敗れる姿もまた華

 

by mario kumekawa

 

ボクシングは命を落とすことさえある格闘技であるから、気やすくこんなことを言ってはいけないのだが、やはり「負けっぷり」というものもある。負けた姿もまた、名シーンとして長くファンの心に残る敗者がいるのだ。

柴田国明がベン・ビラフロアやクレメンテ・サンチェスのワンパンチで2度沈んだシーンは、彼の勝利パターンと並んで、この天才パンチャーのスリリングさ、ドラマチックさを堪能させてくれた。

輪島巧一は、動かぬ手足を必死に鼓舞しながらも、とうとうオスカー・アルバラードの重いパンチに沈められた。おそろしく変形した血みどろの顔で、ぴくりともせず横たわる輪島の姿は、ここまでされねば倒れない勝負師の執念の恐ろしさを物語っていた。

苦戦の連続ながら絶対に敗北を拒み続けた鬼塚勝也が、李炯哲の猛攻を受けて、ついに表情から闘気を失った時、僕は彼への感謝の気持ちで一杯になった。鬼塚が燃焼して見せてくれたものの大きさ、凄さが、ドラマの完結によって一気に胸に迫ってきたのだ。

辰吉がウィラポンに敗れたシーンも(もっと早く止めるべきだったという議論を別問題とすれば)、辰吉らしい、華と凄みのある散り方だった。ウィラポン渾身のコンビネーションを5発、10発と打ち込まれ、とうに意識を失っていたらしい辰吉だが、マットに倒れることをなおも拒み続けた。

万事休すとレフェリーが飛び込んだとき、辰吉はもうこらえきれずゆっくりと仰向けに沈んだ。だが、ウィラポンの攻撃が途切れたことを鋭く感知した彼の左腕は、倒れ行く肉体からなお左フックの亡霊となってくり出されていた。

その昔、ホセ・メデルの破壊的右を受けてマットに沈む最中にも右フックを振っていたファイティング原田の姿を、辰吉に重ね見たウォッチャーは僕だけだろうか?

優れたボクサーは、敗れるときにさえ強烈な表現力を発揮する。それはしばしば、勝利のそれをさえ凌駕するのだ。ボクサーのキャリアに、ハッピーエンドはまずない。そして、応援している選手が負けるのを見るのは悲しい。けれども、僕らは傷ついた彼らがマットを降りるその後ろ姿からも、たしかに贈り物を受け取っている。 (99年3月)


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