マリオのイラスト(?)コラム

『ワールド・ボクシング』誌に連載しているコラムのバックナンバーです。本誌では、へたくそな自作イラストをカットに入れて、
「イラスト・コラム」とうそぶいているのですが、まだスキャンの環境が整備されてないので、テキストのみで失礼します。

 

●ボクシングという「自分探し」

 20世紀最後の年の日本ボクシング界の主役は、地味な苦労人たちだった。セレス小林は、事実上の世界奪取をなしとげたし(実際は採点ミスでドロー)、星野敬太郎は史上最年長の世界タイトル初獲得の日本記録を作った。
 3年前、誰が彼らの快挙を予想し得ただろう。しかし、昨年彼らがリング上で見せたパフォーマンスは、「まぐれ」とか「時の勢い」という概念とはおよそ正反対で、恐ろしくリアリティーに満ちていた。本物だった。
 ボクシングというのは、なんとも完成度の高い格闘技だ。ふたつの拳だけを使う、極端にシンプルなスポーツでありながら、人間の「あらゆる」能力と情念を要求し、飲みこみ、また表現もする。だから、ボクシングの絶対的な「天賦」というものはないのだろう。
「素質」などというものは、ボクサーの成長にとっては、意外なほど小さな役割しか果たさない。黒人も、白人も、東洋人も、大男も小男も、スポーツ万能の人も、運動会でビリだった人でも、一流ボクサーになる可能性がある。それぞれの実例も、いくらでもある。
 その意味で、ボクシングは、ある種の「自分探し」と言えるかもしれない。自分の肉体と精神にかなった「スタイル」を見出し、それを確たるものに磨き上げることのできるボクサーが、敵をも制することになるのだ。「ボクシングとは、結局のところ、意志の押し付け合いだ」と言ったイベンダー・ホリフィールドも、ヘビーウェイトとしてはけして素質に恵まれてはいなかった。
 人間のメカニカルな側面がより重視されるスポーツ、たとえば体操や陸上競技、競泳などだったら、星野敬太郎のような素質の選手が名護明彦のような俊才よりも上に行くということは、はるかに稀なのではなかろうか。やはり格闘技、とりわけプロボクシングこそが、スポーツの中でもすぐれて全人的な表現に到達しているのだ。
 21世紀は、ますます世界の技術化と均一化が進むのだろう。人々はさまざまな共同体から解き放たれ、「自分は何か」とより深刻に問わなければならなくなるのではないだろうか――。ボクシングという「野蛮」なスポーツを、まだ僕たちは必要としている。(2001年2月)

●ラテンの天才のスタイル

 S・ウェルター級注目の一戦は、トリニダードが見事なTKO勝ちを飾った。これで、約1年の間に、デラホーヤ、リード、バルガスと、3人の無敗の世界王者、2人の金メダリストを破ったことになる。
 まさにゴージャスな対戦相手を連破してきたわけで、現在最高のボクサーと言っていいだろう(ロイ・ジョーンズの依然として圧倒的なパフォーマンスも看過できないが、対戦相手の質が違う)。
 今後はミドル級に進出し、まずはジョッピーのWBA王座を狙うというが、かなり有望そうだ。そんなトリニダードの図抜けた強さと安定感は、彼のスタイルによるところが大きいように思う。彼は典型的なラテンの天才タイプだ。すなわち、決して才能のみに頼らず、基本テクニックを重視し、きわめてトラディショナルなボクシングに徹している。逆にそれがますます彼のパンチ力やディフェンス力を増幅してもいる。
 北米の天才的ボクサーは、自らの天賦のスピードや勘に強く依存したスタイルになることが多い。アリやレナードのボクシングを凡庸なファイターが真似をしても、ろくなことにはならない。
 その点、プエルトリコやベネズエラ、あるいはアマのキューバのボクシングは、きわめてハイレベルでありながら、すべてはオーソドックスな基本技の延長線上にある(メキシコは色々なのがいる)。しっかりアゴの前にそろったガード、標的までの最短距離の軌道をトレースする左ジャブや左フック、肩や腰の回転が効いた右ストレート、左右アッパー……。
 すべてがクラシックなまでに基本通りだ。これなら、学習するに値する。……だが、これがまた真似できないのである。おそらく、ほとんどのボクサーは、基本的動作の有効性を感じつつも、それが完璧には遂行できないため、次善の方法として「それなり」にボクシングを崩していくのだろう(辰吉が結局ガードを上げなかったのも、そういうことだと思う)。
 子供の頃からボクシングに親しんでいる上、優れた指導者の多い中南米で育ったボクサーだけが、ああいう王道のボクシングをすることができるのだろうか。もしそうだとすれば、日本人が乗り越えねばならぬ壁はやはり高い……。(2001年1月)

●なぜ再戦を望まないのか?

 畑山と坂本の壮麗な激闘はまさに名勝負だった。しかし、時とともに僕の頭にはひとつの疑問がうかんでくる。「なぜ誰も再戦を期待しないのか? 」と。
 坂本本人は「やるか? 」と聞かれれば「やりたい」と言うに決まっているだろう。畑山が「2度とやりたくない」と言ったのは、本音だったにせよ、敗者への外交辞令だったにせよ、理解できる。
 問題は周囲だ。関係者やファンの間からは、「もう世界は無理」という声が聞こえてくることはあっても、「もう一丁やらせたい」と言う提案は出てこない。
 たしかに、坂本は劣勢の打ち合いに耐えて耐えて、ついに刀折れ矢尽きる形でマットに転がった。その印象が強いから、「もう一度」という声がかけづらい気持ちはわかる。しかし、ボクシングの歴史を見れば、名勝負には再戦がほとんどつきものだ。20度も戦ったウェルター級世界王者同士のブリットン‐ルイス戦をはじめ、サドラー‐ペップ、ゼール‐グラジアノ、アリ‐フレージャーなど、3度以上のライバル対決も枚挙にいとまがないほどだ。その中には、初戦で一方的にKOされたボクサーが見事に雪辱した試合も珍しくない。
 たとえ結果が同じでも内容が良ければ再戦する価値はある(ジョフレ−メデル戦など)と思うが、坂本の場合は、雪辱できる可能性さえ(無論そんなに大きくはないだろうが)あると思う。坂本は依然として衰えている点よりは向上している面の方が多いし、戦法も、今回の試合とは全く違うアプローチが考えうるからだ。
 たとえば、今回の「デトロイト・スタイルのファイター」という戦術は、勇気のある賭けだったが、明らかに失策だった。あれだけ右を食いつづければ、坂本でも倒れるということが証明されただけだ。スピードで劣るパワーファイターが取りうる常道は、むしろムーアやフォアマンのような「アルマジロ・スタイル」だろう。
「どれほど打たれようとも,俺は倒れない」という美しい信念を砕かれた今、坂本は逆に生まれ変われる可能性がある。
 かつての輪島功一のように、リアルで戦術的な思考ができれば、坂本の再チャレンジは無謀でもミスマッチでもない。(2000年12月)

●大いなる和解のために

 洪(徳山)昌守‐名護明彦のWBC世界S・フライ級戦は、周知のように、単なる日本人同士の世界戦ではない。過去にも「在日」の世界王者はいたが、それを誇らしく公言した「徳山」こと洪は新しい時代を切り拓いたのだ。
 洪が゙仁柱に挑んだ試合では、洪のリング入場の際はもとより、会場のいたるところで北朝鮮国旗や朝鮮統一旗がはためいていた。試合前には、両選手のために朝鮮統一歌がデュエットされ、「会場国として」君が代が演奏された。これはこれで、とてもよかったと思う。「朝鮮人同士」の激闘は、敵味方を超えて、民族の絆を確認させただろう。
 おそらくテレビで全国ネットされることになる今回のタイトルマッチでは、ことは前回よりもややこしいかもしれない。強烈な政治メッセージを持つ統一旗や統一歌をテレビ局は敬遠し、旗は画面に映さず、統一歌の間はCMが流されるかもしれない。ここはしかし、シドニー五輪の開会&閉会式での「南北同時行進」も日本のテレビで放映された以上、すべてをオープンにしてもらいたい。
 もちろん、政治的なことだけに気楽にもなれない。和解ムードが高まる南北朝鮮だが、朝鮮戦争は依然として「休戦」状態なのだ。日本と朝鮮の間でも、テロや拉致の問題も決着がついていないし、歴史認識や地方自治体参政権をめぐる重い議論もある。
 だが、スポーツこそ、不幸な過去を持つ民族同士を恩讐のかなたに導くものだ。洪、名護両選手には、重苦しい政治の壁を突き破って、3つの国家と2つの民族が(琉球民族は大和民族とは違うというなら、3つの民族)、互いに尊敬を深めるきっかけとなるような試合を期待したい。
 イデオロギーや宗教、国家体制の違う異国にも、畏敬すべき魂が存在することを僕たちに教えてくれるのがスポーツや芸術だ。かつてモハメド・アリは共産圏の若者たちをも魅了したし、テオフィロ・ステベンソンは「アカ」嫌いのアメリカ人にも共産主義国の人間を崇敬することを教えた。
 洪と名護、ふたりの英雄による晴れやかな激闘が、極東アジアが大いなる和解の世紀へと踏み出すための灯火となってほしい。(2000年11月)

●本当にそれでいいのですか

 日本王座連続21回防衛の新記録をうち立てたリック吉村がアメリカに帰った。リックが「本職」とする米軍は、彼が日本記録を達成するまでは転勤を猶予していたのだ。めでたく新記録を作った今、軍人フレデリック・ロバーツ(リックの本名)は、新たな任務につかなくてはならない。
 リックがアメリカでもボクシングを続けるかといえば、おそらくその答えは「NO」だろう。30歳をとっくに超えたリックのモチベーションは、日本記録達成であり、坂本博之への雪辱であり、世界王者へのチャレンジだったはずだ。未到達の2つの野望の実現は、アメリカではほぼ不可能だ。ボクサー・リック吉村はこのまま引退する可能性が大きい。
 今、関係者、そしてファンの皆さんにあえて問いたい。「本当に、それでいいのですか? 」と。リックは年齢こそ高いが、今がボクサーとして絶頂かもしれないのだ。記録を達成した大嶋宏成戦では、集中力をもってチューンナップした時のレベルの高さを証明した。 リックが世界を獲れるかどうかは無論わからない。しかし、「世界」のチャンスが与えられるなら、日本ライト級史上屈指のテクニシャン・リックが、生涯でベストのパフォーマンスを見せてくれることは十分に期待できる。
 かつてモハメド・アリは「君たちは、俺が楽々勝っていると思っているだろうが、それは違う。世界ヘビー級王座を目の前にして、死に物狂いにならないボクサーはいないのだから」と語った。また、最近のセレス小林の大健闘、徳山昌守の大金星は、世界戦の舞台がいかにボクサーのポテンシャルを引き出しうるかを見せた。
 外国人であるリックが世界戦に出場するのは、興行的にはたしかに難しい。しかし、リックは「輸入ボクサー」ではなく、日本でプロになり、少しづつ強くなった「純和製」の選手なのである。しかも今、ライト級の世界王座は日本に存在するのである。
 日本王座を21度も守ったボクサーが、外国人だということで日本国内にあるベルトに一度も挑戦できずに終わろうとしている。これは、どんな事情があろうともやはり差別であり、リング史の汚点だ。 今ならまだ間に合うかもしれない。リックの世界戦実現のために動いてくださる人はいませんか?(2000年10月)

●ボクシングと映画

 冤罪を着せられて30年間を獄中で送った元ミドル級強豪ルービン・カーターの半生を描いた映画『ザ・ハリケーン』を見た。
 エミール・グリフィスをもKOで粉砕しながら、世界王座を目前にして牢獄へと消えたカーター。彼の名前とボクサーとしてのキャリアについては逮捕直後から「冤罪ではないか」と話題になっていたから知っているつもりだった。だが、少年院を脱走したカーター少年が陰謀に巻き込まれ、30年を刑務所で過ごした後、16才の黒人少年との友情がきっかけで奇跡的に無実が証明されるまでを入念に描いた映画の印象は圧倒的だった。エンディングのクレジットがすべて流れ終わった後も、僕は泣き腫らした目を他人に見られるのが恥ずかしくて席を立てなかった。
 惜しくも受賞を逃したものの、アカデミー賞の有力候補だった本作は、無論単なるボクシング映画ではない。だが、ボクシング・シーンもじつに良くできていた。
 カーター役の名優デンゼル・ワシントンは知的な美男だが、1年がかりで撮影に備えたそうで、顔ばかりか肉体までも現役時代のカーターそっくりに仕上げていたのには驚いた。とても45歳とは思えない。ファイトの動きも、さすがに「本物のファイトそっくり」とはいかないまでも、カーターのスタイルをよく再現していた。
 ギャラも良いんだろうが、つくづくアメリカの映画俳優というのは凄い。ワシントンは獄中で老いてゆくカーターを演じてもまた鬼気迫るものがあった。
 ボクサーという存在は劇的なものだから、しばしば芝居や映画に登場する。だが、その扱いはなかなか難しい。ボクサーの体や動きの美しさ、知的さ、そして暴力性は、作り物では再現不可能だからだ。僕の知る限りワシントン以外で我慢しないで見ていられたボクサー役は『レイジング・ブル』のロバート・デ・ニーロだけだ。
 しかし、デ・ニーロもワシントンも、べつにボクサー並みの動きをして見せたわけではない。あくまでも彼等の「役者」としての力量の深さがボクシングに迫って見せたのだ。演技という「作り物」がいかにして、あるいは何ゆえに「本物」たりうるのかを、彼らは示しているようにも見えた。(2000年9月)

●スーパー・ナチュラル・クォーティ

 WOWOWの高柳アナウンサーは、アイク・クォーティを愛するあまり数々の迷言を残しているが、じつに嬉しいことだ。たしかに、クォーティこそは、マニアに夢と陶酔を与えるボクサーであろう。
 歴史上まれにみる活況を呈している中量級にあって、クォーティはいささか日陰者になりつつあるのかもしれない。デラホーヤ戦、バルガス戦と連敗を喫しているからしかたがないだろう。
 しかしそれでも、今も「クォーティのボクシングこそ本物」と感じているファンは(僕を含めて)数多くいるはずだ。
 クォーティの魅力は、その「ナチュラルさ」だろう。浜田剛史さんはクォーティの前進を「ぶ厚い壁が迫ってくる」と的確に表現した。だが、その迫る壁の中には、強烈なアフロのリズムが脈打っている。それは、大自然のエネルギーがクォーティの肉体を通じて、歓喜とともに溢れ出ようとしているかのようだ。
 クォーティのリズムは、近代スポーツの要求するそれではない。もっと強烈で、もっと性急で、トーキング・ドラムのように複合的なリズムだ。フラメンコや津軽三味線にも、共通するものがあるような気がする。
 そのエスニックな激辛リズムが、津波のように押し寄せるから「壁」なのだ。「壁」はひとたび機を見出すや、一気に流体へと姿を変える。潜在していたリズムが、蜂の大群のようなブローとなって、相手を包み込んでしまうのだ。
 名王者エスパーニャがなすすべもなく食いちぎられたシーンは、まさに「自然の暴威」とでも呼べそうなものだった。あれは、コンビネーション・ブローなどという科学的なものではなく、ナチュラル・エナジーの爆発だった。
 時折、このアフリカ人はいかにも下手くそにみえる右スイングを空振りして見せる。しかしあれも本当に「下手」なのではない。大自然がときおり見せる、アンバランスな造形のひとつなのだ。
 クォーティは、たしかに2度のビッグマッチに小差判定ながら破れた。しかし、その比類無きスタイルの魅力と潜在力に対する期待は、いささかも色あせてはいない。彼こそは偉大なるアズマー・ネルソンを超えうる存在なのだ。(2000年8月)

●敗北について

 なんであれ、勝負に「負ける」ということはしんどいことである。
 勝利の意味ならいちいち考える必要はない。勝ったら、それまでの「やり方」を無反省に続けていくこともできる。けれども負けてしまったら、そこに何らかの「意味」を見出すまで、ああだこうだと考えなければならない。うまく解釈しなければ、敗北によって受けた喪失は、傷口となっていつまでもずきずきと痛み続けるだろう。
 とりわけ人生を賭けた勝負に敗れたのなら、何年経っても「傷口」はうずき続け、「雪辱」が果たされるまでは、けっして癒されることはないはずだ。あの聡明で強いフォアマンが、アリに敗れたという「傷」を自分から切り離すまでに20年の月日とモーラー戦の奇跡の勝利を要したように。
 人間は、自分の存在や人生に「意味」を探すことをせずにはいられない動物だろう。そして、敗北することとは、己れの意味を否定されることだ。日々考えてきたことや、重ねてきた努力が、払った大きな犠牲が、敗れ去ることによって無意味・無価値なものとなってしまうのだ。
 僕たちがボクシングから目を離すことができないのは、(全員ではないにせよ非常に多くの)ボクサーたちが、この勝負というものの本質を重々呑み込んだ上でリングに上っているからではないだろうか。リングで敗れた者たちは、真っ正直に悶え苦しみ、今度こそ勝利者たらんと立ち上がってくる。その姿に僕らは打たれるのだろう。
 敗北は危険なことでもある。決定的な敗北を喫したボクサーは、しばしばその喪失に耐え切れず、二度と全身全霊を燃やすような戦いをできなくなってしまう時もある。たった一度の敗北が、優れたボクサーの目の輝きを奪ってしまうのを僕らは何度も見た。
 トリニダードにきわどい判定で敗れたデラホーヤはリング上で不気味なほど晴れやかに笑っていたが、彼の内面にも恐ろしい欠落が生まれているはずだ。その空洞には氷のように冷たい風が吹きすさんでいるに違いない。
 自分の存在に意味を持たせるため、僕らは皆「勝た」なくてはならない。そのために必要な灼熱のエネルギーをボクサーたちは教えてくれるのだ。(2000年7月)

●いいのか、「ナコンルワンP」?

 戸―ヨックタイ戦がもり上がったのは、戸の強さもさることながら、ヨックタイがさすがに元チャンピオンらしい、良いたたずまいのボクサーだったことも大きいだろう。
 サラストレーナーを引き連れて入場してきたヨックタイには、世界のトップで戦ったことのある男の貫禄というか、香りのようなものが漂っていた。
 それに、「ヨックタイ・シットオー」という名前も良かった。なんか、「よかたい疾風怒濤」という感じで、九州の豪傑を思わせる(とは言い過ぎかもしれないが、しかし語感とはそういうものではないか)。
 このリングネームの語感という点で、最近のタイのボクサーは問題ありである(あくまでも日本人にとって)。国技ムエタイを土壌に、国際式でも素晴らしいボクサーを続々と生み出している尊敬すべきタイ国だが、リングネームだけはどうしても気に入らない。
 タイでは、ボクサーのリングネームには所属するジムの名前をつけるのが伝統だ。チタラダ、シスボーベーなど、日本でもおなじみの名前は、そもそもジムの名前なのである。
 伝統なのだから、外国人がどうこう言う筋合いのものではないかもしれない。しかし、最近のタイのジムの名前は英語だったりするので、問題が生じてくる。たとえば、あの勇利を破ったチャッチャイは、「エリートジム」である。どうですか、皆さん。
 さらに最近は、スポンサー名がリングネームとなるケースも増えてきた。まあ、「ギャラクシー」はかっこいいから良しとしよう。しかし、あの凄みのあるシリモンコンの名前が「ナコントンパークビュー」なんて温泉旅館みたいなでいいのだろうか?
 国が変われば、リングネームも変わるのは、むしろ常識的なことだ。英語メディアでは、あまりに商業的なリングネームの場合、本名でボクサーを呼んでいる。日本でも、「ナコンルワンプロモーション社」を宣伝してもそれほど意味はないのだから(だいたい長すぎ)、本名の「サハプロム」で呼ばせてもらうか、少し短縮したリングネームにしてもらってもよいのではないだろうか。(2000年6月号)


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