ランぶる・イン・ざ・ジャンぐる……


  ドラマツルギーの必要性

 
ドラマツルギーという言葉がある。もともとは演劇用語で、「作劇法」とか「演劇論」などと訳される。演劇をいかに「劇」たらしめるか、どのようにして「劇」を作っていくのか、舞台構築の発想全体、いわば演劇術の総体を「ドラツルギー」と呼ぶこともあるらしい。ヨーロッパでは、劇場や劇団にそういう「思想」の部分を受け持つ「総合プロデューサー」みたいな人がついていて、これをドラマトゥルグなどとも読んでいる。

 僕は、この「ドラマツルギー」が、ボクシングにも必要なのではないかと思う。なぜなら、プロスポーツの盛り上がりというのは、それぞれの試合の素晴らしさや結果が出るまでの面白さもさることながら、そこに流れている「ストーリー」の魅力もまた重要な要素となって引き起こされるものだからだ。たとえば、野球やサッカー、ラグビーなどは、高校生の試合が十分にテレビ番組として成立する。レベルから言ったら、プロや実業団リーグなどの方がはるかに上で(サッカーの平山相太君のような桁外れの個人は別にして)、試合としての魅力は高いはずだが、“商品価値”はかならずしもそれを反映しない。野球の甲子園、サッカーの春高サッカー、ラグビーの早明戦などは、その歴史やさまざまなイメージと相まって、単なるスポーツの試合を超えた意味と魅力を持つのである。
 世界チャンピオンや金メダリストが誕生すれば、もちろんそのスポーツはある程度注目を集め、盛り上がりもするわけだが、それだけでは一時的な熱を帯びるだけだ。水泳や陸上競技などは、オリンピックや世界選手権で成績が優秀な選手が出現すれば「へぇー、すごい選手がいるんだ」くらいの注目は受けるだろうが、「水泳をテレビでやればかならず見る」とか「陸上の大きな大会はしょっちゅう見に行っている」というような「固定客」はそれほど多くはないようだ。それは、水泳や陸上は純粋にタイムや記録を競うものであって、試合と試合をつなぐ「ドラマの線」が見えづらいということもあるように思う。その点、○○対○○という形で対戦が行われる格闘技や球技は、試合という“点”が「ドラマ」という“線”でむすばれやすい。

 僕がここで言っている“ドラマ”とは、選手個人の(家が貧しかったとか、中学のときに立派な先生に出会ったとかいうような)インサイドストーリーのことではない。純粋に、ひとつひとつの「試合」に意味を与える“文脈”のことだ。プロレスは、これがとても大切だ。「ジャンボ鶴田試練の3番勝負」とか「炎の飛龍十番勝負」とか「正規軍対維新軍、3度目の前面戦争」とかいう奴である。ボブ・サップ対曙などというのも、見事な“プロレス”だ。試合がどんな内容になるかは実にアヤシイのだが、まずは試合自体に意味を持たせてしまうのである。「ボブ・サップ対アーネスト・ホースト」なんて“カード”は、キックで2連敗した王者ホーストがプロレスで“雪辱”している。そんなのが、大きな興行として成立するのである。
「そんなの、ちゃちな漫画だ」というなかれ。我らがモハメド・アリがカシアス・クレイだった頃、ゴージャス・ジョージというプロレスラーの振る舞いを見て、ビッグマウスの効用とそのテクニックを学んだというのは有名な話だ。あれだけハンサムで華麗なファイトができたクレイでさえ、そういう“演出”を考えたのだ。日本ボクシングにとってプロレス的発想などなくてもいいということにはならないだろう。もちろん、ボクシングに適した「発想」に練り直さなくてはならないが(プロレスは“ドラマ”に頼りすぎて衰退した面もありそうだ)


 試合はどんなに好試合でも、“文脈”がまったくなければ伝説にはならない。その点、畑山隆則には天才的な嗅覚があった。彼は、なまじっかの海外の強豪と戦うより、日本人と戦うほうが「ウケる」ことを知っていた。コウジ有沢と戦わなくても、畑山には世界再挑戦へのチャンスは開かれないこともなかっただろう。しかし、畑山のスターらしい直感が、彼に「コウジさんと戦いたい」と言わせた。破竹の快進撃を続ける強打(で美男)の日本王者コウジと、天才と呼ばれながらあと一歩で世界王座を取り逃がした畑山、リスクは大きかった。コウジはあの試合をやらなければ、一度は世界戦をやれたかもしれない。畑山がそうなる危険もあった。しかし、あの畑山−コウジ戦があったから、その後しばらくの間(畑山と坂本博之を中心とした)日本中量級は光り輝いた。
 やがて畑山は二階級制覇をなしとげ、坂本やリック吉村(ドローだが)の挑戦を退けた。いずれも大きな話題を呼び、試合も盛り上がり、勝者も敗者も戦う前よりも尊敬を勝ち得た(ここが重要だ)。「日本人同士の世界戦は盛り上がらない」というのが、長年のこの業界の通説だったが、それはドラマツルギーがないからだ。かつては、「日本人が外人に挑む」という、「ルー・テーズ対力道山」的なドラムの型が受けた。今は、「ガイジン」に対するコンプレックスが、薄れたか複雑なものになったため、日本人格闘技選手がよく知らない外国人強豪に勝ってもマニアしか喜ばない。そう、今の基本は「知っている選手同士の激突」である。K−1やプロレスは、それでいいのか、と思うくらい選手を使い回す。さすがに最近のK−1はマンネリになってきたようだが、時々新しい大物を引っ張り込むことで、「文脈」全体をリフレッシュさせている。

 世界タイトルは、ボクシングのリングにおいて至高の宝物だし、そのベルトを取ることでオールマイティのカードを手にすることになるかのようにさえ思える。しかし、世界戦の商品価値低下が著しい現在にあって、急務なのは世界王者を誕生させることではない。国内レベルの試合に「ドラマの文脈」をもたせることのできるような、マッチメーク、雰囲気作り、選手の育成、広報活動だ。
 たとえば、西岡にはウィラポン攻略を果たしてもらいたいとは思うが、一試合、それもたとえばサーシャ・バクティンとの「挑戦者決定戦」が今こそ実現すべきだったのではないか。あるいは辰吉戦だ。そんなカードが実現すれば、ボクシング界の熱気は一気に燃え上がるはずだ。たしかに、スター選手に傷を負わせるリスクはあるが、だからこそ面白いのだし、今のボクシングファンは好試合なら敗者にも高い評価を送る成熟度がある。佐竹政一は、ここで世界挑戦できないのなら、江口慎吾戦はどうか。本望と長嶋健吾がライト級で戦ってもいいじゃないか。
 西沢? うーん、西沢が「ダウン」の実績をひっさげてマンディン再挑戦をするのは、僕はいいと思う。マンディン戦の西沢はかっこよかったからだ。魅力があれば、勝ち目が薄くてもOKかもしれない。ただ、その場合でも「演出」は必要だ。ウソでも、竹原慎二あたりが参謀になったことにして、ヒクソン・グレーシーといっしょに山ごもりして肉体を若返らせるというのはどうか。

 

 

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