ジャック・デンプシー Jack Dempsey

mario kumekawa

 圧倒的な強打によるカタルシス。とりわけヘビー級におけるそれは、やはりボクシングの最大の魅力のひとつだ。ルイス、マルシアノ、リストン、フォアマン、そしてタイソン……、神話的なまでのハンマーパンチャーは、リングの中で圧倒的な輝きを放つ。

 そしてジャック・デンプシーこそが、ボクシングにスラッガーの魅力をもたらした前衛だった。デンプシー以前には、「KOキング」は存在しなかったのである。

 たしかに、サリバンやジェフリーズ、ジャック・ジョンソンらは破格のパワーを持っていた。しかし、彼らはまだ19世紀的な重心を後ろに残したスタイルで、力感こそあれ一打必倒ではなかった。

 ジャック・デンプシーを待ってはじめて、前傾姿勢から全体重を拳に乗せて打ち抜く真のスラッガー・スタイルが出現した。1919年のアメリカ独立記念日、デンプシーがジェス・ウィラードを3回KOに破って世界ヘビー級王座についたとき、世界の受けた衝撃ははかりしれない。

 ジャック・ジョンソンをKOした史上最巨漢(当時)の王者ウィラードに、デンプシーは激しくローリングしながら近づいた。そして、誰も見たこともがないようなスピードと威力を持ったブローで、初回だけで7度のダウンを奪ったのである。1回終了のゴングを試合終了と勘違いしたデンプシーは意気揚々と控え室に引き上げてしまったが、呼び戻されるとさらに巨人を滅多打ちにした。

 この時のデンプシーのパンチが「あまりに効きすぎる」として、しばらくの間「デンプシーのグローブには石が仕込まれていた」「いや、コンクリートだ」といった疑惑が何度か囁かれることになった。しかし、“マナッサの巨人殺し”は、革命的なパンチを放っていたのだ。

 しかし、野球のベーブ・ルースらと並んでデンプシーが「アメリカン・スポーツの黄金時代」を現出することができたのは、画期的な攻撃スタイルだけが理由ではない。若き辣腕マネジャー、ドク・カーンズが、ボクシング界最初の超大物プロモーター、テックス・リカードと組んでデンプシーのヘビー級戦を一大エンターテイメントに仕立て上げたのだ。

 まずリカードは、L・ヘビー級でありながら欧州のヘビー級トップボクサーをことごとく打ち破ったフランス人ジョルジュ・カルパンティエをデンプシーの挑戦者として招聘する。21年7月にジャージーシティで行われたこの試合は8万人(東京ドーム満員が約5万人)という記録的な観客を集めた。

“蘭の男”と異名を取るカルパンティエはシャープな体さばきとパンチの切れ味を持っていたが、デンプシーにはまったく通じなかった。タフなデンプシーは、カルパンティエのパンチを平気で受け止め、4回KOで粉砕した。

 カーンズ&リカード・コンビは、次なる「世紀の対決」の相手として、南米アルゼンチンから“猛牛”ルイス・フィルポを呼んだ。フィルポはカルパンティエとは正反対に、ボクシングは下手だが圧倒的な体力とパワーを持っていた。

 8万2千人の大観衆の前でデンプシーは攻めまくり、初回だけで7度も猛牛をマットに這わせた。しかし、落とし穴が待っていた。いささか打ち疲れたデンプシーの顔面にフィルポのヘビーブローがヒット、軽いダウンの後、さらに追撃を受けてロープの間からリング下に叩き落されてしまった。

 当時貴重品だったタイプライターを守ろうと、記者たちがデンプシーの体を持ち上げなければ、カウント内にリング上に戻れたかどうかはわからない。しかし、とにかくファイトを再開できたデンプシーは、続く2回ふたたび圧倒的な攻勢をしかけ、フィルポを失神させてしまった。

 カルパンティエ戦とフィルポ戦でスーパースターの座を完全にしたデンプシーだが、目ぼしい挑戦者もいなくなってしまった。人気女優エステル・テーラーと結婚もしたデンプシーは、戦う動機も失い、ヘビー級王座を保持したまま3年間のブランクを作った。

 デンプシーはもう双六を「あがって」しまっていた。26年、海兵隊上がりのジーン・タニーが満を持してデンプシーに挑戦しようとしたとき、王者側が世界戦としては異例の10ラウンズ制を要求したのは、もはやデンプシーには15ラウンズを戦う自信がなかったからだった。結果、10万4943人の記録的大観衆の前で、シャープで頭脳的なタニーはデンプシーを判定でくだした。

 1年後に再戦が行われた(またも10回戦)。今度もデンプシーは苦戦だった。だが7回、必死のデンプシーはタニーをロープ際に追いつめ、最高の連打を爆発させた。たまらず倒れるタニー。だが、レフェリーがカウントを始めようとしない。頭に血が上ったデンプシーは、「相手がダウンしたらニュートラル・コーナーにさがる」という新ルールをすっかり忘れていた。結局、タニーが倒れてから立ち上がるまでゆうに14秒は経過していた。KO負けをまぬがれ、若干回復もしたタニーはまたも判定勝ちをものにしたのである。

 デンプシーがタニーを決定的にマットに沈めようと待っていた数秒間の間に、「アメリカンスポーツの黄金時代」は永遠に去っていった。だが、「本当は返り咲いていたチャンピオン」として、ジャック・デンプシーの伝説はいまや完成をみたのだ。またも敗者としてリングを去るデンプシーの背中には、全盛期にもなかったほどのスタンディング・オベーションがふりそそがれ、それは彼の死の日まで止むことはなかった。

●ジャック・デンプシー 1895年コロラド州生まれ、本名ウィリアム・ハリソン・デンプシー。“ジャック”のリングネームは少年時あこがれていた初代世界ミドル級王者ノンパレル・ジャック・デンプシーにちなんだもの。19歳の時、地元の鉛山で働き始めるが、同時にプロボクシングの誘いも受け、リングに上がり始める。ジム・フリンに初回KO負けなどの挫折を味わいながらも、徐々に評判を高め、19年にウィラードをKOして世界ヘビー級王座を獲得、5度防衛。引退後はレストランなどを経営していた。83年5月31日死去。


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