ランぶる・イン・ざ・ジャンぐる……


「プログラム」を組むセンス

                                                 粂川 麻里生


 3月6日の3世界戦は、前座で佐竹政一が惜敗ながら黒星を喫したことも加えて、ボクシングファンにとっては本当に「しおしお」の一夜となってしまった。しかも、この「しおしお」の多くの部分はほぼ予想通りだったので、なおさら淋しさがつのる(僕の予想通りだったというより、多くの皆さんの予想通りだったろう)。

 世界タイトルなんて、そう簡単に取れるものではないから、3連敗だってまあ仕方がない。ただ問題は、その3連敗が「淋しい」、「つまんない」という印象を与えた点だ。これは、選手の責任ではもちろんない。選手は必死で戦ったのだし、試合自体で「凡戦」と言えるのは、戸高−サラテ戦だけで、ラリオス−仲里戦のような強打の応酬は年間に何試合も見られるものではないし、ウィラポン−西岡も、ウィラポンの相変わらずの巧さ、強さと、西岡の必死の食い下がりはワンサイドマッチとはいえそれなりに見ごたえがあった。

 問題は、むしろ「見せ方」なのではないか。僕は先々回のコラムで「ドラマツルギー」の必要性について書いたが、今回の興行には、試合の魅力をそいでしまう文脈が多すぎた。3つの世界戦のうち、2試合が再戦で、もう一試合が暫定王座の防衛戦という取り合わせは、ボクシングファンなら誰もが感じていたように、非常に「危険」だった。プログラムの構想の失敗、いやむしろ、「プログラムを組む」感覚の欠如と言わざるをえない。

 とりわけ、ラリオス−仲里、ウィラポン−西岡という2つの再戦が、ともに「強いほうが勝った」という印象の試合の後を受けてのものだけに、なおさらである。レノックス・ルイス対ハシム・ラクマンとか、トーマス・ハーンズ対アイラン・バークレーのように、「前回はたまたまこっちがかったが、本当に強いのは負けた方ではないのか」と思わせるようなカードなら、再戦は盛り上がる。「強いボクサーがリベンジに燃えて再戦に挑む」という図式は、最高の「ドラマ」のひとつだろう。「リベンジ」が成れば、「やっぱり、本当に強いのはルイスだった! 」と感心する。「返り討ち」だと、「バークレーって、本当に強ぇえんだ! 」という興奮が起こるだろう。

 だが、今回の2つの再戦は、「やっぱりね……」という感想しか残らなかったわけだ。しかも、もうひとつのタイトル戦は、本当に世界王座なのかどうか分からないようなベルトを賭けての暫定戦。それが、客の多くが途中で席を立つような退屈な試合だったというのでは、興行としては大失敗だったと言わざるをえないだろう。

 時間がない中で、「なんとか大きな興行にしたい」という努力をした帝拳プロモーションには気の毒だが、こんな無理をしてまで「3大世界戦」にしないほうがよかったのではないか。やるんなら、再戦はひとつにして、どんな結果になろうともファンがそれなりに充実した気持ちになるようなカードをほかに提供してほしかった。安直な世界戦を並べる代わりに、リナレスや粟生にちょっとした強豪(しかも、おそらく
見事に勝てる相手)をぶつけてくれれば、観客は、「仲里は、やっぱり通じなかったけど、面白かったね。それに、粟生はやっぱり大変なホープだ」などと語り合いながら家路についたことだろう。

 あるいは、西岡を登場させるなら、S・バンタムのウェイトで、ラリオス−仲里戦の前に登場させるのだ。そして、「西岡がラリオス−仲里戦の勝者に挑戦するかもしれない」という期待をファンに持たせた上で、圧勝させる(相手はそこそこの相手で、最終的には西岡が格好よく勝てるというのが理想だが、「負け役」みたいな相手でもいい)。そうすれば、たとえば仲里が王座奪取ならなくとも、「次は西岡−ラリオス、もしくは西岡が決定戦出場か、ひょっとすると、西岡−仲里で決定戦か」というような話ができる。実際には、対ウィラポン第4戦でもいいだろう。しかし、今回のような興行では、あとには砂漠のような荒涼が広がるばかりで、「次は……」という話が何もできない。まさか、ラリオスが返上する王座を西岡と仲里で争うわけにもいくまい。

 試合の並べ方も、まずかった。戸高−サラテが「メイン」になったのは、日本人が「チャンピオン」だからだろうが、これはあくまで暫定王座戦である。IBFやWBOのベルトを「世界王座の権威が下がるから……」と言って避けるなら、問答無用で却下すべきタイトルである(あー、思えば、薬師寺−辰吉戦を“統一戦”にしたいという下種な下心から、この堕落が始まったのだ)。当然、正規王座の試合をメインに
すべきだった。テレビ放映もしかりである。正規タイトル戦(西岡−ウィラポン戦)が、番組表にさえ載っていないのだから、落ちたものである。

 僕が興行主だったら、正規タイトル戦のうち、熱戦が期待でき、王座奪取の可能性もなくはないラリオス−仲里戦をメインにしただろう。その前が、(しかたなくだけど)ウィラポン−西岡戦だ。戸高−サラテ戦が、前代未聞の「客が帰る世界戦」になってしまったのは、やっぱりこれが本物の世界戦ではなかったからではないだろうか。チャンピオンはジョニー・ブレダルであって、老いたレオ・ガメスを引っ張り出
してきてなんとか勝ちを拾った戸高が、メキシコのスカートお兄さんとやった試合を「世界戦」と呼んだのは、砂上の楼閣のようなレトリックでしかなかった。

 戸高−サラテ戦を「メイン」にせざるをえなかったのは、2つの再戦が「魅力」、「勝ち目」ともに薄いということを、興行サイドも自覚していたからではないのだろうか。とりわけ、ウィラポン−西岡第4戦がファンに支持されていないことを、関係者もはっきり意識していたからだろう。おそらく日本でも最も人気のある外国人ボクサーであるウィラポンのタイトルマッチが、テレビ番組表にさえ登場しなくなってしまったのである。これはボクシング界にとって大きなダメージだ。

 ファンに支持されない興行を打つこと、勝ち目の薄い再戦を二つ並べたりすることことは、こんなにもリスクが大きいのである。これからの興行主は、結果がどのように転んでも、それなりの満足感が残るプログラムを組むセンスを磨いていただきたい。

 大マスコミに媚を売らなければならないこともあるだろうが、興行は、最終的にはサービス業なのではないか。「客を楽しませる」ということを忘れてはならないはずだ。娯楽が飽和状態にある現代にあって、ショービジネス、エンターティンメントの世界では、どこかしこも「これでもか」というくらい客を楽しませようと躍起になっている。サッカーでも、野球でも、オペラでも、歌舞伎でも、宝塚でも、映画でも、あるいはテレビゲームでも、スターを惜しみなく登場させ、演出を練り上げ、どうすればファンの気分が盛り上がるか、徹底的に研究している。

 たとえば、僕は歌舞伎が好きだが、一度歌舞伎の楽しみ方を覚えてしまえば、数千円払って歌舞伎座で得られる満足は大きい。ボクシングで言うなら世界王者級のスーパースターが次々と登場し、名作、名場面を、次から次へと演じて見せてくれるのだ。800円の一幕見でも、ボクシングの世界戦並みのテクニック、パワー、そしてカリスマが堪能できる。目の前で演じている役者は、真剣勝負だ。スリリングさもある。

 それに比べて、ボクシング興行の構成は、「かならずファンに納得・満足して帰ってもらおう」という精神があまりに希薄だ。客に対し、「どうせこいつら、ボクシング見るしか楽しみないんだろう」とでも思っているのだろうか、と感じるくらい、ファンに冷淡な、投げやりなカードを並べた興行が多い。それでいて、日本は、アメリカについてボクシング興行が多い、「ボクシング大国」なのだから、なんだか「ボクシングって……? 」と寒くなってくる。

 もっともこれは、実際に興行主が不真面目だというのとはちょっと違うことも指摘しておかねばならない。ジムがプロモーターでもある、というのが、落とし穴なのだ。ジムとしては、「選手を勝たせる」ということが、なによりも優先する命題となるからだ。「うちの選手を勝たせたい、出世させたい」という目標と、「客が足を運ぶボクシング興行を催したい」という目標は、ほぼまったく無関係だ。しばしば矛盾さえする。だから、ファンはジムを「興行主」として批判し、ジムは「育成者=マネジャー」として反論する、という、噛み合わない議論にもなってしまう。しかし、この矛盾を矛盾のままで放置したら、ボクシングは少なくとも興行としては衰退の一途を辿るだろう。

 今まで、ボクシングファンは、退屈な前座試合に耐えに耐えながらメインイベントを待ち、そのメインさえがしょうもない内容、結末になっても、チケットの半券を握り締めて「次の試合は何だっけ……」とつぶやきながら帰っていった。しかし、そんな「都合のいい女」みたいなファンの忍耐も限界に来ているのではないか。

 

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