ボブ・フィッツシモンズ

Bob Fitzsimmons

 

  ボブ・フィッツシモンズは一見すると風采の上がらぬ男だった。やせっぽちの体にはコイン大のそばかすが点々、極端に小さな頭には申し訳程度に赤毛がこびりついていた。

 だが、この体重わずか170ポンド(77キロ)ほどの“そばかすボブ”こそが、第3代世界ヘビー級チャンピオンにして最初の三階級制覇者だった。見る目を持った人がフィッツシモンズの体を見たら、彼がただものではないことに気づいたことだろう。ヘビー級としてはやせっぽちだが、肩幅が異様に広く、怪鳥か何かのようにぶ厚い筋肉が盛り上がっていた(実際、彼のもうひとつのあだ名は“砂丘の鶴”だった)。

 この特異な肉体は、フィッツシモンズが長年鍛冶屋としてハンマーを振るいつづける生活によって作り上げたものだ。ウェイトトレーニングなどで促成したものではない。
 この筋肉から、フィッツシモンズは最大限の力をひきだした。自分よりもはるかに大きな男たちを倒すために、全身のパワーをもっとも小さく、最も凶悪なブローへと凝縮したのである。現在で言うところの左フックだった。フィッツシモンズは、ボクシング史上初めて、左ショートフックの持つ戦略的な意義をはっきり意識したファイターだったろう。

 この左フックで大男たちをなぎたおしたフィッツシモンズは「大きい奴ほど激しく倒れる」の名言を吐いた。“フィッツ”とはアイルランドの伝説によれば「神の左手」という意味だというが、フィッツシモンズの左手にはまさに神、さもなくば悪魔が宿っていた。

 フィッツシモンズが放った強烈な左フックの中でも最も有名なパンチは、1897年、世界ヘビー級王者ジム・コーベットに対した放ったものだろう。当時フィッツシモンズは世界ミドル級王者。ミドル級の名王者“ノンパレイル”ジャック・デンプシーを13回TKOに降した後、ヘビー級強豪ピーター・メイハーをも初回で粉砕した勝利が評価されて、チャンスが巡ってきたのだった。

 だが、さすがにコーベットは強かった。軽いフットワークに乗せた矢継ぎ早のパンチで、フィッツシモンズはたちまち顔面を流血させられる。6回には、コーベットのアッパーを食って、相手の膝にしがみつかなければ立っていられないほどの窮地に陥った。

 この時フィッツシモンズはすでに35歳。「やはりミスマッチだったか」の声も出始めたが、老雄はここから粘りに粘った。いつしかラウンドは14回を数え、コーベットもさすがに疲労の色を見せ始めた。そこで、コーナー下からフィッツシモンズの女房兼スパーリング・パートナー(と言われるが、本当だろうか? )のローズが叫んだ。「コーベットの顔を打っても駄目! ボディーを打つのよ、ボブ。そこが奴の弱点よ! 」

 フィッツシモンズの右がヒットしてコーベットが一瞬たじろくと、突然挑戦者は左右のスタンスをスイッチ。がら空きになったコーベットのボディに特異の左フックを思うさまめり込ませた。みぞおちのど真ん中に、フィッツシモンズのベストショットが決まったのだから“鉄腕ジム”とてたまらない。立ちあがろうともがいたが、ついにカウントアウトされた。かくして、レノックス・ルイスとフランク・ブルーノの出現までは英国人として唯一だった世界ヘビー級王者が誕生した。

 だが、初防衛戦で迎えた無敗の挑戦者、ジェームズ・J・ジェフリーズは190センチ、100キロと、当時としては怪物的な巨体の持ち主だった。フィッツシモンズは渾身のブローを打ちこんだが、逆に両拳を骨折した挙句、11回TKOで敗れ去る。
 それでもなおジェフリーズへの雪辱戦を画策したのがまたフィッツシモンズの凄いところだ。だが結局、新設されたL・ヘビー級王者ジョージ・ガードナーに挑戦することになり、20回KOで王座を奪取してしまう。41歳にして、史上初の三階級制覇をなしとげたのだった。

●ボブ・フィッツシモンズ 1863年5月26日イギリス・コーンウォール生まれ。本名ロバート・ジェームズ・フィッツシモンズ。91年ノンパレイル・ジャック・デンプシーに13回KO勝ちで世界ミドル級王座獲得。97年ジム・コーベットに14回KO勝ちで世界ヘビー級王座獲得。03年にガードナーにKO勝ちで世界L・ヘビー級王座獲得。17年に亡くなる3年前までリングに上がった。

 

 

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