「客観性」について
先週の「ジャッジ」をテーマとしたコラムには、色々と教えられる「反論」をたくさんいただいた。特に多かったのは、「佐竹−坂本戦で坂本を勝ちにしているジャッジを、(大多数の見解とは異なるにもかかわらず
)“誠意がある”と呼ぶのは、いかがなものか」というご意見だ。僕としては、「100%公正なジャッジというものがありえない以上、“自分にウソをついていないかどうか”を まず
問題としたい」と申し上げたかったのであって、「佐竹−坂本戦は(判定までいったら)坂本の勝ちでもよかった」と言うつもりはなかった。とはいえ、「誠意」という明らかにポジティブな言葉をそこで用いた以上、そういうふうに受け止める方々がおられるのも無理からぬことだ。また、後楽園ホールと九州・宗像の試合を並べることで、東京のジャッジを高め、地方のジャッジを低く評価していると受け取られる危険を冒してしまった。ちょっと反省しています。(でも、大之伸−藤原戦の採点はやっぱりいい加減だと思う。) もうひとつの「反論」はより根本的なもので、「完全に公正なジャッジなどありえない、と言ってしまっていいのか」というご意見だった。これも、ごもっとともな話だ。「完全な公正さなどない」と断言してしまったら、つまりジャッジに「客観性」などありえない、と言い切ってしまったら、すべてはジャッジの「主観」に委ねられることになり、すべてのボクシング試合はどうとでも「解釈」されうるあいまいな詩文のようなものになってしまう。 しかし実際には、僕たちは「おかしい」と感じた判定に対してのみ「疑惑の……」という言葉を投げつける。ということは、心のどこかにジャッジの「公正さ」の基準を持っている、ということかもしれない。「完全な公正さ」を実現することが「至難である」といいうことと、「そんなものは存在しない」というのとでは意味が違う。ある読者の方は、「たしかに完全に公正なジャッジというのは絶望的に困難でしょうが、それでもそれを目指して努力し続けなくてはいけないのではないですか。その意味では、“公正なジャッジ”はやはり“ある”のではないですか」とおっしゃった。それはなるほどその通りである。「公正さ」という言葉の有用性は、やはり厳としてある。僕たちは、その「公正さ」がぼんやりとしか見えない状況に耐えながらも、模索をし続けなくてはならないのだろう。 しかしでは、ジャッジの「客観性」とは、どのようにして獲得、いや接近されうるものだろうか。ジャッジの採点基準や採点方に関しては、ジョー小泉さんの翻訳による『あなたもジャッジだ』という名著がある。こういう本を精読すれば、ボクシングにおいて選手の優劣を見る眼が幾重にも精密化されることは間違いないだろう。しかし、いくら採点基準を細かくしても、ボクシングのジャッジにおける「客観性」という問題が最終的に解決されることは難しそうだ。たとえば、「手数」と「ダメージ」のどちらをより重視するかという問題は、試合ごと、またラウンドごとに考えねばならない問題だろう。しかし、そもそも「ダメージ」を客観的に計る方法がないのだ。ダメージは、結局のところ、ボクサーの動きや表情をジャッジが「解釈」することで判断されざるを得ない。つまり「主観」なのだ。 有名な哲学者カント(右写真)は、個々の人間に与えられているのは「主観」のみだと言った。しかし「客観」という言葉を用いることも、彼は否定はしなかった。「(完全なる)客観性」すなわち「真理」は、人と人との「対話」の中でだんだんに見出されてゆくものだというのだ。なるほど、そんなものかもしれない。僕たちがそれぞれ手にしているものは「主観」だ。それは、ジャッジをつとめる人々にしたってそうだろう。けれども、そこで諦めてしまうわけにも行くまい。主観と主観を突き合わせて、「対話」を深めていく必要がある。 試合の勝敗はあくまでも「ジャッジ」が決定する。その意味で、ジャッジにはリングの「神」の役割が要求される。そこに「対話」の余地はない。けれども、当然ながらジャッジは本当は「神」ではなく、結局のところ神の「仮面」をつけて判定をくだすほかはない。だがそれでも、貧相な「仮面」の神であっても、試合には必要だ。ジャッジが判定をくださなければ、試合は完結できないからだ。 ジャッジの本当の使命は、試合をひとまず「完結」させることかもしれない。ボクシングの本質は、あくまでも勝敗を競う「試合」によって表現されるのであって、エキシビションでは駄目だからだ。判定が下されてはじめて、僕たちはその試合について「対話」を始めることができる。 判定は厳粛なものだ。しかし、本当に試合の意味を決定し、ボクサーの評価をするのは、その試合やボクサーについて様々な言葉を交わす無数の人々だ。その輪に参加する人間として、僕たちはできるだけ自由な立場で「対話」をかわし、「真理」に近づいていきたいものだ。
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