ジョルジュ・カルパンティエ

Georges Carpetier

 

   激動の20年代、ヨーロッパ・リングで、華麗に咲いた花があった。“蘭の男”ジョルジュ・カルパンティエ、黎明期のフレンチ・ボクシングシーンを駆け抜けた天才である。

 カルパンティエは1894年、北フランスの炭坑村レンスで生まれた。小さい頃から滅法すばしっこく活発な男の子だったのが、旅芸人としてレンスにやってきたフランソワ・デュカンの目に止まる。デュカンは一人旅をしながら、行く先々でアクロバット、催眠術、政治漫談などをして見せて日々の糧としていたのだが、ジョルジュ少年がそこいらを遊びまわる際に見せた身のさばきにすっかり魅了されてしまったのだった。

 デュカンは、カルパンティエ家におもむき、ジョルジュの両親に頼み込んだ。「あのバネ、あの身のこなし、この子はきっと素晴らしい芸人になります。ぜひ、私に預けてください! 」
 運命的な出会いだった。2人組の旅芸人となったカルパンティエとデュカンはそれと気づかぬうちに、栄光の道を歩き始めていたのである。

 当時、ボクシングという格闘技はフランスでは知られていなかった。むしろ、「サヴァット」と呼ばれる、キック専門の格闘技が主流であった。だが、「英国式ボクシング」を習い出したデュカンとジョルジュは、新しい出し物としてボクシングのスパーリングを演目に加えたのだった。

  たちまちジョルジュ少年はボクシングのあらゆるテクニックをマスターしてしまい、観客の中からどんな屈強の男が飛び入りを名乗り出てきても、いとも簡単にあしらってしまうようになる。当時、首都パリではボクシングが人気スポーツになりつつあったが、その花の都までも、「ボクシングの名人ジョルジュ少年」の噂は届くようになっていた。

 13歳のとき、ジョルジュは旅芸人から本格的なプロボクサーへと転向した。ボクシングという新スポーツの普及とともに、カルパンティエはたちまちフランス中のアイドルになっていく。その洗練されたボクシングに加え、美少年ぶりと、ギリシャ彫刻のような完璧プロポーションの肉体美が女性ファンをもひきつけていた。

 17歳でフランス・ウェルター級王者になったのを皮切りに、カルパンティエはありとあらゆるタイトルをコレクションし始める。欧州同級王者、同じくミドル級とL・ヘビー級の王座と、成長期の身体に応じたベルトを手にしていった。
 それでも骨格はウェルター程度だったから、英国ヘビー級王者ビリー・ウェルズと対戦したときは、誰もが「無茶だ」と言った。しかし、軽業師カルパンティエは、先制のダウンを奪われながらもウェルズをKOしてしまう。

 第一次世界大戦では飛行士として従軍し4年のブランクを作ったが、復帰するやいなや英国ヘビー級王者ジョー・ベケットをものの見事にノックアウト、さらに米国人バトリング・レビンスキーを華麗なステップで翻弄したあげく4回でマットに沈めて世界L・ヘビー級王座を獲得すると、もはやカルパンティエの前にはたったひとりの男しか残っていなかった。無敵の世界ヘビー級王者ジャック・デンプシーしか――。

 “マナッサの殺人鬼”デンプシー対“蘭の男”カルパンティエ。このカードの魅力をいち早くかぎつけた興行師テックス・リカードは、前代未聞の一大スペクタクルに仕立て上げた。『世紀の一戦』と銘打たれたデンプシー‐カルパンティエ戦は、ジャージー・シティの屋外スタジアムに80183人の観衆を集めて行われた。

 大衆の支持はハンサムで機知に富んだカルパンティエにあったが、いかんせんデンプシーの力は別格だった。2回、猛攻をしかけたカルパンティエだが、効果は薄く、逆に右手親指を折るアクシデント見舞われる。結局“蘭”は第4ラウンドで散ったが、その背中には、戦前にも倍する拍手が送られた。

●ジョルジュ・カルパンティエ 1894年1月12日フランス・レンス生まれ。1908年最軽量のフライ級でデビュー。14年ガンボート・スミスに6回KO勝ちで白人世界ヘビー級王者。20年レビンスキーに4回KO勝ちで世界L・ヘビー級王座獲得。22年ジャック・デンプシーの世界ヘビー級王座に挑むがKOで敗退。同年、シキに6回KOで敗れてL・ヘビー級王座失う。戦績88勝56KO14敗6分。


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