マルセル・セルダン Marcel Cerdan

mario kumekawa

 「北アフリカにとてつもない怪物がいる」という噂がアメリカで広まったのは、第二次大戦末期だった。当時フランスの支配下にあっアフリカ北部に進駐した米軍兵たちは、当地で爆発的な強さを見せるミドルウェイトを目撃し、帰国後、口々にこのボクサーの強さを土産話として物語ったのだ。

 1916年モロッコのシディ・ベルアブ生まれのこの男は、マルセル・セルダンといった。貧しいフランス人の三男坊として生まれ、食うためにボクシングを始めたのだった(2人の兄も優れたボクサーになった)。

 屠殺人だった父親は、マルセルが13歳の時、初めてアマチュアの大会に出場させた。カサブランカ市内の映画館内のリング上で、3ラウンド判定勝ちを収めたマルセルは、賞品として靴かチョコレートを選ぶ権利を手に入れた。父は「靴をもらえ」と言ったが、マルセルはチョコが大好物だった。どうしてよいかわからなくなり、リング上でわんわん泣き続けた。結局マルセルは、「デビュー戦」の報酬として、靴とチョコレートの両方を手に入れた。

 11歳で学校を辞め、沖仲仕として働いていたセルダンは、18歳で本格的プロデビューを果たす頃にはがっしりした見事な体を作り上げていた。

 デビュー後はいきなり連戦連勝。2つの不運な反則負けをはさんで41連勝、23連勝、41連勝と怪物的なレコードを残した。一時は本拠地をパリに移していたセルダンだが、1942年11月、英米仏連合軍が北アフリカに進駐すると、志願してフランス海軍に加わり、各部隊を慰問して回った。ボクシングの試合は、戦闘に疲れた兵士たちの重要な娯楽だった。

 この慰問ツアーで、セルダンは「伝説の男」となっていく。44年の連合国対抗トーナメントでは本場アメリカのボクサーを立て続けに3連破して、セーラー服や迷彩服の男たちに強烈な印象を与えた。ローマで強豪フレッド・バーニーに圧倒的なKO勝ちしたときは、ビリー・コン、ジャック・シャーキー、フィデル・ラバルバといったアメリカのトップ・ボクサーたちもリング下にいた。帰国後彼らが「目撃談」をしてまわったものだから、米国内のボクシング・ファンの間では「セルダン」の話題が沸騰したのである。

 だが、「ジョルジュ・カルパンティエみたいなもんだろう? 」という声も多かった。1910年代、「蘭の男」、「ヨーロッパの帝王」と崇拝されながら、デンプシーやタニーといったアメリカのトップボクサーにはまるで歯が立たなかったカルパンティエの記憶が、米国人のイメージには強く残っていたのだ。だが、「アフリカの謎の強豪」という神秘的なイメージは、まだビデオも衛星中継もない時代のファンの胸を騒がせるものがあった。

 セルダンは怪物的な強さに加えて、人々をひきつける人間的な魅力をもっていた。笑うのが好きで、人情味のある男だった。旧知のボクサー、ブチアネリが相手だったデビュー戦では「勝てる」とわかったら力を抜いてしまったし、42年にパリでフランク・ヴィースと対戦した時は試合中に「俺の子供をみなしごにしないでくれ」とささやかれただけで、KOするのをやめてしまった。そういう男だった。男に尊敬され、女にはモテるボクサーだった。

 カサブランカには愛妻と目に入れても痛くない息子がいたセルダンだが、パリでどうしようもなく恋に落ちてしまう。立ち寄った酒場で聴いた小柄な女性シャンソン歌手の情熱的な歌声が彼をとらえたのだ。彼女はエディット・ガシオン、芸名を「ピアフ(雀)」といった。のちに「愛の讃歌」、「バラ色の人生」といった名作で世界的なスターとなる、エディット・ピアフである。

 ニューヨークに渡り、「噂」が本物であることを証明し始めたセルダンのかたわらには、いつもピアフがいた。「占い師が言ったの。『セルダンに会うのはもうやめなさい。彼は、あなたがいないと何もできないようになってしまう』って。だから、私はいつも彼のそばにいるの」(ピアフ)。

 48年、セルダンは「鋼鉄の男」と讃えられた世界ミドル級王者トニー・ゼールに挑戦する。不利を予想されたセルダンだが、スピードで完全に上回った。必殺の左フックがゼールの顔面をとらえ続け、耐えに耐え続けた鋼鉄の王者も、12回とうとう前のめりにマットに沈んだ。世界ミドル級王座がはじめてフランスに渡った瞬間だった。ラジオでニュースを知った妻と子は涙を流して喜び、兄たちは酒を買いに行き、祖母は気絶した。パリはナチスからの解放に続く喜びに湧いた。

「とてつもない王者が誕生した」とアメリカ国民さえ興奮させたセルダンだったが、運命は突如暗転する。初防衛戦で“猛牛”ジェイク・ラモッタを迎えたセルダンは肝心の左腕を動かす筋肉を負傷してしまう。左腕がまったく動かない状態で戦い続けたが、セコンドは10回で棄権せざるをえなかった。

 不幸はまだ序章だった。パリに戻り、負傷癒えたセルダンはラモッタとの再戦が決まったことに狂喜した。だが、「勝つか、死ぬかだ」と言い残したセルダンを試合地アメリカに運ぶはずの飛行機は、あろうことか離陸後まもなく山の斜面に追突、乗っていた48人は全員死亡した− 。

 息子のマルセル・ジュニアは、父の後を追いボクサーとなった。18歳のデビュー戦の日、パリのリングサイドには母親のマリネットとエディット・ピアフが並んだ姿があった。

☆マルセル・セルダン(1916−1949)仏領モロッコ出身。カサブランカで数多くの草試合を経験した後、1934年にプロ転向。38年、無敗の31連勝でフランス・ウェルター級王座獲得。以後、欧州同級王座、フランス・ミドル級王座、欧州同級王座を次々と獲得した。48年、ゼールを12回KOにくだして世界ミドル級王座に。しかし初防衛戦でラモッタに10回棄権負けで王座転落。戦績111勝66KO4敗。


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