日本人スポーツマンの幼稚

 

by mario kumekawa

 

マグワイアとソーサのホームラン・ダービーは、その壮麗なアーチ合戦はもちろんのこと、メディアを通じてかわされるフェアなエールの交換もファンを喜ばせた。

「サミーがいるからここまでこられた。できれば、同じ本数で終わりたい」、「マーク、君なら70本打てると思っていたよ。おめでとう」といった具合だった。

良い子ちゃん的発言すぎる、内面ではもっとどろどろしたものがあるはずだ、と言う人もいる。妄念が渦巻くのは当然だ。バットに生涯を賭けた勝負師たちなのだから。しかし、どろどろしたものを抱えつつも爽やかな言葉を交換したことをこそ、「見事」というべきではなかろうか。

ふり返って、畑山隆則が崔龍洙と再び戦う直前のリング上、崔から贈られた花束を侮蔑の笑みとともに投げ捨てたシーンがどうにも忘れられない。きれいごと抜きの苛烈な戦いの前だとしても、してはいけないことはあるはずだ。

チャンピオンはリング上で最も尊敬されるべき存在である。まして崔は、7度もの防衛に成功した大チャンピオンだ。敬意というものを欠いてしまえば、どれほどの高度な技巧があろうともボクシングはただの殴り合いに過ぎない。畑山は自らの見事な勝利にあらかじめ泥を塗ってしまった。

思えば、現在の日本を代表するスポーツ選手には、極端に公共性を欠く、子供じみた言動を繰り返す人間があまりにも多い。サッカーの中田英寿の報道陣罵倒、相撲の貴乃花の師匠や兄に対する暴言、 上げればきりがないほどだ。

彼らをモハメド・アリやジャック・ジョンソンのような命賭けの反逆者たちとは比較できない。畑山や中田、貴乃花らは単に幼稚なのである。

若い彼らが歪んでしまっているのは、マスコミの責任も大きい。無神経かつ不勉強としか言いようのない記者の質問が、身をすり減らす戦いをしている選手をひどく苦しめているシーンは、僕自身イヤというほど目にしている。

もう一度、いや「初めて」なのかもしれない、選手とマスコミとファンの、健康なコミュニティーを築き上げなければならない。個人を殺さずに、しかし血の通った言葉を共有できるような。(98年11月)


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