ボクシングというものは恐ろしいことに、より強く勝利を望んでいるボクサーが勝つようだ。自分の意志を絶対にリング上に実現しようという、神的なまでの決意こそボクシングの本質なのだろう。
浜田剛史がアルレドンドに挑戦した時、僕は混乱していた。拳の致命的な故障を乗り越えようとした浜田の超人的な努力は、誰もが知っていた。勝ってほしい。だが僕には、テクニック、体格、スピード、そしてパワーさえ、浜田が優っている点は見つからなかった。
しかしアルレドンドは、初回の終了間際、赤コーナー下に沈んだ。直後、長野ハル帝拳ジムマネジャーがもらした言葉が忘れられない。「この子がチャンピオンになれないのなら、神様はいない」。つねに努力が報われるのなら、この世はもっとましで、ただし退屈なものになっているだろう。だが、リングという祝祭空間では、神はより必要とする者に勝利を与える。
たぶん、マイク・タイソンほど勝利を必要としたヘビー級ボクサーはいなかった。だから、大男たちが小猫のように逃げ惑うたのだろう。「ボクシングとは、互いの意志を押しつけあうことだ」と言い切ったホリフィールドだからこそ、このタイソンに破綻を生ぜしめたのだ。ホリフィールドはけして宗教的人格ではない。むしろ、(アリ同様)一個の強烈なエゴだ。むしろそれだけに、「意志」というものの持つ神的な意義を、タイソンよりも深く理解しえたのだ。
オスカー・デラホーヤとアイク・クォーティの間には、人知で判定できるような優劣は存在しなかった。かりにあったとすれば、より優れていたのはクォーティだったろう。デラホーヤはもとより才能に恵まれたボクサーではない。
最終12ラウンド、起死回生(事実上そう言えるだろう)の左フックを決めたのは、デラホーヤの勝利への飢餓感だったろう。だが、ダウンの後のすべてを投げつけるようなラッシュも、クォーティの毒針のような右カウンター一発で止められてしまった。
最後のデラホーヤの沈黙はガス欠ではない。クォーティの執念は、最後の「大逆転ブロー」を決めたのだ。それでも倒れなかったデラホーヤに、とうとう勝利の女神は操を許したのだろう。(99年4月)
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