ランぶる・イン・ざ・ジャンぐる……

ワールドボクシングと私

     僕がボクシング専門誌「ワールドボクシング」の編集部に入ったのは1988年、ソウル五輪の直前だった。当時僕は慶応大学の4年生で、いわば就職活動として「ワールドボクシング」の編集部でアルバイトを始めたのだった。

 大学に入るのに2年浪人し、卒業するまでに2度落第した(留学とか、自主留年とかではない)僕はすでに25歳になっていた。時は好況期で、大学の友人たちは「コネ、要領が大事だぜ」などと言いながら、初年度でボーナスが100万円もらえる会社に就職していった。だが、僕の場合だけは、就職活動を受け付けてくれる業種や企業さえ少なかった。とりあえず、受けられる会社(出版関係やメーカー)を一通り回ったが、それらも結果的には全部落ちた。とはいえ、もともとルポライターか評論家になりたかった僕は、あまり気にしてもいなかったが。

 当時の僕は、ボクシングを見るために、地下鉄丸の内線後楽園駅のすぐ裏手に下宿をしていた。6畳一間で、一日中直射日光の差さない路地奥の2階。古い木造長屋全体が傾いていた。夏に窓を開けると、狭い路地を挟んだ真向かいの窓の中で、婆さんが腰巻一枚でひっくりかえっているというような、ディープな下町だ。それでも、歩いて5分で後楽園ホールに行けるという立地は、僕にとっては天国のような場所だった。

 もちろん、「ワールドボクシング」も「ボクシングマガジン」も、発売日に両方買って、その日のうちにはすべてのページに目を通してしまった。そんなだったから、心の奥底では、できれば好きなボクシングについて記事を書く仕事がしたいと思っていた。「ワールド」も、「マガジン」も、下宿から歩いていけるところに編集部がある。もし、仕事がもらえれば理想的だと思った。だが、新聞や普通の就職情報誌には、当然ながら募集広告は出ていない。そこで、「ボクシングマガジン」「ワールドボクシング」の編集部に、「記者、編集員の募集はしていらっしゃいませんか。アルバイトでも結構です」と手紙を出した。

 すると、「マガジン」からは何の返事もなかったが、「ワールド」からは前田衷(まこと)編集長から、丁寧な手紙をいただいた。「残念ながら、現在スタッフの募集はしておりません。なにしろ、当方は小さな編集プロダクションですので、おそらくご想像のような就職先とは大分イメージが違うのではないでしょうか。とはいえ、こんなご近所にあなたのようなボクシング好きの若い女性が住んでおられるというのは、心強い。仕事はありませんが、いつでも遊びにいらっしゃい」。前田編集長は、僕の「麻里生」という珍しい名前を女性だと勘違いしたのだった。

 僕は、さっそく「ワールド」編集部に電話をした。「残念ながら、若い女性じゃなくて、体重90キロの大男なんですが、伺ってもいいですか」。前田編集長は、戸惑ったのか、電話口でよくわからないことをもごもごと口走っていたが、最後に「どうぞ、いらっしゃい」と言ってくれた。

 数日後から、僕はワールドボクシング編集部に通うようになった。写真整理の「手伝い」をさせてもらうことになったのだ。「使える」ことが分かってもらえると、写真整理は時給数百円のアルバイトにしてもらうことができた。やがて、写真のキャプション付けの仕事までもらえた。これには感激した。ついに、自分の書いた言葉が、活字になったのだ。しかも、ボクシング雑誌に! しばらくすると、キャプションから下流し(ページの脚注的な情報)へと僕の仕事はさらにグレードアップした。僕は「合格」したようだった。

 ワールドボクシング編集部でアルバイトができるようになると、僕は急速にほかの就職活動への情熱を失ってしまった。もう、当分ここで仕事をさせてもらおうと決めていた。

 この年の暮れ、僕に大きなチャンスが訪れた。ワールドボクシングが増刊『世界の名ボクサー究極の100人』を出すことにしたのだ。「ゴング」以来お得意のタイプの増刊で、固定ファンもいる企画と言っていいだろう。前田編集長は、「君もいくつか書いてみるか」と言ってくれた。サム・ラングフォード、トミー・ローラン、キッド・マッコイ……、伝説の強豪ボクサーたちを、自分の言葉で人に紹介する作業は(ほとんど見たこともないくせにね)、血が逆流するような興奮があった。

 今でも、この増刊号を読むと、「粂川記者」がデビューしたときの清新な意気込みが、我ながらひしひしと感じられる。たぶん、僕はこの『世界の名ボクサー究極の100人』に書いた以上の原稿をついに書けなかっただろう。けれども、ボクシングについて書くことは、僕にとってつねに至福の時を与えてくれた。郡司信夫、下田辰雄、中村金雄、梶間正夫、前田衷、佐瀬稔、ジョー小泉、宮崎正博……、少年期に憧れの気持ちで眺めたボクシング・ライター各氏たちと、曲がりなりにも同じリングに上がることができたのだった。

 たぶん、僕が一番影響を受けていたのは故・梶間正夫さんだった。梶間さんは、リングの講談師だった。ジャーナリズムや批評精神もあるのだが、まず何よりも、「すごい話」、「おもしろい話」をするのがうまかった(その後、実際にお会いしても、面白い方だった)。ボクシングは、「すごい奴」、「おもろい奴」の宝庫なのだ。それを語ることこそ、記者の最高の使命かもしれない、梶間さんの記事を読むと、いつもそんな気持ちにさせられた。小ざかしいことを書くよりは、ボクシングの講談師でいることが、僕の理想だった。

 あの『究極の100人』以来、もう16年の月日が流れた。僕は、ずっと「ワールドの粂川」としてボクシング記者をし続けて、ずっと幸せだった。一度も嫌になったり、「辞めたい」と思ったことはなかった。けれども、この春、ふとしたきっかけで“別離”を決意するに至った。僕は別に恋愛経験は豊富ではないが、僕とワールドボクシングの関係は、ちょっと恋愛にも似ていた気もする。ずっと人生の中心にあって、大事にしていたのに、本人たちがまったく予想していないタイミングで関係が終わってしまった。そして、道はもう引き返せないのだ。

 引き返せないのは、「愛」があるからだ。愛情は変わらずあるのだが、何かが変わってしまったのだ。僕はいつの間にか、「講談師」ではなくなってしまった。ボクシングを愚弄する興行師や審判を手厳しく批判するジャーナリストになってしまった。僕は、こんなものになりたかったのではない。「ワールドボクシング」だって、業界批判をするための雑誌ではない。凄いボクサー、凄いファイトを、言葉と写真で再現し、感動をより膨らませてもらうこと。それこそが「ワールドボクシング」であるはずだ。

 もう、僕がやろうとしていることは「ワールドボクシング」ではない。今度は、ウェブサイトとメールマガジンで書き続けたいと思う。華も潤いもないメディアだが、今の陰鬱な状況にはお似合いだ。
 

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