ボクシングはすべて特別番組だ

 

by mario kumekawa

 

 現今のメディアにおける「演出」は、たいていが既成のものの使いまわしである。女性スポーツ選手や有名企業のOLがセクシーな写真のモデルになっているとしても(いきなり妙な例ですみません)、そこで用いられている美的手段は、かつてどこかで見たことがあるものばかりだ。

 背の高いバレーボール選手は外人モデルか前田ビバリ(字を忘れた)風に、意外に豊満な人は巨乳タレント風にという感じで、素材そのものを最高に生かそうという姿勢が見られないものがほとんどである。それでどうにか「商品」になっているところに、今日のマニュアルというものの完成度の高さとつまらなさを感じる。

 ふりかえって、わがプロボクシングのTV中継である。さすがに特番のときはその都度タイトルバックなどを(どうしようもなく子供だましのCGであることがほとんどとはいえ)作ってくれるが、定期番組の時はいつも同じ始まり方である。カードがテロップで流れるまで視聴者は誰と誰が戦うのかわからない。

 これでいいはずがない。プロボクシングの最大の魅力存在意義は、「コトの重大さ」だからだ。ボクシングに関する限り、たとえ定期番組であっても、その意識においては「特別番組」でなくてはならないのだ。

 たとえば、ジェス・マーカ対岡本泰治戦。日本のバンタムの俊英たちが越すに越せない「東洋の箱根」マーカ。日本ボクシング界の宿敵ともいうべきこの比国人に、異才・岡本が挑むわけだ。31歳ながら大きなポテンシャルを感じさせる岡本がマーカ越えを果たせば、一気に「ポスト辰吉」の本命に踊り出ることになる。そんな一戦のとてつもない重大さを、TVの画面でも表現してほしいのだ(本誌発売時には手遅れだろうが)。

 待ちに待って、テレビのスイッチを入れた瞬間、最初に画面に映るのは、気の抜けたビールみたいなCGであってはならない。

 ボクシングはドラマやバラエティとは違うのだ。一期一会の緊迫感において、他のスポーツとさえはっきり一線を画する。戦う2人だけをひたすら映し出してくれれば、おのずと究極のライブ感が得られるはずだ。(99年7月)


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