ハリー・グレブ Harry Greb

mario kumekawa

 1926年10月22日、32年間猛烈に回転し続けてきた風車が突然止まった。鼻の骨の破片を取り除く手術の失敗で、前世界ミドル級チャンピオン、ハリー・グレブが早すぎる死を遂げたのだ。

 この不幸な手術の前、医師はグレブから驚くべきことを告げられていた。この、ボクシング史上最大級の怪物ボクサーは、その13年間、294戦におよぶキャリアの後半の試合を(すなわちすべての世界タイトル戦もふくめて)片目で戦っていたというのである。

 死の年、グレブは当時としては抜群のスピード・ボクサーだったタイガー・フラワーズをとらえきれず、世界ミドル級王座を追われていた。グレブは、砕けた鼻骨が目に食い込んで視界をふさいでいたのを手術によって除去し、フラワーズに雪辱しようと考えていたのである。

 グレブの目の秘密を聞いて、誰もが驚きを隠せなかった。「ピッツバーグの人間風車」の戦いぶりはそれほどブリリアントで、狡猾で、見事だったのだ。  一発必倒のパンチャーでこそなかったが、ボクシングのあらゆるテクニックに通じていた。トリッキーな動きを幻惑的に用い、どんな角度からでも威力のあるパンチを打ちこむことができた。反則ワザも自在に使え、「ダーティ・ファイター」とも呼ばれたが、ボクシング史上3番目に多い294試合を戦って、反則負けは1度しかない。戦績は112勝8敗3分1無効試合、さらに170試合の無判定試合を戦い、ほぼすべてのファイトにに事実上勝利していた。

 グレブの数多い名勝負の中でも、最大のものとされるのが、22年5月23日に行われたジーン・タニーとの全米L・ヘビー級タイトルマッチだ。後に世界ヘビー級王者として史上屈指テクニシャンとの評価を受けることになるタニーを、グレブは持ち前の荒くれファイトで翻弄したのだ。

 ナチュラルなミドル級だったグレブは、体格、パワーの点では明らかに不利があった。だが、グレブは激しく、かつ頭脳的な動きで若いタニーの神経をかき乱した。あらゆる角度からのショートブロー、時折頭突きや肘打ちさえ交えながらのラフファイトに、インテリ・ボクサー、タニーは消耗していった。15ラウンズを戦い抜いてグレブの手が挙がったこの試合は、リング史のもうひとりの巨人ジーン・タニーが生涯に喫した唯一の敗北としても記憶されている。  グレブはトレーニングを全くしなかった。怠惰なボクサーだったというわけではない。平均して年間22試合をこなし続けたグレブにとって、実戦がトレーニングだったのだ。試合以外の時間は、何人ものガールフレンドを連れてドライブをし、時々喧嘩もするというのがグレブの日常だった。

 グレブは、1度だけロンドンのアルバート・ホールのリングに上がり行儀の良い英国ボクシングファンの不興を買った以外は、海外では試合をしなかった。だが、逆に米国内では「グレブが上がらなかったリングはない」と言われるほど旅をし、戦い続けた。

 そして不敵な態度と“ダーティ”な試合ぶりで、グレブはどこの町でもヒールとしてリングに上がった。入場するときも、相手を血祭りにあげて引き上げるときも、彼の背中にはブーイングが投げつけられた。グレブはそんな役回りをひどく気に入っていた。

 1894年、ピッツバーグでハンガリー系移民の子として生まれたエドワード・ヘンリー・バーグは、生まれながらのファイターだった。幼い頃、母親さえ殴りつけて顔にあざを作らせたというエピソードも残っている。

 16歳になった時、ヘンリー・バーグは姓(Berg)を逆さ読みしてハリー・グレブとなのり、各地のプロモーターに自分をプライズ・ファイターとして使うよう売込みを始めた。精力的にリングに上がり続けたグレブは、デビュー2年で30戦以上をこなし、完成されたファイターになっていた。

素人目には荒っぽいだけに見えたグレブのボクシングは、数多くの実戦によって緻密に作り上げられた戦術の複合体だった。タニーだけではなく、マイク・マクタイグ、トミー・ローラン、ミッキー・ウォーカー、バトリング・レビンスキー、ガンボート・スミス、アル・マッコイといった、ミドルからヘビーまでの当時一流のファイターたちがグレブの魔手にからめとられていった。 世界王座にたどり着いたのは23年8月。ジョニー・ウィルソンを判定に下しての戴冠だったが、すでに200戦以上をこなしていた(そして左目の視力を失っていた)。

 おそらく、世界王座を3年間で6度守った頃のグレブは、当然視力のハンディもあって全盛ではなかっただろうが、それでも強豪をしりぞけ続けた。  とりわけ伝説となっているのが、のちにウェルター&ミドル級二冠王となる“トーイ・ブルドッグ”ミッキー・ウォーカーを迎えての防衛戦だ。ともに歴史に名高い獰猛なラフファイター。息次ぐ間もなく15回を打ち合った戦いは、とりあえずレフェリーがグレブの手をあげることで終わった。だが、グレブとウォーカーがどこかで顔を合わせようものなら、どこであれ「続き」がはじまったという。

 無敵のヘビー級王者ジャック・デンプシー打倒の一番手とさえ考えられたこともあるグレブだが、これは実現しなかった。

 文豪にして熱烈なボクシングファンでもあったヘミングウェイは、「ハリー・グレブを知らないということは、我々の時代の最も偉大なアメリカ人を知らないということだ」とこの英雄を称えている。

●ハリー・グレブ 1894年6月6日ピッツバーグ生まれ。本名エドワード・ヘンリー・バーグ。1913年デビュー。この年、ジョー・チップにKO負けを喫するが、以後2度とストップされることはなかった。23年8月ジョニー・ウィルソンに15回判定勝ちで世界ミドル級王者。以後6度防衛するが、26年2月タイガー・フラワーズに判定負けで王座を失い、再戦でも判定で敗れた。294戦112勝8敗3分1無効試合170無判定試合。  


別冊表紙へ