォー 1869年4月15日、オーストラリア・ソファラ生まれ。本名アルバート・グリフィス。86年デビュー。89年豪州フェザー級王座獲得。90年、ビリー・マーフィにKO勝ちでニュージーランド認定世界フェザー級王座獲得。1度防衛後、93年渡米。94年から95年にかけ、ディクソンと3度、レービンと2度、ガンスと1度引き分けた。173戦69勝20KO43分48無判定1無効試合。
  

 

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