テクノロジーが高度に発達した現代でも、スポーツの審判のほとんどはコンピュータなどではなく、人間によってなされる。人間が決定をくだすことの難しさと素晴らしさは、ボクシングに尽きせぬ魅力を与える要因のひとつだ(オリンピックの採点方法は最低だ)。
だが、人間が判断をくだす以上、「ミスジャッジ」の危険性を言いたくなることもある。実際、「そりゃないぜ」と言いたくなるレフェリングや採点はほぼ毎週のように目撃する。
しかし、あえて言いたい。ミスジャッジというものは本当は存在し得ない。審判が下したジャッジメントはつねに「正しい」のだ。 仮に、レフェリーの判断よりも「客観的な真実」が存在するとしよう。その「真実」に照らし合わせて、レフェリーの判断の可否が問われるような。しかし、その真実はどこにあるのだ? どうやって見つけ出せばいいのだ? 観衆も、マスコミも、絶対的な根拠をもって「真実」を提示することはできないはずだ。
スポーツの試合は、審判のくだすジャッジメントを唯一絶対の真実と「仮定」することで成立する。それはたしかに「仮定」だが、取り替えの聞かない「仮定」だ。「私がルールだ」という野球の審判の格言は絶対に正しい。
それだけに、レフェリーとジャッジには、ある崇高な決意が求められる。相撲の立行司は、短剣を呑んで土俵に上がる。「ミスジャッジ」をしでかしたら、その場で切腹して果てるためだ。無論、儀式的なものだが、そこに込められた思想は核心をついている。
ボクシングのジャッジには「物言い」はつけられない。それだけに、審判の責任はより重大だ。「現人神」として人を裁くという重責を担う決意のない人間は、絶対に審判をしてはならない。
「ルイス−ホリフィールド戦での私の採点は間違っていたかもしれない」と言ったラリー・オコーネル氏は、「可能な限り誠実に採点したのだが」というただし書きつきだとしても、やはり言ってはならないことを言ったのだ。
ボクサーや試合の「評価」をするのはファンだ。けれども、勝敗を決めるのはあくまでも審判しかいないのである。
(99年5月)
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