小松−中沼戦の「複合的な問題」
「ホームタウン・デシジョンだ! 」
大いに注目を集めた、小松則幸−トラッシュ中沼のOPBFフライ級戦。僕は、CSテレビで観戦していた。試合を見ながら採点した手許のメモでは117-110で中沼の勝ちだった。いい試合ではあったが、少なくとも8ラウンドまでは中沼がペースを掌握しており、ラウンドをことごとく奪ったように見えた。だから、2−1とはいえ小松の手が上がったのには唖然とした。「そんなあほな」、「大阪ジャッジ、やってくれたな」と思った。審判たちに対する怒りがこみ上げ、これほどの「地元判定」に救われたにもかかわらず、「普通の勝者」のような顔をしてインタビューを受ける小松の表情がばかばかしくて正視できず、テレビを消した。
しかし、その後、現地で試合を見てきた友人・知人たちが関東に戻ってきた。彼らから試合の印象を聞くと、やはりほとんどが「中沼の勝ち」ではあったものの、僕ほどの差はつけておらず、「小松の勝ちでもいいのでは」という人さえ複数名いた。意外だった。そこで、ビデオを何度か見直した。気づいたのは、テレビの実況は中沼の攻撃に注目しすぎではないか、ということだ。実況アナウンサー氏は、小松の攻撃にはほとんど言及していない。解説の畑中清詞氏は、試合前から、「小松? 世界挑戦? う〜ん」などと、小松をさほど評価していないような風情だった。そういう雰囲気が、小松の攻撃を見落とさせたのではないか。
小松の攻撃の“難解”さ
いや、もちろん実況のせいだけにしてはいけない。僕自身、「中沼ペース」に引きずり込まれていたかもしれない。事実、試合の序盤から中盤、中間距離でのタイミングを支配していたのは中沼だった。自分のリズムに乗り、出したいときに出したいパンチをより多く放っていたのは中沼だったと思う。タイミング勘で後手に回る小松は、接近しての小さな連打しか突破口がなかった。だが、パワーでも劣る小松の攻撃は、非常に地味だ。しかも、中沼のガードは固い。ほとんどの攻撃はガードの上を叩かざるをえず、4発目、5発目がようやく防壁を割り込むか、中沼のパンチの打ち終わりに、しぶとくパンチをねじ込むのが攻撃の主軸だった。全体の「流れ」で試合、もしくはラウンドを評価すると、小松のこういう攻撃は見落とすかもしれない。
ボクシングは、ある面では、距離とタイミングのせめぎ合いだ。自分の距離とリズムで戦うことのできる方が勝つ。そして、小松−中沼戦では、ほとんどのラウンドで、中沼が距離とタイミングを支配していた。しかし、小松はそれを承知の上で、「ゲリラ戦」というか、獣道を行くような方法で戦った。僕は、中沼の「空爆」に「ゲリラ戦」が対抗できるはずがない、とどこかでタカをくくってしまったのではないだろうか。ビデオの音を消して、さらに「小松もよかった」という人が指摘する「連打の打ち終わりの数発が中沼のガードを割ってヒットしている」点などを注目して試合を見直しているうち、「なるほど、接戦という見方もありうるかもしれない(中沼の負けはどうしても納得できないが)」と思えてきた。試合後の小松のインタビューも、それなりに落ち着いた気持ちで聞けるようにもなった。
逃げ腰で恐縮だが、だいたい、僕は自分の「採点」にはあまり自信がない。先日の大之伸−藤原戦のようなものすごい判定なら、未来永劫「地元判定」と言い続けるだろうが、大抵の試合は、久しぶりにビデオを見返したりすると、「あれ、前に思っていたのと随分印象が違うなあ」なんていうのは、しょっ中ある。本コラムの第5回(http://210.165.16.29/kumekawa5.html)では、かの有名なデンプシーーウィラード戦が別様にみえてきたというお話もさせていただいた。僕に限らず、相当ベテランのボクシング・ウォッチャーでも、「どっちを応援しているか」だけでなく、「観客の声援」、「一緒に見ている人」、「得ている情報」などに見方が大きく影響される。今回、会場よりもテレビ観戦の人により多くの「判定批判派」がおられたように思うが、実況の影響も多少なりともあったのではないだろうか。お時間のある方は、ビデオで再度見直してみていただきたい。(こんなことを書くと、「ああ、粂川は業界のどこかからプレッシャーを受けて、この判定を和らげるような記事を書かされているんだな。弱い奴だ」と思う方もおられるかもしれないが、だとすればそれは誤解だ。僕は、個人として、本当に上記のように思っている。)
ジャッジは「観客の代表」だ
とはいえ、それで話を終わりにするわけにもいかない。僕は、できればこの試合、やはり中沼の手が上がって欲しかったと思う。僕の採点が「中沼」だからというだけではない。あくまでも僕の知る限りでだが、この試合を中立な立場で見た人々の過半数が、中沼の勝利を支持しているように思えるからだ。少なくとも、僕が直接話を聞いた人々の中には、はっきりと「小松勝利」を支持する人はいなかった。「小松の勝ちだ」と言い切るのと、「小松が勝ちになってもおかしくない」というのとでは、意見に対する責任がまるで違う。試合が白熱の接戦であったとしても、「はっきり、小松の勝ち」という声がまったく聞こえてこない限りは、やはりこの判定は「不当」だと言わざるをえない。
プロボクシングがファンの支持によって成立している「ショービジネス」でもある以上、極論すれば、より多くの観客が「こっちの勝ちだ」と思ったほうの手が上がらなければならないと思う。もしも、試合のたびに、思っているのと別の判定が下され、「この判定を理解できないのは、君はボクシングをよく知らないからだ」などと言われ続けたら、「もういいや、ボクシングなんて」と思うのではなかろうか。観客の印象と違う判定があまりに続いたら、「プロ」としてのボクシングは消滅するに違いない。
前世紀の前半には、ボクシングには無判定試合というのがたくさんあった。ジャッジを置かず、KO以外はオフィシャルな勝敗をつけない。そのかわり、非公式な「勝敗」を、試合の後で出される新聞や雑誌が下していた。それを見ながら、ボクシングファンは、「そうか、勝敗はつかなかったが、○○が優勢だった試合らしい」、「いや、こっちの新聞では、××のほうがよかったって書いてあるよ」、「そうかい、見ようによって違う、ということかな」などと会話していたようだ(なんだか、そういう方が健康なような気さえしてくる)。
つまり、ボクシングの勝敗とは、KO決着が最もその本質にかなう形であって、「ジャッジ」というのは、もともとは、KOで決まらなかった試合について人々があれこれ語っていた、いわば「世論」の延長線上にいる存在なのである。その意味で、ジャッジはもちろん専門家としてボクシングの技術やルールに通じていなくてはならないが、「観客の納得する採点」も目指さなくてはならないと思う。ボクシングの判定に客観性があるとすれば、それは(陸上競技のような)科学的測定結果ではなく、「目撃者の多数派の見解」しかないのではないだろうか。
求められる「ジャッジと観客」のコミュニケーション
とはいっても、ジャッジには、無論、誰に気を使うこともなく試合を判定する権限が与えられている。そうでなければ、ジャッジなどできるはずがない。それに、ジャッジを務める人々は、試合中に観客に「どっちが勝っていると思います? 」などと聞いて回ることもできるはずがない。とすれば、「ジャッジ」と「観客」の距離を埋めるためにできることはごく限られてくるだろう。ひとつは、必要に応じて、採点について可能な限りの「説明」をすることだろう。現在のシステムでは、そのようなことはできないことになっているし、それはそれで理由のあることだ(アメリカのジャッジ、ラリー・オコーネル氏は、「ルイス−ホリフィールド第一戦での私の採点は間違っていたかもしれない」と記者団に語ったが、そこまで言ってしまうと、ジャッジの権威が吹っ飛ぶ。ジャッジは一度きりの判定を、全存在をかけて下さなければならない。「別の見方」を示す必要はない)が、まったく「ノーコメント」というのはいやらしすぎる。ジャッジは、「自分がその試合をどう見たか」を簡潔にのべてくれるだけでいい。「2−1で小松の勝ち」という結果以外、すべてがブラックボックスの中に秘められてしまうから、判定に対する疑問が、業界全体に対する不信感へと、いくらでも膨れ上がってしまうのだろう。「顔」と「名前」を持ったジャッジが、自分の採点に対して一言でも真摯なコメントを出してくれれば、「怒り」や「不信」は相当程度克服されると思う。
また、我々のようなボクシング専門誌を含むマスコミも、「ジャッジ」と「ファン」の間の距離を縮めるために、両者の可能なコミュニケーションの機会を作り出さなくてはなるまい。当然ながら、観客の中には、ボクシングの戦術やテクニック、ルール、そして採点基準に通じていない人もいる。そういうビギナーの人たちに、知識を持ってもらう記事も大切だろう。また、ベテラン・ウォッチャーでも、(僕のように)一面的な見方になってしまうことはよくある。ひとつの試合を多角度的に見ることは、つねに試みられなければなるまい。そしてもちろん、業界の悪習としてのホームタウンデシジョンが疑われるときには、徹底的に追求し、批判しなくてはならない(小松−中沼戦のジャッジにも、その疑いはやはりある)。
小松−中沼戦、本当の問題点
今回の判定については、本サイトの掲示板にも、多くの書き込みをいただいた。その多くは、判定を激しく批判するものだった。僕も、本稿冒頭に書いたような印象だったのだから、そういう皆さんのお気持ちはある程度分かる。地元判定の問題がファンの不興を大いにかっている昨今の状況を見れば、小松の手が上がったとき「またか! 」と思う人が多かったのは、当然のことだとさえ思う。この重要な試合に関西のジャッジが2人審判団に入っていたことも、不見識・不適切と言わざるをえない。
だが、この試合を、そしてジャッジを真剣に問題にするおつもりなら、まずは何度か、いや何度でもビデオを見直してみていただきたい。この試合は、一見したよりも難しい試合だと思う。真剣に批判をするなら、その対象を徹底的に検証することからはじめるべきではないだろうか。「この試合の判定は納得できない」とは、僕も思っている。しかし、「こんな酷い判定は見たことがない」とまでは、言えない。
いずれにせよ、インターネット上で「けしからん判定だ」と匿名で叫ぶだけでは、有効な批判にはならないと思うのだ。この試合をどのように見て、どういう根拠で、「中沼の圧勝」と主張されるのか、「正しい判定」を求めるのであれば、それを可能な限り詳細に論じていただきたかった。どうしようもないホームタウンデシジョンは、たしかにある。残念ながら、いくらでもある。それが日本ボクシング界の構造的な悪弊となっているのも事実だ。それどころか、「地元判定」の問題は、ボクシング界の存亡に関わる大問題だ。ただ、「地元判定」、「インチキ判定」の問題の大きさが、今回の小松−中沼戦の判定に対する過剰反応につながってはいないだろうか。そうなるのも無理はないとも思うのだが、匿名の掲示板だからこそ、「けしからん」と感情を吐露するだけでは無意味ではないだろうか。読者諸賢それぞれにご一考いただきたい。
また、小松選手の試合後の発言を批判する書き込みも多かったが、明らかに度をすぎたものもあった。これについては、苦言を呈したい。そういう書き込みをする人は、匿名の人物から名指しで人格を否定するようなことを言われたことがあるだろうか。あのような書き込みをすることは、試合後の選手がとんちんかんな発言をすることよりも、ホームタウンデシジョンをくだすことよりも、はるかに悪質だと思う。小松選手や、ジャッジの人たちは、たとえ不適切な言動やジャッジを行ったとしても、多くの人の前に名前と顔をさらし、公けに向かって発信している。匿名性の壁に隠れて、他人の心と人格を傷つける言葉を垂れ流すことは、それとは比較にならないくらい卑劣で、ボクシングをより貶める行為だ。
掲示板では、「情報のソース」を問う議論もあったが、匿名のままで「ソース」を問題にしても、議論はクリアにはならないのではないだろうか。理想的には、掲示板上で真面目な議論・主張を行う場合は、可能な限り本名をあきらかにし、発言に全面的な責任を持った上で進めていただきたい(内部告発など、特別な理由がある場合は、もちろん例外だろうが、そういう場合でさえ「匿名」であることへの配慮は欲しい)。日本は、まがりなりにも言論の自由が保障されている国だ。フランス革命時の秘密結社のように、仮面をつけて「自由」、「平等」を語る必要はないのだから。